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号外






首相 「川内,何とかしますよ」

2014年7月19日05時00分



安倍晋三首相は18日夜,視察に訪れた福岡市内で,貫正義九州電力会長ら九州の財界人と会食した。出席者から九電川内(せんだい)原発(鹿児島県)の早期再稼働を要請された首相は「川内はなんとかしますよ」と応じたといい,再稼働に前向きな安倍政権の姿勢をより鮮明にした。





未完

by yojiarata | 2014-07-21 17:35 | Comments(0)

南方熊楠 の 世界




ご隠居さん 春ごろから,本を積み上げて,何だか熱心に,ゴソゴソやっておられますね。


そうなんだけど,政治の世界の情けなさ,恐ろしさ,バカさ加減が気になって,こちらの方の執筆がなかなかすすまなかったんだ。

だけど,ものごとには,タイミングというものがあるから,このへんで,そろそろまとめに入ろうと 思っています。


***



私がこのブログの執筆に使っている「エキサイトブログ」では,すべての記事が,画面右側の「最新の記事」欄にずらっと並ぶようにできているんだ。

今回の場合にも,「最新に記事」の2番目にある「南方熊楠の世界」をクリックしてもらえば,全部の記事を読めるようになっているんだけど,全体の合計20話の題名が,「最新の記事」の欄にずらっと並んでしまうんだ。鬱陶しいから,フォルダーのような箱を作って,その中に整理したいんだけど,それは「エキサイトブログ」ではできないんだそうだ。


そんなわけで,7月12日の「原発の早期再稼働を訴える経団連」まで,南方熊楠の記事が延々と並ぶことになったんだ。ほかに手段がないから,最新の記事を3件だけと設定してしまったよ。残りの記事は,すべて,「以前の記事」(例えば,2014年5月)をクリックすれば,ずらっと出てきます。


読者諸氏は,「南方熊楠の世界」をクリックして,中に入れば,あとは,「最新の記事」欄に戻ることなく,記事全体を読めるようにリンクなど,念入りに張ってあるからね。




第Ⅰ部  南方熊楠  ひと と 言葉 



第Ⅱ部  南方熊楠  著作・抜読み



第Ⅲ部  南方熊楠  哲学 と 生涯




第Ⅰ部,第Ⅱ部,第Ⅲ部 いずれにも,リンクが張ってありますが,まず,第Ⅰ部から入ってください。


















by yojiarata | 2014-07-20 21:33 | Comments(0)

連載を終わって





***



南方熊楠の著作を,今回ほど細かに読んだのは初めてである。

この世に二人という熊楠の類稀な天才ぶりについては,本文で繰り返し書いた。ここでは,何度も読み返す間に,私が感じた熊楠について書いておきたい。

まず,熊楠の思考過程は極めて定量的である。我々は,理系の人であるか,文系の人であるかを区別して考える傾向がある。

最近では,「リケジョ」なる珍妙な表現が用いられている。驚いたことに,リケジョ( RIKEJO )は,株式会社講談社の登録商標である(登録番号第5304310号)。

話をもとに戻す。熊楠は数字を大切にする。日付の記録,論文の中の数字は,言うまでもなく,理系の文章を書くにあたっての絶対の条件である。

同時に,熊楠は,この定量的な文体を,極めて柔軟に操る。その結果,熊楠の文章は,理系とは無縁の人の頭にも抵抗なく入る。いうなれば,熊楠の書く文章は,理系のものとも言えるし,文系のものとも言える。要するに,熊楠の柔軟性は,実に心地よく,読者の頭に入ってくる。理系とは無縁の文章であっても,実に論理的,筋が通っているので心地よい。


*



屋外の森の中では裸で過ごしたという(多くの写真が残っている)熊楠の文章は,途轍もなく面白い。しかし,熊楠自身も書いているように,内容が“尾籠,猥雑”にわたる部分が少なくない。大爆笑もので,私も大いに楽しんだが,ブログに書き残すにはいささかためらわれる。熊楠の人間像をよりよく知るためには,読者諸氏ご自身で,「全集」に,何処からでもよいから,目を通していただきたい。

資料の整理と執筆は,桜に始まって,気が付いてみると,雨と紫陽花の季節まで続いたが,実に楽しい作業でした。天国の熊楠のオッチャンに心から感謝したいと思います。

平成26年7月末日

荒田洋治





by yojiarata | 2014-07-20 21:23 | Comments(0)

第Ⅲ部  南方熊楠  哲学 と 生涯



 
南方熊楠  巻の九  イギリス に 在って,イギリス と闘う



 
南方熊楠  巻の十  日本の教育



 
南方熊楠  巻の十一  御進講



 
南方熊楠  巻の十二  父と娘







 
連載を終わって



















































































by yojiarata | 2014-07-20 13:08 | Comments(0)

南方熊楠  巻の十二  父 と 娘





***



笠井清
人物叢書 南方熊楠
日本歴史学会編集(吉川弘文館発行,昭和57年12月10日 5刷発行)


340-341
死を覚悟した熊楠は,『今昔物語』の扉(とびら)に,

昭和十六年十二月十六日,神田神保町一誠堂に於て求む。娘文枝に之を与ふ。

と一字一字丁寧に心をこめて書いている。筆者は初め『今昔物語集』をこの期におよんで送った理由を,この物語が彼の愛読書であり,折口信夫(しのぶ)をして,「今昔物語は難解な本で,この注釈は紀州の南方熊楠さんくらゐしか出来る人はないだろう」といわしめたほど精通していた書なので,今生(こんじょう)の形見に贈ったのかと解していたが,後にその真意は,「今後の戦局は予想できず,空襲その他の戦災で家を失い,他に移らなくてはならなくなるような事態を生じたとき,この一冊さえ持っていて,南方の娘であることが分かれば,たれかがまた支援してくれることもあろう」との顧慮であったことを聞き,父としての深い慈愛のこもった遺書であることを知り得た。

・・・・・

二十八日の朝は,いくらか気分がよかったが,その夜いちじるしい病変が現れたので,文枝が「お医者さんをお呼びしましょうか」と問うと,彼は,

もういい。この部屋の天井に美しい紫の花が咲いている。医者が来れば,この花が消えるからよばないでくれ。

と答えたそうで,この詩のような言葉 ― 進講を承った光栄の日,紫の樗の花の咲いていたのを,臨終の脳裡にふと想ったような言葉 ― を最後として深い眠りにおち入り,二十九日午前六時三十分,幸と不幸との入り交じった多事な七十五年の生涯を終った。


南方文枝 『父 南方熊楠を語る 付 神社合祀反対運動未公刊資料』
(谷川健一,中瀬喜陽,吉川寿洋 編集)
昭和57年12月10日第2刷発行
日本エディタースクール出版
77-80ページ

「回想断章」 母 ・・・・・ 昭和十六年父の死とともに,遺稿書籍等,数多の買手が訪れ始めたが,母は保存して置けば,いつの日か日の目を拝むこともあろう,とその散逸をおそれ,頑として聞き入れなかった。

いつまでの父の霊が書庫の中に生き続けて居ると信じてか,お盆が来れば迎火を焚き,第一に書庫をひらき,眼鏡を添えて「さあ,おはいりなさいませ」と挨拶する母であったが,昭和三十年十一月六日菊香る朝,七十七歳の生涯を閉じた。

世事には殊更疎く波乱多かりし学者の夫に仕えて一生を地味に生き抜いた明治生まれの女である。


*



結びに,熊楠の第2子・(長女)文枝のことばを,平凡社版・南方熊楠全集が完結した最終巻の月報から引用します。



『追想』

岡本文枝


南方熊楠全集 月報 12 (昭和 50年 8月)


春夏秋冬の主人の休暇を利用しては,紀州田辺の陋屋に帰り,亡父遺愛の書庫の風通しや防虫剤の入れ替え,そして故人が特に愛し育てた小動物の中で,今なお元気で産卵を怠らない,年を経し魚達の様子や如何にと,とても忙しいスケジュールであるが,数十年間,飽きもせずに,この行事を続けているのである。

閑静な屋敷町に在り,時には海鳴りも聞こえて,今なそ小鳥が庭木に巣をかける。あまり広くもないこの家は,亡父にとっては,七十五歳の生涯の大半を過ごした唯一の安息の場所であった一昨年はすでに三十三回忌を迎えた遠い人であるが,今も夢の中で見るのは,四十,五十代の健康な父であり,筒袖の着物に,自分の父の形見だと大切に扱っていた紫紺色の角帯をきちんとしめた冬姿が,少し暖かくなると,いつも制服のように常用していた,白い襦袢と白い腰巻きの上に幅の広い黒の前掛をあて,右手にルーペを握った父の姿である。

台風で高波の続いた後は,朝早く魚籠を肩に父のお供をして,打ち寄せられた色とりどりの海藻や貝を籠一杯に拾って帰り,その一つ一つの名を教わり,また,標本作りの楽しさを教えられた。自分では紐一つ上手に結べない不器用な父であったが,茸の解剖や標本の作製に取りかかると,まるきり別人の手指の如く馴れた手つきで巧みに扱うので,不思議な気がしてならなかった。





連載を終わって

by yojiarata | 2014-07-20 13:06 | Comments(0)

南方熊楠  巻の十一  御進講



ご隠居さん 熊楠の御進講について,話していただけませんか。

***




御進講 の 経緯



摂政宮殿下,小生多年調査研究の粘菌類標品御覧なされたく,前日よりしばしば御待兼の旨伝達有之,今夕もまた侍講服部博士より催促有之。この状を書き了りて直ちに進献表および図解を認めにかかり申し候付き,本状はこれにて擱筆仕り候。


別巻1 445ページ
南方熊楠全集 別巻第一 書簡補遺・論考補遺 (平凡社,昭和四十九年三月一二日,初版第一刷発行)


*



岩田準一宛ての昭和6年8月の書簡に,熊楠は次のように書いています。

岡崎邦輔氏よりの来信に,小生ごとき官辺に何の関係なき無位無勲の者を召せられ御言葉を再三賜わり死は従前無例とのこと,御臨幸の前に小生一書を山田の妻(名は信恵(のぶえ))に遣わし,四十四年前のはる,尊女の長兄と軽舸を仕立て鉛山(かなやま)温泉へ渡りし見当の所に,今度御召鑑がすわるなり,付いては一つの頼みあり,熊楠は生来放佚にして人を人とも思わず,これが大玭で一切世間に持てず,しかるに今度この御諚あり,いささかも無礼不慎のことあっては一族知人ども一般の傷となる。

仏教に,慧は男,女に勝れ,定は女,男に勝るという,自分は何を信ずるをいう心がけもなければ,かかる場合は神仏を祈念しても誰かはこれを受けん,そこがそれ深川の小唄にもある,「むかし馴染のはりわいさのさ」で,尊女の長兄次兄とずいぶん隔てぬ中だったから,尊女かの二人に代わりて当日,熊楠事なく進講を澄ましてくるればこれに越した身の幸いなしと,一心不乱に念じてくれよ,熊楠は自分に失態あっては尊女の一生に傷を付くるものと思うて,いかな気に入らぬことあるも無事を謀るべし,といいやりしに,空蝉の羽より軽き身を持ってそんな大事に当たり得るとは万思わねど,御申し越しの通り全力を尽くすべし,との返事あり。しかる上は安心と決定して進講準備にかかる。

・・・・・

四日四夜のうちにただ一朝五時より七時までの間の時計を聞かざりしだけ,まずは仮眠したと思う。進講品出来上がりて浴して身を清め了れば,はや出頭の時刻なり。

それより神島へ渡るに当日舟蘯(ゆ)れて何の考えも付かず,何を進講してよいか御さきまっくらなりしが,島で拝謁,進献品に就いて奏上,次に御召鑑で,進講も幸いに標品をそれこれ見計らい持参したから,次から次えと標品の出るに任せて奏上して退きしまで,例の鼻をすすったり咳嗽の一つも出さず,足の一歩も動かさずに事のすみしは,全くラ・ダム・ド・メ・パンセー(わが思いの貴婦)の一念が届いたものと殊勝さ限りなく感じた。後に聞くに,家にあって無事を念ずるよりはその近辺へ出かけて声援否(いな)念すべしとして,姉妹二人長途を馳せ来たり,御召鑑の見ゆる浜辺に立って御召鑑出立まで立ち続けおり,いよいよ煙立ち波湧き出すを見て帰宅の途に就いたとのことなり。

34-36ページ



昭和4年(1929年)
天皇紀南行幸に際し田辺湾神島に駕を迎へ,採集の御案内をなし,次いで御召艦長門に於て進講す


この時の熊楠は,在米時に友人三好太郎からもらった四十年前の明治23年に仕立てた古物のフロック・コートを着て参上したのであるが,後に加藤寛治大将(当時の軍令部長。熊楠のロンドン在住時代には少尉であった知人)が「往日は久方振りの拝姿,相変わらず神気満身之御風格」と熊楠への書信中に賛しており,また野口侍従も後年「かねて奇人・変人と聞いていたので御相手振りもいかがと案ずる向もあったが,さすが外国生活もして来られたジェントルマンであり,また日本人らしく皇室に対する敬虔の念ももっておられた」と追懐している。



笠井清『人物叢書・南方熊楠』
277-278 ページ
(乾元社・旧『全集』 月報二号)より引用


*



無事に進講の任を果たした熊楠は,御紋章入りの菓子二箱を拝領して帰ると,同夜すぐマグネシウムをたいて自分一人のものと,妻と二人のものの記念写真をとらせたんだ。


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御進講当日の南方熊楠と松枝夫人  昭和四年六月一日撮影
南方熊楠全集 第三巻 雑誌論考Ⅰ(平凡社,昭和四十六年十一月二十九日,初版発行)




熊楠は信恵に感謝状とともに拝領の菓子一個を送っているが,筆まめな彼は,その書信中に菓子十二個(煉菓子五,干菓子七)の分配法をくわしくしるしていて,日頃親交のある縁者,小畔・上松・平沼らの高弟,親友・知己にも分け贈ったことがわかるが,そのうち「脇村高女 小生始めに此の地に住みし時,世話になりし家の娘にて,当地高女校長の妻也」とあるのは,壮年の日ひそかに騎士道をもって自らを鞭うっていた多屋の次女高のことにちがいあるまい。また「金崎宇吉(拙宅長屋に住む裁縫師)とあるのは熊楠の家の構内の小さな借家に住んだ洋服屋で,さすがに隣人の庶民を愛した彼らしい分配ぶりである。


笠井清『人物叢書・南方熊楠』
279-281 ページ



*


この進講時のことは,余程陛下の御印象に深く残ったようで,時々宮中でも熊楠のことが話題にのぼり,渋沢敬三(当時蔵相)は,

終戦後のある日,私は陛下に拝謁を賜った際,談たまたま南方先生のことに言及しました所,「南方は惜しいことをした」と申され,ついでニコニコされながら,「南方には面白いことがあったよ。長門に来た折,珍しい田辺付近産の動植物の標本を献上されたがね。普通献上といふと桐の箱か何かに入れて来るのだが,南方はキャラメルのボール箱に入れて来てね。それでいいぢゃないか」と仰せられたことがあります。平素およそ批評がましいことを口になさらぬ陛下として,物心の本質をよく把握される片鱗を漏らされ嬉しく存じましたが,これも南方先生ならばこそ極めて自然であり,陛下も殊の外親しみ深く思い召されたのでありましょう。

と書いています。

人物叢書・南方熊楠
278-279ページ





進講の御沙汰を承っての熊楠の吟詠が遺されているよ。




ありかたき御世に樗(あふち)の花盛り

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(熊楠自身の筆になる書,書かれたのは進講の翌年)
人物叢書・南方熊楠,口絵より





つづく




追記

熊楠の著作全部にわたって登場する人物についての記述は,本書・第九巻 書簡 Ⅲの巻末におかれた「書簡解題」に詳述されています。
南方熊楠全集 第九巻 書簡 Ⅲ(平凡社,昭和四十八年三月一日,初版発行)
625-630ページ
by yojiarata | 2014-07-20 13:05 | Comments(0)

南方熊楠  巻の十  日本 の 教育



ご隠居さん 南方熊楠は,雑誌 『 Nature 』 に,多数の論文を発表しているそうだね。


***



そうなんだよ。今や,『Nature』 や 『Science』 は,自然科学界全体に広がる戦場のようなものだよ。先を争って,これらの「有名誌」に自分の論文を掲載し,有名になり,出世の足がかりにしようとする輩に満ち溢れているんだ。

南方熊楠が五十編を越える論文を発表した Nature は,いまは,多くの研究者が競って論文を送り,インパクト・ファクターに一喜一憂する場に身を落としてしまったよ。しかし,息の長い,地を這うような研究を多年にわたって積み重ねる真のプロフェッショナルが育たない限り,そしてそれが大きな流れとなってアイデンティティが確立されない限り,ファッションとしての平成維新は起こっても,経済大国日本が世界から尊敬を集め,真に国際的に貢献することは難しいのではないでしょうか。国をあげての理解と努力を待つのみです。

荒田洋治 『日本の科学行政を問う』 (薬事日報社,2010)


*


余計なことかもしれないけれど,ここで書いたことは,世の中を賑わせている「理研」の事件の遠因でもあるんだよ。

熊楠は, 『Nature』 に50編の論文を出しているんだけど,これは,彼の仕事のほんの僅かな業績に過ぎないんだよ。


*



別巻1(昭和49年3月12日,初版第1刷)
上松蓊しげる宛書簡
63ページ 大正8年

これは貴下へばから始めて申し上ぐることながら,明治二十六年(小生二十七の時)御存知の『ネイチュール』 (世界で有名な週刊科学雑誌で,その社長ロッキャーは会いしことあるが実に倨傲無比の老爺なり) 何十年とかの祝い号を出し,当時高名の進化論の先達ハクスレーが序をかき,科学に大功ありし人という意気込みで 『ネイチュール』 寄書家中高名の輩の名を列し候。すべて三百人か四百人ありしと記憶す。それに日本より名井でしは伊藤篤太郎氏(ケンブリッジ大学卒業,林娜(リンネウス)士学院会員)と小生と二人なりし。二人とも官学に関係なきもの,ことに小生は自学にて当時馬部屋の二階に一週十シリング(二円五十銭)の安値で下宿致しおり,魯国のシカゴ総領事オステン・サッケン男(縄蚊類の一,二を争う大学者)が小生に感謝すべきことありて,

・・・・・


日本の教育



・・・・・ 小生は今日の日本ごとき教育の仕方,すなわち本人の心底から好まぬ学課を何もかも一様につめ込むは,三味線の嗜好なきものに前餅をやりて毎夜定式の義太夫を聴きに傭うようなものにて,いわゆる今の学者は人のためにするもので大なる徒費空労と存じ申し候。

それよりは英米のごとく教育は高等小学くらいで止め,それより上はポリテクニク・インスチチュートごときものを市立町立にし,かってに好きなものを聴きにゆき,ことにはドイツごとく理化学の試験くらいは店にひまあるごとに小僧も走り往きて勝手に行ない得るように致し,さて多少の経験ありと認めたものには,幾年間この学を習うたという証明状を与え,それを便りに新紙へ広告して化学ずきの者は薬店へ,手工好きは職場へ,という風に傭わせ,給料を割いて自ら書を購い,または図書館,博物館に通いみずから好むところを自習し得るように致すが第一を存じ申し候。



語学の学習



語学なども,小生は半ヵ月で大抵自分行き宿りし国の語で日用だけは弁じたり。これも日本のやり方とかわり,みずから話すよりは人の話を聞き分ける稽古に酒場(バー)などへ通い,のろけ話,借金のことわり,法螺話,賃金の催促,それから喧嘩口論など一切耳を傾け聞きおれば,猴(さる)が手を打つとか蟻がすねをかじるとか,一年に一度も入用なき語を学ぶよりは手とり早く 「もちっと,まけろ」 「いやそれは難題だ」 「あのしめてれつは すごいほどよい」 「手にもおえない代物だ」 などを初歩として,一語一言はさしおき,一句一般の成語が分かり易く候。

さて物の名や事の名は 「汝はこれを何と呼ぶか」 という一語さえ話し得れば誰でも教えくれ申し候。前置詞すなわち日本で申さばテニヲハ,これだけは六,七十ぜひおぼえるが必要なれど,他のことは別段書籍に拠らずともじきに分かり申し候。それから読書の一段になると,欧米には対訳本というもの多く有之,一頁が英語一頁が伊語という風に向い合せに同一の文を異語でかきあり,それを一冊も通読すれば読書は出来申し候。その上むつかしき字は字書で引くに候。これほどのことも今に気が付かぬに付けても,左様に早く覚えられては師匠や係員が食えぬようになるという心配から今に実施せぬことと存じ申し候。

これよりガラス屋へ障子直しに罷り越すゆえ擱筆仕り候。

早々以上



南方熊楠『教育ヲ主トスル文』(明治13年)


結びに,南方熊楠 『教育ヲ主トスル文』 (明治13年)より引用するよ。

これは,南方熊楠が和歌山中学校在学中,十三歳一ヶ月で執筆した作文です。やはり,熊楠は物凄い人だね。


是ヲ以テ人ノ父母タルモノ,

子ニ旨味ヲ食セシメ繡錦ヲ着セシムル事ニ注意センヨリハ,

当ニ幼時ヨリ学術ヲ勉励セシメ,

人道ヲ了知セシムル事ヲ務ムベキナリ


『南方熊楠全集 第十巻』 英訳方丈記・英文論考・初期文集他 (平凡社,昭和48年11月12日,初版第一刷発行) 7ページ(原文のまま)。






つづく

by yojiarata | 2014-07-20 13:04 | Comments(0)

南方熊楠  巻の九  イギリス に 在って イギリス と闘う



ご隠居さん 「闘う」 とタイトルに書いてあるんだけど,熊楠は物理的に,喧嘩したの?


***



その通りだよ。喧嘩速い,癇癪持ちで変人の熊楠先生の 「武勇伝」 が面白,おかしく伝えられているよ。だけど,話半分としておいた方が良いよ。


南方熊楠全集7 書簡Ⅰ(昭和46年8月9日,初版)
18-19ページ



大和魂



・・・・・ 小生大英博物館に或るうち,独人膠州湾をとりしことあり。東洋人の気焔すこぶる昂(あが)らず。その時館内にて小生を軽侮せるものありしを,小生五百人ばかり読書する中において烈しくその鼻を打ちしことあり。それがため小生は館内出入を禁ぜられしが,学問もっとも惜しむべき者なりとて,小生は二ヵ月ばかりの後また参観せり。当時このこと『タイムス』その外に出て,日本人を悪(にく)むもの,畏(おそ)るるもの,打たれたものは自業自得というもの,その説さまざまなりし。小生はそのころ日本人がわずかに清国に勝ちしのみで,概して洋人より劣等視せらるるを遺憾に思い,議論文章に動作に,しばしば洋人と闘って打ち勝てり。




オランダ人学者との論争とその結末




オランダ第一の支那学者グスタヴ・シュレッゲルと『正字通』の落斯馬という獣の何たるを論じてより,見苦しき国民攻撃となり,ついに降参せしめて謝状をとり今も所持せり。(これは謝状を出さずば双方の論文を公開してシュレッゲルの拙劣を公示すべしといいやりしなり。)落斯馬(ロスマ)と申すは Ros Mar (ロス マール)「もともとルビです!」(馬 海の)というノルウェー語の支那訳なり。十七世紀に支那にありし Verbiest (南懐仁という支那名をつけし天守僧なり)の『坤輿図説』という書に始めて出づ。」これを,その文を倉皇読んで Nar Whal(ナル ウワル)(死白の 鯨)(一角魚(ウニコール))とシュレッゲル言いしなり。これより先ライデンより出す『人類学雑誌』(Archiv für Ethnologie )にて,シュレッゲル毎々小生がロンドンにて出す論文に蛇足の評を加うるを小生面白からず思いおりしゆえ,右の落斯馬の解の誤りを正しやりしなり。しかるに,わざと不服を唱えていろいろの難題を持ち出だせしを小生ことごとく解しやりしなり。

さていわく,汝シュレッゲルが毎度秘書らしく名を蔵(かく)して引用する(実は日本ではありふれたる書『和漢三才図絵』に,オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし,とある。むかしギリシアに,座敷が綺麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると,汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人,汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるといえり。汝は日本人に向かって議論を吹きかけながら,負けかかりたりとて勝つ者に無礼よばわるをする。実は片足挙げて小便する犬同様の人間だけありて(欧米人は股引(ももひき)をゆえ片足を開かねば小便できず,このところ犬に似たり),自分で自分の無礼を気づかざるものなり,と。いわゆる人を気死せしめるやり方で,ずいぶん残念ながらも謝状を出したことと思う。


また前述ジキンスのすすめにより帰朝後『方丈記』を共訳せり。『皇立亜細亜協会雑誌(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)』(一九〇五年四月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人を先に名のるを常とせるを,小生のちから,居多なれば,小生の名を前に出さしめ A Japanese Thireau of the 12th Century, by クマグス・ミナカタおよび F.Victor Dickins と掲げしめたり。しかるに英人の根性太き,後年グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの 『方丈記』 を収め出板するに及び,誰がしたものか,ジキンスの名のみを存し小生の名を削れり。) しかるに小生かねて万一に備うるため,本文中ちょっと目につかぬ所に小生がこの訳の主要なる作者たることを明記しておきたるを,果たしてちょっとちょっと気づかずそのまま出したゆえ小生の原訳たることが少しも損ぜられずにおる。




方丈記の英語訳



前年遠州に 『方丈記』 専門の学者あり。その異本写本はもとより,いかなる断紙でも 『方丈記』 に関するものはみな集めたり。この人小生に書をおくりて件(くだん)の 『亜細亜(アジア)協会雑誌』 に出でたる 『方丈記』 は夏目漱石の訳と聞くが,果たして小生らの訳なりやと問わる。よって小生とジキンスの訳たる由を明答し,万国袖珍文庫本の寸法から出板年記,出版会社の名を答えおきぬ。またこの人の手より出でしにや,『日本及日本人』 に漱石の伝を書いて,その訳するところの 『方丈記』 はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出づ,とありし。大正十一年小生上京中,政教社の三田村鳶魚(えんぎょ)氏来訪されしおり,原物を示して正誤せしめたり。大毎社へ聞き合わせしに,漱石の訳本は未刊にて,氏死すとき筐底に留めありし,と。小生は決して漱石氏が生前かかる法螺を吹きたりとは思わざるも,わが邦人が今少しく海外における邦人の動作に注意されたきことなり。



再び喧嘩について



(上村蓊 南方先生を偲ぶ座談会)
笠井清 『人物叢書 南方熊楠』(日本歴史学会編集)(吉川弘文館,昭和57年12月10日 5版発行)
「六 在英時代」 

喧嘩したのは二度ほどで,その一ペンは相手は大英博物館にいる学位をもった役人で,若い学士タムソンであった。なんでもサンスクリットに関する問題とかで,その時にもやっぱり南方先生に見事にやっつけられ,ぐうの音も出なかったという。ところがこの時のことをいつまでも根にもって,何かにつけて意地悪な御殿女中がいぢめのような,それはもう我慢のならぬ仕打ちをして先生をいぢめつけはじめた。で,とうとう先生は,「この野郎,生かしちゃ置けぬ」とばかり,酒の気も手伝い,いきなり相手の鼻に嚙(か)みついて,いやという程高い鼻をいためつけてやったという。日本でも昔はその様な奴は伝家の一刀をもって成敗したものだ。


・・・・・

二回目の追放後,小説家アーサー = モリソン が,熊楠の学才を惜しむあまり,同館の評議員である英皇太子(後のエドワード七世)・カンタベリー大僧正・ロンドン市長の三人に歎訴状を出し,また東洋部長ダグラスも百方尽力してくれて,復館することが出来たが,その条件として,熊楠はダグラスの部屋で読書し,他の閲覧者と同列させないということであったので(これはまた暴行事件を生じない予防策であったろう),彼は「ダグラス男監視の下に読書せしむるは,発狂のおそれあるものと見てのこと」と不快に思い,ついにダグラスに一書を呈して大英博物館から永久に去って行ったという。




スアレス,かみつき認め謝罪 サッカーW杯ブラジル大会


2014年7月2日

試合中にイタリア代表DFキエリーニにかみつき,国際サッカー連盟(FIFA)から 9 試合出場停止と4カ月間のサッカー活動全面禁止などの処分を受けたウルグアイ代表のFWスアレスが6月30日,ツイッターで自らの行為を認めて謝罪した。

・・・・・

スアレスは過去にもクラブで2度,かみつき行為による処分を受けた。(時事)



*



なお,喧嘩の件は,熊楠自身の手によって柳田國男宛の書簡に次のように書かれているよ。

柳田國男宛書簡
南方熊楠全集 第八巻 書簡Ⅲ
昭和四十七年四月二〇日 初版発行

437-438 ページ

大正3年6月


小生在英のころ,アーサー・モリソンという人を交わり厚し。小生大英博物館で大喧嘩し抛り出されたとき,即日,南ケンシントンへ世話して技手にしてくれた人なり。小生,毎々動物園へつれゆき動物の講釈するに,その礼なりとて,サベージクラブで饗応さる。往って見ると,昨日小生座りし処に,プリンス・オヴ・ウェールス(今より見れば前皇エドワード七世)座し,当日このクラブへ招きし北氷洋探検家ナンセンに頼み,小生の眼前なる柱に小刀でその名をきりこませたりとて示さる。小生何のことやら分らず,モリソンごときつまらぬものが英皇と等しくこのクラブ員たること合点行かざりし。しかるに,一昨々年新板の 『大英類典』 を見るに,従来の例を破り,まだ死なぬ人もよほど高名の人は伝を出すことにしあり。その内に,モリソン伝短くながらあり。よほど有名な小説家と見えたり。

小生と三年ばかり親交し,小生毎々その宅へ歌麿の浮世絵などの詞書をよみやりに行きし。しかるに,この人一語も自分のことをいわず。ただわれはもと八百屋とかの丁稚なりし,外国語は一つ知らず,詩も作り得ず,算術だけは汝にまけずと言われしのみなり。小生誰にも敬語などを用いぬ男なるが,ことにこの人の服装まるで商家の番頭ごときゆえ,一切平凡扱いにせし。只今『大英類典』に死なぬうちにその伝あるを見て,始めてその人非凡と知れり。(『金椏篇』 のフレザーすら,かく有名なるに,その書は多く引かれながら,その伝は見えず。)

この人,平生小生の英文を見,ロンドンにある外人中,貴公ごとく苦辛して英文を書くものはあるまじ(これは小生一文作るに,必ず字書をしばしば見,なるべく同意味の語に異文字を多くつかうなり。かくせざれば長文は人が見あくなり),今十年も修燎せば大文章家とあるべし,マクス・ミュラルなど学問はえらいが,英文は軽忽にかくゆえ,熊楠の文ほど練れおらずとて,その例を示されし長文の状,今も保存す。



*



大英博物館での一連の出来事の遠因となった人種問題について,熊楠はまた,明治44年10月の柳田宛の書簡に次のように書いているよ。

213ページ


 ・・・・・ 欧人の足長くキリギリスのごとし。日本人は,足短し。これらのことはおのおの長短あり。みずから我執して他を醜とするは公論にあらず。南ケンシントン美術館に,むかしの大名の乗り物に幽艶きわまれる三十歳前後ぼ宮女の美婦が懐剣を持ち,紫紅澯爛たる絹衣をきて正座せる像あり。これらはさすがの欧人も感称措く能わざるところなり。要は,日本流に座し,日本流の装いせば日本人の方観美を極め,欧人欧装して欧行すれば欧人の方美なりと知るべし。







つづく

by yojiarata | 2014-07-20 13:03 | Comments(0)

第Ⅱ部  南方熊楠 著作・抜読み



 
第一話  丸 と 麿



 
第二話  アリストテレス と 猴



 
第三話  お風呂 の 起源



 
第四話  餅 を 福 称うること



 
第五話  マルコ・ポーロ の見た アナコンダ



 
第六話  砂糖 と 塩



 
第七話  兎 と 亀 の 話



 
第八話  草花 の 話



 
第九話  ウィグル族 の こと



 
第十話  桃太郎伝説



 
第十一話  熊楠 サイエンス と 哲学 を 語る



 
第十二話  石油 と ヘリウム



 
第十三話  ストライキ の 歴史



 
第十四話  ペリー と ハリス



 
第十五話  セレンディピティー



 
第十六話  エコロジー



 
第十七話  人柱 の 話



 
第十八話  「ロンドン・ブリッジ」 と 「燈台鬼」





筆者注

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南方熊楠 第Ⅲ部へとぶ

by yojiarata | 2014-07-20 08:57 | Comments(0)

第十八話  「ロンドン・ブリッジ」 と 「燈台鬼」







***




私の二冊



熊楠にまつわる話とは,直接には関係ないんだけど,ここで,私自身が付け加えたい二冊の本があるんだ。本箱から見つけて,ここに持ってきたよ。どちらも,熊楠の 『人柱の話』 を読みなおしていて,ふと思い出したんだ。



*



平野敬一 『マザー・グースの唄 イギリスの伝承童謡』

(中公新書,昭和47年11月1日6版,中央公論社)





なお,平野敬一の文章に出てくるオーピーとは,ピーターとアイオーナ(夫妻)を指しています。


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OXFORD AT THE CLARENDON PRESS
Printed 1973 (with corrections)




・・・・・ 特にこの夫妻編の『オックスフォード版・伝承童謡辞典』(一九五一年刊)は,五百篇あまりの伝承童謡について,いままで判明したかぎりの事実や諸説をかかげて解説したもので,イギリスの伝承童謡の研究史において,文字通りモニュメンタルな仕事となっている。



イギリスの伝承童話 『マザーグースの唄』 の中の良く知られているものの一つ

「ロンドン・ブリッジ」

オーピーが『童謡辞典』に採録している十二歌節の唄のほうが,現在一般に歌われ,遊戯に使われることが多い。歌節の数だけでなく,歌詞もかなり違っている。たとえば第1節は,


ロンドン・ブリッジがこわれた,

こわれた,こわれた,

ロンドン・ブリッジがこわれた,

マイ・フェア・レイディー。



というふうに,繰り返しの多い,私たちに耳なれたものになっている。内容的には八歌節の歌より複雑になり,橋梁工事の材料が,まず木と粘土,次いで煉瓦とモルタル,さらに鉄と鋼(はがね),さいごに金と銀というふうにエスカレートし,その金と銀の盗難を防ぐために番人を置け,番人のいねむりを防ぐために一晩中パイプ・タバコを吸わせろ,というふうに話が展開するのである。版によっては,番人のほかに犬が加わったりすることもある。



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The Oxford Nursery Rhyme Book
800 Rhymes 600 Illustratins Assembled by Iona and Peter Opie
With additional illustrations by Joan Hassall
Oxford at the Clarendon Press
Reprinted with corrections 1973




以上が「ロンドン・ブリッジ」の唄の概要なのだが,これほどわからないことだらけの唄も珍しい。いったいこの橋梁工事が,次々と材料を変えても,うまくいかないのはなぜだろう。

・・・・・

童謡は童謡として,子供のような気持ちですなおに受け取るのが本筋だという考えが オーピーの仕事の底にあるように思われる。そのオーピーも,ことこの「ロンドン・ブリッジ」の唄になると,次のような口調でその神秘的不可解さを力説してやまないのである。「たえず架けなおさなければならない,ある神秘的な橋と,遊びながら ― その遊びにも恐怖がかすかな影を落としている ― 無心に唄を歌っている子供たちと,そういうイメージを喚起するこの唄ほど人の想像力をゆり動かす唄はまれである。 ・・・・・ これは昔々の暗い恐ろしい儀式の記憶をとどめているといっても差し支えない数少ない ― おそらく唯一の―例である」と。

暗い昔の記憶がこの唄にある,とオーピーは珍しいほど強い口調で断定するのである。

・・・・・

イギリスのロンドン橋にしても,史実をたどってみると,造っては流されたということが繰り返されたのは,十世紀から十二世紀にかけてのことであり,十三世紀初頭ヘンリー二世時代に架けられた石造のロンドン・ブリッジは,一八三二年にとりこわされるまで,実に六百年以上もその堅固さを誇っていたのである。テムズ河に何度橋を架けてもそれが流されるという事態が,イギリス人に実感されていた時代を求めるとなると,やはり中世まで遡らなければならないのである。

・・・・・

ところで,材料に石を使ったら,うまく橋が架かったというだけなら,なんの変哲もない話になるのだが,この唄のもっと長い十二歌節の形の唄が示しているように,話にはまだ先があり,さいごに「番人」(ウオォチ・マン)が登場するに及んで,ようやくこの難工事完成のめどがつくのである。

・・・・・

つまり,オーピーの解釈によれば,この「番人」というのは,じつは橋梁工事の生けにえにされた人柱を象徴しているのだという。土台に生きた人を埋め込むことによってはじめて工事を完成させることのできた遠い昔の暗い記憶 ― これがこの一見さりげない「ロンドン・ブリッジ」の唄に名状しがたい不気味さを与えている,というのである。イギリスの伝承童謡の中に,こうゆういわば民族の集団的記憶を底に秘めたものがあり,それが伝承童謡の不思議な生命力の保証となっている場合が少なくないのである。



*



南條範夫 『燈台鬼』

(集英社,新日本文学全集 第二十六巻,南條範夫・新田次郎集,昭和三十九年五月二十七日発行)



書出しから,引用を始めるよ。


唐の大暦十四年三月上巳(じょうし),代宗皇帝が在京各国の使臣を蓬萊宮にまねいて曲水の宴を催した時,ちょっとした紛争が起こった。

皇帝出御の少し前,列国の使臣たちが参入して,各々定めの席に案内されたが,日本の遣唐使小野石根(いわね)は,指し示された席に就こうとはせず,らんらんと輝く眼で殿内を眺め渡した揚句大音声で叫んだのである。

「この席次は我等承服致し難い。見れば東れつには新羅(しらぎ)が大食国(サラセン)の上,第一位にあり,我は西列,吐蕃(チベット)の次におかれている。新羅は我朝に朝貢すること久しい国であるにも拘らず我国より上席に位するは如何なる訳でござるぞ。接待係の手違いか。速かに我等の席と新羅使臣の席とを換えて頂き度い」

・・・・・

「この事は既に玄宗皇帝天宝十二年正月朔日拝賀の席上,我遣唐使大伴古麿が主張し,唐朝に於てもしかと認められた筈である。今更それを覆(くつがえ)されては,何の面目あって日本へ戻れましょうぞ」



『燈台鬼』は,遣唐使・小野石根が辿ったその後の運命の道を,淡々と描いた怖ろしくも悲しい作品です。



いつまでたっても唐から帰ってこない父親を探しに,唐にわたった石根の一子・道麻呂は,楊州で節度使の別邸に招かれる。道麻呂は,乞われて,歌を歌った。

「秋萩を妻問う鹿(か)こそひとり子に,子持たりと云え,かこじもの,我が独り子の草枕 ― 」

京を出る時,母が贈ってくれた歌である。

唱っている間に,彼の眼の前の明かりが,二三度大きく動いたのを感じた。

風は全くない夜である。

・・・・・

びしりびしりと,きびしい鞭の音がした。

・・・・・

「客人には今迄お気がつかれませなんだか。あれは,燭台は燭台でも,人間の燭台 ― 燈台鬼と云うものです。本物の燭台のように完全に静止しているのが値打なのですが,彼奴,怠け心を起して身動きをしおったので,鞭打たれているのですよ」

道麻呂は立ち上がって,その人間燭台の方へ歩いて行った。一番近くの燈台鬼の前に立ってよく見ると,なるほど生身の人間である。

下帯一つ,全身不気味な絵具で彩られ,顔は悪鬼の相にかたどられている。両手両足の頚は背に立てられた三尺余りの鉄くいに,鎖でしっかり縛られており,頭には鉄の箍(たがね)がはめられ,そこに十本の蠟燭が立てられていた。

融けた蠟が額から頬に流れて固まり,人の顔とも思われない怖ろし気な相貌をしたその燈台鬼は,まだ二十歳をいくつも出ていないと見える逞しいからだをしていたが,憤怒と怨恨との交錯した凄愴な瞳を光らせて道麻呂を睨みつけていた。

道麻呂は思わず眼を外らせて次の燈台鬼の前に立った。

・・・・・

哀願と絶望の色を小さな瞳一杯にたたえて,おどおどと道麻呂を見るのである。道麻呂は耐え切れなくなって,自分の席に戻ろうとしたが,傍に残ったもう一つの燈台鬼が先程強く鞭打たれたのだと気付いて,ふと,その方へからだを向けた。

骨組は大きいが,肉はすっかり落ち,首すじの辺りに僅かに残った毛の白いのをみれば,齢も六十を超えているのであろう。涙を滲ませた両眼をぴたりと閉じてるが,何かを必死の思いで耐えているような激しいものが,鼻翼から口辺にかけての筋肉を微かにふるわせ,あばら骨のみえる胸が,はっきりとそれと解るほど上下に波打っている。

・・・・・

燈台鬼の,睫毛の一本もない上瞼がピクピク動いた。その瞼が,それ程大きく開かれようとは思いも掛けなかった程大きく開かれ,鈍く澱んだ視線が,じっと道麻呂の顔に注がれた。次の瞬間,燈台鬼は,

「ぐわッ」

と奇矯な叫びを発し,首を前につき出すと,上下の歯で唇を喰い破った。たらたらと床の上に滴った血潮を,足の指先につけて,

― 石根



と書いたのである。




物語はこの後も続くけど,ここはここで終わることにします。


ともあれ,この作品は,滅多に出会うことのない,後世に残る「歴史サスペンス」の傑作だよ。

なお,『燈台鬼』 のことは,筆者がまだ学生だった頃,尊敬する大先輩・松尾壽之博士(宮崎医科大学医学部教授,平成元年国立循環器病センター研究所長,平成9年に名誉所長。平成22年,文化功労者。平成14年4月から平成15年9月まで宮崎医科大学長。)に教えていただいたんだ。あれから,かれこれ60年近くになるね。





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by yojiarata | 2014-07-20 08:55 | Comments(0)