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車寅次郎 故郷を唄う



NHKラジオ深夜便を聴くとはなしに聴いていた昨夜(正確には,平成25年5月29日未明)。

寅さんの唄が聴こえてきた。寅さんの「故郷」をはじめて聴いた。


故郷

尋常小学唱歌,第六学年用,1914年(大正3年)



兎追ひし 彼の山

小鮒釣りし 彼の川

夢は今も巡りて

忘れ難き 故郷



如何にいます 父母

恙無しや 友がき

雨に風につけても

思ひ出づる 故郷



志を 果たして

いつの日にか 帰らん

山は靑き故郷

水は淸き 故郷




寅さんはどんな思いで,「故郷」を唄ったのだろうか。
by yojiarata | 2013-05-29 23:08 | Comments(0)

ピエール・ロチが見た近代日本の夜明け  鹿鳴館からの出発 





江戸幕府が1850年代にアメリカ,ヨーロッパ諸国とつぎつぎに結んだ条約は,外国人の犯罪を日本人が裁くことのできない治外法権,輸出入の関税を日本人が決定できない関税自主権欠如の問題などによって,発足したばかりの明治政府を悩ませていた。

西欧列強の壁は厚く,条約改正交渉が難航するなか,外国人の関心と理解を得るにはまず,西欧式の社交場が必要であると主張した当時の外務卿(外務大臣)井上馨が推進役となり,明治16(1883)年,東京麹町区内山下町(現在の日比谷公園付近)に,洋風二階建の鹿鳴館が完成した。中世の時代には現在の銀座は未だ海の中だった。東京湾からさほど遠くない,潮の香りのする広大な野原に突如として出現した鹿鳴館では,政府要人・華族や外国使臣による華やかな夜会・舞踏会などが行われた。

欧米の先進工業技術を導入するため,明治政府によって工部省が設立された。鹿鳴館の設計にあたったのは,その工部省の招聘によって明治10(1877)年,24歳で来日したイギリス人の建築家・Josiah Conder (その当時からコンドルとよばれて今日に至っている)だった。

コンドルは,来日した後の44年の大半を日本で過ごし,大正9(1920)年に日本で亡くなった。上野博物館,ニコライ堂(御茶ノ水)などさまざまな建物の設計にたずさわったコンドルは,辰野金吾,曾彌(そね)達蔵,片山東熊(とうくま)など多くの建築家を育てた。辰野金吾の設計により大正3(1914)年に完成した東京駅は,今年に改築工事が完了したがいまもなお当時の面影を残している。

コンドルのひとと業績について興味をもたれた読者は,畠山けんじ『鹿鳴館を創った男 お雇い建築家 ジョサイア・コンドルの生涯』河出書房新社,藤森照信『日本の近代建築(上)-幕末・明治篇』岩波新書をお読みください。西欧文明の導入に奔走する明治政府とその時代が改めて浮かび上がってきます。

鹿鳴館の時代の真っ只中,明治18(1885)年夏に来日したフランス海軍の将校ピエ-ル・ロチ(1850-1923)は,その年の晩秋にかけて日本各地を旅し,帰国後,『お菊さん』(岩波文庫),『秋の日本』,『ニッポン日記』,『日本の婦人たち』,『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』 などの作品を発表した。長期間にわたって日本で暮らした経験のある“親日家”(例えば,ラフカディオ・ハーン)の手になるものとはまったく異なり,フランス人のロチがはじめて目にする日本の印象が冷えた眼差しで鋭く克明に綴られている。

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船岡末利編訳『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』 (有隣堂,1979)
右はピエール・ロチ,中央にお菊さん,左はロチの部下で親友のピエール・ル・コル


『秋の日本』 (角川文庫)に収録されている 『江戸の舞踏会』 の冒頭には,明治18年11月,横浜湾に停泊中に ロチのもとに “隅々を金泥で塗った一枚の優美なカード” が届いたこと,カードの裏には,英文で“お帰りには特別列車が 午前1時に Shibachi (新橋) 駅を出ます”と書かれていたことが記されている。

『江戸の舞踏会』には,天長節の夜の鹿鳴館の一部始終が驚くほど克明に描写されている。芥川龍之介は,この『江戸の舞踏会』をそっくりそのまま“縮小コピー”したような短編『舞踏会』を書いている。なぜそんなにまでして小説を書かなければいけなかったのか,筆者には理解不能である。出来上がった作品自体も,子供っぽくセンチメンタルなもので決して上等なものではない。

『日本の婦人たち』(船岡末利編訳『ロチのニッポン日記 お菊さんとの奇妙な生活』に収録)には,鹿鳴館についてのロチの印象がつぎのように記されている。

【千年の形式をもつ驚嘆すべき衣裳や大きな夢のような扇子は,箪笥や博物館の中に所蔵され,今はすべてが終わってしまった。・・・・・

命令は上からやって来た。天皇の布告は,宮廷の婦人たちに,ヨーロッパの姉妹たちと同じ服装をすることを命じた。人々は熱に浮かされたように生地そ,型を,仕立屋を,できあいの帽子をとり寄せた。こうした変装の最初の衣裳合わせは密室の中で,おそらく慙愧と涙と共に行われたにちがいない。だが,誰知ろう,それ以上に笑いと共に行われたかもしれぬことを。それから人々は外国人を見学にくるよう招き,園遊会,舞踏会,コンサートなどを催した。大使館関係で以前ヨーロッパを旅行する機会に恵まれた日本婦人たちが,早のみこみの驚くべきこの喜劇の模範を示した。

東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は,まったくの猿真似であった。そこでは白いモスリンの服を着て,肘の上までの手袋をつけた若い娘たちが,象牙のように白い手帳を指先につまんで椅子の上で作り笑いをし,ついで,未知のわれわれのリズムは,彼女たちの耳にはひどく難しかろうが,オペレッタの曲に合わせて,ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊るのが見られた。・・・・・

この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが,根本的には,この国民には趣味がないこと,国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。ヨーロッパのいかなる民族も,たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ,こんなふうにきょうから明日へと,伝統や習慣や衣服を投げ捨てることには肯んじないだろう。】

この部分だけを読むと,“言いたい放題”という感じがして,日本人の一人として決して愉快ではないが,これが現実だったことは容易に想像できる。鹿鳴館の舞台を盛り上げるために,大山巌元帥夫人の捨松をはじめとする多くの貴婦人たちが活躍した。近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』(講談社)を読むと,貴婦人たちの立ち振る舞いを通じて鹿鳴館の夜会が鮮明に浮かび上がってくる。貴婦人たちは,慣れない西洋風の衣裳の着用にも苦心した様子で,大山捨松夫人は衣裳を締め付けすぎて卒倒したことがあったとも言い伝えられている。

鹿鳴館をめぐる人間模様については,さまざまな小説が書かれ,映画になり,また,いまでも劇場で上演されている。例えば,三島由紀夫が文学座の20周年記念公演のために書いた戯曲『鹿鳴館』は,文学座の当り狂言となった。筆者は,鹿鳴館のことを思うたびに複雑な心境になる。いまに続く西欧文明に対する日本人の抜き難い劣等感の源流にどうしても思いがいくからだ。

鹿鳴館を知るための縁となる記録は必ずしも多くは残されていない。ここでは,コンドルとほぼ同時代,明治15(1882)年から明治31(1898)の18年間にわたって日本に滞在し,日本を描きつづけたフランス人画家ビゴー(1860-1927)の作品を転載するにとどめる。

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鹿鳴館の月曜日 ダンスの練習(ビゴー,明治二十年)
清水勲編 『続 ビゴー日本素描集』 (岩波文庫)


***


日本古来の文化遺産に深く感動したロチの眼には,西欧の薄っぺらな模倣に過ぎない鹿鳴館で行われた舞踏会が喜劇としか映らなかったのであろう。ともあれ,文明開化の激動の時代に日本を訪れ,その印象を書き残したロチの作品は,日本古来の文化が西欧文明の波の中でどのように揺れ動いていたかを知る上で,極めて貴重な資料である。大変に残念なことに,ロチが深く感銘を受けた日本古来の伝統は,ロチの願望とは裏腹に,急速に失われつつある。

1891年,フランス文人の最高の地位であるアカデミー・フランセーズの会員に41歳の若さで選ばれたロチは,海軍軍人として海の上で40年以上を過ごしたあと,明治30(1900)年に2度目の来日をしている。

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ピエール・ロチ


1923年,73歳でこの世を去ったロチを,フランスの当時のポアンカレ内閣は国葬をもって送った。
by yojiarata | 2013-05-25 22:50 | Comments(0)

政治家の身勝手な御都合主義 



その1 川口順子参議院・環境委員長の解任騒動

中国で開催された国際会議の発起人の一人である川口参議院・環境委員長が,参議院の了解を得て23,24日に公務で出張した。ところが,中国の外交を統括する楊潔篪・国務委員が,川口委員に25日の朝に会うことになり,参議院の了承が正式に得られぬまま,25日に楊潔篪・国務委員と会談した。

その直後,安倍晋三総理,高村正彦・自民党副総裁が口をそろえて,

” 川口議員が25日に楊潔篪・国務委員と会談したことは極めて意義深く,大いに評価したい。”

問題は,成果の意義深さではない。同議員が一日滞在を伸ばしたことによって,25日に東京で予定されていた委員会が,委員長不在で成立せず流会となったことである。

規則は規則だ。総理,副総裁は政治のルールを守らねばならない。

解任された後,川口議員は,不満をぶちまけているけれど,規則は規則です。議員さん達は,いつも声高に規則,規則と主張しているではありませんか。

 
その2 閣僚の靖国神社参拝

安倍内閣の閣僚の靖国神社参拝に,中国,韓国などから,批判がでている。

安倍総理は,

” 靖国神社は,我が日本の今日の礎を築くために命を落とした多くの日本人の魂の鎮魂のためのものである。我々は,国民をあげて大切にしなければならない。”

そんなことは,一一言われなくても,わかっている。靖国神社を訪ねれば,二十歳前の若者が,特攻隊員として出撃する前日,父母に宛てて書いた手紙が展示されている。日本人なら,涙なしには読めない。

しかし,問題は別のところにある。靖国神社には,A級戦犯が合祀されている。この点に世界の理解が得られない限り,問題の解決にはならない。

安倍総理の祖父・岸信介・元総理も,極東国際軍事裁判で,A級戦犯の判決を受け,断罪されていたら,ここに葬られていたはずである。
by yojiarata | 2013-05-16 22:52 | Comments(0)

鉄道マニアの今昔



私の中学生時代は,昭和20(1945)年から昭和23(1948)年の3年間。

宇野線  宇野 →  →   →  → 妹尾 → 大元(おおもと) → 岡山 (終着駅)

昭和20年6月28日に空襲で我が家が全焼,母の実家で一家で居候をしていた。中学校までは一里余り。母の実家から大元駅まで徒歩20分,大元駅から汽車で10分,岡山駅から市電で15分で学校に着く。

汽車で10分といったが,実際には,” われわれ生徒は,貨物を載せて運ぶ車両に押し込められ,岡山駅まで運ばれた” と表現するのが当たっている。

色々なことを思い出す。

我々は,箱,すなわち貨物の車両にギュウギュウ詰めにされて,次の駅まで運ばれた。記憶によれば,箱に詰められて運ばれたのは,男子だけ。女学生だって大勢居ただろうに。 それに,当時はセクハラなんて概念は存在しなかった。何故男子だけだったのだろう。我が歴史の謎である。

箱のなかでは,先輩たちの ”鄙猥な話” を散散聞かされた。これが面白くて大変勉強になった。

そして,最大の楽しみは,特等席を確保することである。

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D51機関車の特等席 [1号機 (ナメクジ型)] 


先頭の部分に,4,5人は座れる空間がある。特等席に座りたい生徒の数知れず。私も2,3回 特等席を獲得したが,多い希望者の中から,どうやって順番を決めていたか全く記憶にない。

特等席に中学生を載せて,列車の運行係の警告もなく,汽車はノロノロ と岡山駅に向かった。

70年以上も前のこととはいえ,列車の運行を管理する国鉄の職員さんは,危ないから降りろ!など一言も注意しなかった。こうして,今となっては再現することのできない,幻のような特等席の楽しみが記憶に残ることになった。

新しい新幹線ができたとか,今日でこの路線の運転がお終いになるんだなど,そのたびに,カメラをもって大勢のマニアが集まる。昔を体験した筆者は,”冒険というものがない,一体何が面白くて” と思う。
by yojiarata | 2013-05-16 18:59 | Comments(0)

寺田寅彦の丸善



生まれてはじめて故郷の小都市・岡山を離れ,東京の大学に入学した18歳にとって,何もかもが新しかった。

東京生まれ,東京育ちの友人・T 君の勧めで,寺田寅彦 『丸善と三越』 を読んだ。当時は,岩波文庫に入っていたと記憶している。

今では,青空文庫に入っていて,自由に読むことができる。

『丸善と三越』 は実に面白い。


【子供の時分から「丸善」という名前は一種特別な余韻をもって自分の耳に響いたものである。田舎の小都会の小さな書店には気のきいた洋書などはもとよりなかった,何か少し特別な書物でもほしいと言うと番頭はさっそく丸善へ注文してやりますと言った。中学時代の自分の頭には実際丸善というものに対する一種の憧憬のようなものが潜んでいたのである。注文してから書物が到着するまでの数日間は何事よりも重大な期待となんとも知らぬ一種の不安の戦いであった。そしてそれが到着した時に感じたあの鋭い歓喜の情はもはや二度と味わう事のできない少年時代の思い出である。

・・・・・

いろいろの理由からいわゆる散歩という事に興味を持たない自分の日曜日の生活はほとんど型にはまったように単調なものである。昼飯をすませて少し休息すると,わずかばかりの紙幣を財布に入れて出かける。三田行きの電車を大手町で乗り換えたり,あるいはそこから歩いたりして日本橋の四つ角まで行く。白木屋に絵の展覧会でもあるとはいって見る事もあるが,大概はすぐに丸善へ行く。別にどういう本を買うあてがあるわけではないが,ただ何かしら久しぶりで仲のいい友だちを尋ねて行く時のような漠然とした期待をいだいて正面の扉とびらを押しあける。

正面をはいった右側に西洋小間物を売る区画があるが ・・・・・

自分はただなんとなくここをのぞく気にならないでいつでもすぐに正面の階段を登って行く,そして二階の床に両足をおろすと同時に軽い息切れと興奮を感じるのである

(下線は筆者による)】


寅彦先生の気合の入れ方が,可笑しくも,同感できる。

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寅彦先生の丸善
明治43(1910)年,赤煉瓦作りの本社社屋竣工
4階建て,日本最初の鉄骨建築。エレベーター付き。


***


そうです。あの頃は,本一冊を買うにも,気合が入っていたのです。

今はどうか。本の表紙は色とりどり,文庫本までそうだ。それに,通信販売。注文すれば,2,3日内に本が届く。送料なし。だからというわけではないのだが,「丸善と三越」の頃は,購入した本を大事に,ページをめくるにも力がこもっていた。

本が軽くなってしまった。中身をみないで,100万冊の本が売れる時代になった。

丸善・日本橋店が平成19(2007)年に新装開店した。洋書も,マンガも,高級文房具もごちゃ混ぜのデパートのようになってしまった。今,寅彦先生が丸善を訪ねられたら,何とおっしゃるだろうか。
by yojiarata | 2013-05-15 19:57 | Comments(0)

「火星兵団」  海野十三の夢



海野十三(うんの じゅうざ,1897-1949)をご存じだろうか。

昭和10年代,多くの小学生,中学生が,胸躍らせて海野十三の作品を読んだ。最も人気のあったのは,「火星兵団」だった。

戦争が深刻化するにつれて,本の購入が難しくなり,1冊の本を友達の間で回し読みして読んだ。自分で購入したという記憶はない。

海野十三の作品は,「少年倶楽部」や小学生新聞に連載されたが,戦時中は入手困難であった。

嬉しいことに,1980年代後半になって,海野十三の作品の重要性を評価した三一書房が全13巻,別巻1,2にまとめて出版した。筆者の手元には,第3巻「深夜の市長」,第8巻「火星兵団」がある。

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海野十三全集 第8巻 火星兵団 (三一書房,1989)


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例えば,国立国会図書館サーチの所蔵本を検索すると,1249件が所蔵されている。

記録によると,

火星兵団(『東日小学生新聞』 1939年9月24日-1940年12月30日)

浮かぶ飛行島(『少年倶楽部』 1938年1月-12月)

怪塔王(『東日小学生新聞』 1938年4月8日-12月4日)

太平洋魔城(『少年倶楽部』 1939年1月-12月)

怪鳥艇(『少年倶楽部』 1940年1月-12月)

地球要塞(『譚海』 1940年8月-1941年2月)

が少年,少女のために執筆されている。

筆者は,手を尽くしてこれらの作品を探し出し,そのほとんど全部を読んだ。軍国少年の胸は躍った。


***



海野十三は,江戸川乱歩,横溝正史と同時代の探偵小説作家であった。海野十三が大人向けに書いた探偵小説は,今ではほとんど忘れ去られてしまった。しかし,「火星兵団」など少年,少女向けに数々の作品を書いた海野十三は,我らの夢を掻き立てる,未来を語る最高の預言者であった。

地球に攻めてくる火星兵団,迎え撃つ地球防衛隊の闘い,いまから70年近くも前に,海野十三が考え出した戦略など,驚くほど次の時代を見通している。海野十三の先見性は大きな驚きというほかはない。

探索衛星が火星に到着し,地球に写真を送り,今世紀中には人類が火星に行くことが現実的になることを知らず,海野十三は,1949年,肺結核のため,大喀血して急逝した。享年51。
by yojiarata | 2013-05-06 23:05 | Comments(0)

歴史の証言 日本の黒い霧



4月21日の新聞各紙の報道。

松本清張が,『日本の黒い霧』で,共産党元幹部の伊藤律を特高警察のスパイだったなどと記述していることについて,遺族から誤りだと指摘された発行元の文藝春秋が,異例の断り書きを入れることが,遺族側への取材で分かった。遺族側は事実上の訂正とみて評価している。

文藝春秋が遺族側に提示した断り書きでは,資料の乏しかった執筆当時の時代背景を説明し,「現在から見れば伊藤氏が戦前戦後の政治情勢,共産党内部の対立の中で運命を翻弄されたことは明らかです」としている。次男の淳さん(66)は「今年は父が生まれて百年,党の除名から六十年。大きな一歩になった」 と述べた。

伊藤は共産党から 除名処分を受け,渡航先の中国で二十七年間投獄。1980年に帰国したが,9年後に死亡した。

成田龍一(日本女子大学)は,文藝春秋の対応を評価し,「一つの解釈を削除すると,その解釈があったという歴史自体を消去してしまう。」 と重要な指摘をしている。(朝日新聞2013年4月27日,夕刊)

***


このブログを書きながら,遥かな昔,大学で教わったことを突然思い出した。ある先生の一言。

「諸君,実験ノートを書く時,忘れてもらっては困ることがある。実験ノートは,諸君の研究の歴史である。その時点で間違ったことを書いたとしても,あとで必ず参考になる。だから,間違いを消すなど絶対にやってはいけない。」

今でいえば,ワードで作成した文書の該当部分を消去して,新しい文章で置き換えてしまうことに相当する。こうなれば,消去する前の歴史が二度と取り戻せなくなる。
by yojiarata | 2013-05-04 21:50 | Comments(0)

ゼロの焦点



歴史の記述をめぐって,松本清張の名前が新聞に登場している。

松本清張の名前と共に思い出すのが 『ゼロの焦点』 (1961,松竹)である。

野村芳太郎・監督のもと,実力派のスタッフ(脚本・橋本忍,山田洋次,撮影・川俣昂,音楽・芥川也寸志),そして俳優たちの熱演により素晴らしい作品が出来上がった。筆者はこの映画を,最初名古屋の映画館で観た。名古屋の学会に出席した折,空き時間を利用したように記憶している。

モノクロの画面に写し出される海沿いを走る 蒸気機関車,北陸の風景が印象深い。

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松本清張 『ゼロの焦点』 (光文社,1959,4ページ)


鵜原禎子を演じる久我美子(1931年1月21日 - )は, 学習院女子中等科在学中にスカウトされ,『醉いどれ天使』(1948年 黒澤明),『また逢う日まで』(1950年 今井正)などに出演してその実力を評価されていた。

鵜原禎子の夫(南原宏治),その兄・西村晃,有馬稲子,高千穂ひづる,沢村貞子,加藤嘉のほか,織田政雄 (金澤署捜査主任),高橋とよ (鵜原禎子の母)が印象に残る。

失踪した夫の足跡を金澤から能登金剛に追う禎子,ストーリーの裏には,夫が東京・立川署の風紀係としてアメリカ兵相手の夜の女(当時,パンパンとよばれていた)の取り締まりをしていた過去が見え隠れする息詰まるサスペンスドラマの傑作である。

1978年の時点で,清張は自作の推理長編で好きな作品の第一に本作を挙げている。

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松本清張 『ゼロの焦点』 (光文社,1959)



***


泌尿器科の町医者を開業していた筆者の父親は,川向うの遊郭の女たちの治療にあたっていた。アメリカからペニシリンが入ってきて,治療に用いられるようになった頃である。当時,中学生,高校生であった筆者はお姐さんたちと世間話をすることがあった。不幸な境遇にありながら,人間らしい優しい人たちが多かったなと今,ふと思い出す。遊郭は,売春防止法の成立により,昭和33年3月31日,「蛍の光」の演奏と共にこの世から姿を消した。
by yojiarata | 2013-05-03 23:12 | Comments(0)

惨敗  日本・ロシア 首脳会談



2013年4月29日,NHKニュースウォッチ9 (特別版,21:00-23:00)

当日行われた安倍晋三総理大臣とV.V.プーチン大統領の会談の要約が,両首脳によって日本語とロシア語で報道陣に公表され,世界中に生中継された。以下,国民の大きな期待を集めた北方4島の領土返還問題に絞って,事の推移をまとめる。


歴史的経緯

第2次世界大戦末期の1945年8月9日。当時のソ連が,日ソ不可侵条約を破って対日参戦し,日本領だった千島列島と北方四島を9月初めまでに占領した。


ロシア首脳の動き

ロシアのメドベージェフ首相が2012年7月3日,国後島を訪問した。ロシア側は公式には,通常の国内視察であり,特別な政治的意味はないと説明している。しかし現地で同首相は,北方領土について「これは古来のロシアの土地だ。一寸たりとも渡さない」と,日本を意識したきわめて露骨な政治発言をした。また,日本人の神経を逆なでするのを承知で,「私はまた訪問するし,諸閣僚も続く」と挑戦的な言葉を述べた。

メドベージェフ首相は,悪天候にもかかわらず,島に行くことに特別にこだわった。当初は択捉だった行き先を国後に変えてまで,2時間の訪問を強行した。つまり択捉でなくても,北方領土であればどこでもよかったのだ。これも,通常の国内視察ではなく,北方領土の政治性を特別に意識していた証である。


異様な雰囲気

TBS の記者が,北方領土交渉をどのように進めるかと次のように質問した。  

北方領土ではロシア政府によるインフラ整備が進み,実効支配が強まっているいる現実がある。領土交渉への影響をどう考えるか。

安倍

ご指摘のような状況は,たしかに日本の立場と相いれないが,今回の共同声明で「双方の立場の隔たりを克服し」とあるように,問題を根本的に解消するために,北方領土問題を解決するしかない。


プーチン

この質問に接した時のプーチン大統領の態度は異様としか言いようがなかった。元・秘密警察のボスの顔を曝け出し,牙を剥き,次のようにわめきたてた。

あなたは,原稿を読んでいた。自身の考えた質問ではないだろう。あとで,あなたに質問させた人間に伝えてほしい。

この問題はわれわれがつくったものではなく,過去からの遺産だ。・・・・・ 受け入れ可能な形で解決したい。この地域には,ロシアの他の地域と同じロシア国籍がある人たちが住んでいる。われわれはこの人たちの生活を考えねばならないし,生活水準を考えねばならない。

要するに,北方4島はロシアのものであり,返す気持ちなど全くない。  (筆者注)


安倍

「(経済協力の)成果を重ねることで交渉が加速することを期待する。双方の立場の隔たりが大きいのは事実だが,腰を据えて取り組む」と発言。

腰を据えようと,据えまいと,結果はすでに決まっているではありませんか。  (筆者注)


プーチン

「経済協力が最もいい役割を果たす。明日解決することはあり得ないが,両国にとって重要な問題を解決することを期待する」


北方領土の返還

日ロ首脳会談は,2003年の小泉純一郎氏以来10年ぶり。共同声明も,四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結することをプーチン大統領との間で確認した「日ロ行動計画」以来である。

それ以来,何の進展もない。それどころか,最初に述べたように,メドベージェフ大統領(当時)が二度にわたって国後島を訪れるなど,ロシア側には何の誠意も感じられない。

今回もそうだ。経済がどうとか言っているうちに,領土問題は再び雲散霧消することになった。

北方4島に関して言えば,ロシアの主張が見事に繰り返えされるだけの結果となった。ともあれ,国民の期待を集めて10年ぶりに開かれた日ロ首脳会談は,日本の惨敗に終わった。

今後,首脳レベルの会談に加えて,外相レベルの会談を続けていくという。領土問題に関しては,何の期待ももてない。結果は決まっているのだから。


***


安倍氏は,会談後,ニコニコしながら成果を記者団に強調していたが,総理も総理なら,テレビで遥々モスクワから放送する記者も記者である。もう少し踏み込んだ ”日本の意見” を述べることができなかったのだろうか。

日ロ会談の場合も,先の日米会談アメリカの場合も,公開されることのない ”膝突き合わせた1対1の対決” で,我らが首相はどこまで,堂々と日本を主張したのであろうか。

これは今に始まったことではない。今回の日ロ首脳会談は,開国以来日本の近代化の流れの中で,日本のリーダーたちが苦しんできた歴史の一コマといえなくもない。50年先,100年先の日本を考えるとき,たとえそれが歴史の一コマであっても,今回の日ロ会談のもつ意味は計り知れないと思う。
by yojiarata | 2013-05-01 21:48 | Comments(0)