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総合科学技術会議 再訪




4月24日の朝刊によれば,総合科学技術会議に新しい動きがあるとのことであった。

政府会議 科学技術政策の司令塔強化提言

の見出しのあと,有識者議員,「科学技術関係予算戦略」(仮称)の創設と並び, 「総合科学技術会議」 がまとめる科学技術イノベーション総合戦略に盛り込み,政府が6月にまとめる成長戦略に反映させるとある。

日本の科学技術政策については,荒田洋治 『日本の科学行政を問う 官僚と科学技術総合会議』 (2011,薬事日報社)で,公開された資料をもとに徹底的に掘り下げて分析した。

さらに,このブログでも,何回か取り上げた。

日本の科学技術政策

日本の科学技術政策 その2

日本の科学技術政策の最大のポイントは,今後どのような分野に,どれだけの予算を分配するか,提案された計画の予算規模,国際的な視点に立ってみた場合,妥当なものか否かを明らかにすることである。

そのためには,提案されたプロジェクトを国内外の専門家によって審査する,所謂ピュア・レビューを如何にして実行するかにかかっている。すでに,拙書『日本の科学行政を問う 官僚と科学技術総合会議』の第五話 官僚 その虚像と実像(とくに 64-68ページ)で徹底的に議論したように,ピュア・レビュー・システムの確立こそが,日本の科学技術政策が国際的に認められるための必須の最初のステップだからである。

「総合科学技術会議」 のウェッブ・ページをチェックしてみた。

なかば予想していたことであるが,一言でいえば,何も変わっていない。何も変わりそうな気配すらない。残念である。有識者と官僚,その成り行きを冷めた目で眺めている政治家の先生方は,一体何を考えておられるのだろうか。

日本が今後,さらに広い範囲にわたって国際的に高く評価される研究成果を発信するにはどうすべきなのか。この点こそが,総合科学技術会議の最大の使命ではないのか。

繰り返すが,総合科学技術会議の使命は,メンバーの先生方の予算配分を含めた”きれいごと” の議論ではない。
by yojiarata | 2013-04-25 23:20 | Comments(0)

Charlie Brown に学ぶ



大学で助手(現在は,助教とよばれている)になりたての頃,所属していた研究室に,カナダからの留学生が来ていた。彼氏からは,実に様々なことを学んだが,その一つがチャーリー・ブラウンと仲間たちが登場するPEANUTS である。

すっかりファンになった筆者は,シリーズの最初から収集し,その後,仕事でアメリカに滞在していた頃,見つけるとすぐに購入し,かなりのコレクションとなった。

次に掲げるには,我が家の本箱から取り出した「シリーズの第1作(1950年)」と「第2作(1952年)」の表紙である。今となっては,入手困難,希少価値がある。

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その頃,研究室の装置(アメリカ製)の修理に時々やってくるアメリカ人のエンジニアー A.G. さんのことをふと思い出す。

毎日デイリーニュースをいつも持って歩いているのを見て,なぜ,毎日デイリーニュースを読むのかの筆者の問いに答えて,PEANUTS が載っている新聞は日本では毎日デーリーニュースだけだと言った後,

That's the only reason why I read Mainichi everyday.

と付け加えたのを,今でも,懐かしくも可笑しく思い出す。あれから50年近くが経つ。

筆者も,PEANUTS から多くのことを学んだ。回を重ねるたびに,ユーモアの質が上がり,Charles M. Schulz 亡きあとの今も書き継がれている。

学んだことの一つが,claustropobia なる表現である。狭いところに押し込められると,動悸がして耐えられなくなる ”閉所恐怖症” である。高所恐怖症 はacrophobia。pantophobia (作中の造語,panto とは何でも彼でもの意)。

malpractice lawsuit

医師による,誤診,手術の失敗などを訴える,日本では今ではごく普通になったが,アメリカでは50年近く前,すでに深刻な社会問題になっていた。

友達が転んだのを手を取って助け起こそうとするライナスを, 「malpractice lawsuit に巻き込まれるから,よしなさい」と姉のルーシーが止める場面が可笑しい。


***


突然話題を変え,横溝 正史(よこみぞ せいし,1902年(明治35年)5月24日-1981年(昭和56年)12月28日)について書く。何故横溝正史かは,続きを読んでいただければすぐわかる。

「本陣殺人事件」,「獄門島」,「八つ墓村」,「犬神家の一族」,「女王蜂」,「悪魔が来りて笛を吹く」

などの作品を,我が家で購入していたキングなどの連載に胸を躍らせていたのは,中学に入りたての頃である。何にでもすぐに感動し,夢中になる筆者の性格はすでに当時からあったようである。

本陣殺人事件は,『三本指の男』の題名で映画になった。金田一耕助を演じたのは,時代劇の王様・片岡千惠藏(明治36年(1903年)3月30日-昭和 58年(1983年)3月31日,本名は植木 正義)。

血染めの手形をじっと見た彼が口の中で呟くように発するあの声。

”この手形には指紋がありませんね”

の一言を,まるで昨日のように覚えている。

『三本指の男』 (1947年)
東横映画
監督:松田定次

金田一耕助:片岡千恵,一柳賢蔵:小堀影男,一柳隆二:水原洋一,一柳三郎:青山健吉,一柳鈴子:八汐路恵子,一柳糸子:杉村春子,一柳良介:上代勇吉,久保克子:風見章子,久保銀造:三津田健,久保お徳:松浦築枝,白木静子:原節子,三本指の男:片岡千恵蔵。


その後,横溝作品は一時ブームになり,様々な俳優が金田一を演じたが,筆者は,いまでも,片岡知恵蔵がベストだと思っている。


***


横溝正史は薬剤師の資格を持っていたが,小説では,それが生かされたという記憶がない。彼は,江戸川乱歩とともに,戦前,戦後の探偵小説界のリーダーであった。

突如,チャーリー・ブラウンから横溝に話題を転じたのは,彼が重度の閉所恐怖症だったからである。

一人では外出できず,どうしてもというときは,酒入りの水筒を抱きかかえ,奥方としっかりと手をつないで自動車で出かけたという。

結核にも苦しめられたが,戦後輸入されたストレプトマイシンのお蔭で命をつないだ。1981年結腸ガンのため死去。享年79。

***


片岡知恵蔵は,1946年(昭和21年),現代劇 『七つの顔』 で「多羅尾伴内」を演じる。「多羅尾伴内探偵シリーズ」は,第1作 『七つの顔』 につづき,『十三の眼』, 『二十一の指紋』, 『三十三の足跡』まで大映で,そのあと,東映で1960年(昭和35年)まで,計11本製作された。

次の作品をドキドキと心待ちにし,結局全作品を観た。第1作 『七つの顔』 がDVDになっているのを知り,直ちに購入した。今見ても,映画作品として全く古くない。


付記

日本航空(JAL)は2012年1月15日,臨時取締役会を開き、植木義晴専務執行役員(59)を社長に昇格させる人事を発表した。植木新社長は,片岡千恵蔵のご子息である。
by yojiarata | 2013-04-24 14:56 | Comments(0)

安倍ノミクス と Reaganomics




新聞もテレビも,「安倍ノミクス」なる言葉を聞かない日はない。

日銀総裁が,まるでタレントのように,太鼓を叩いて囃し立てる。何だかよくわからいけれど,世の中がよくなりそうだと期待する庶民は少なくない。

残念ながら,安倍ノミックスは,1980年代 に アメリカで使われた Reaganomics の コピーである。

何でも彼でもアメリカ,ヨーロッパの真似をする日本で突如として湧き起ってきた安倍ノミクス,言葉の真似ではなく,実質で勝負してほしい。そうでなければ,物真似・日本のイメージがここでもついてくる。そして,社民党の福島瑞穂党首の言葉のように, 『アベノミクス』 は 『安倍のリスク』 と読み替える時がくるかもしれない。
by yojiarata | 2013-04-22 23:21 | Comments(0)

草の花




あれから半年余りが過ぎた。怒りも時と共に薄れてきたので,ここにその顛末を書く。

事の起こりは,2012年9月16日(日曜日),朝日新聞朝刊の読書欄で,「思い出す本 忘れない本」を目にしたことから始まる。

読書欄「思い出す本 忘れない本,愛を語る,まばゆい世界」を目にした瞬間,唖然として言葉を失った。

*


知り合いの朝日新聞の社員にメールしてみた。


【このような大きな記事を掲載される場合,担当委員によるレビューはなさらないのでしょうか?

福永武彦 『草の花』 は,戦前,戦後に青春時代を送った男性(女性についてはわかりません)にとっては,永遠の書です。いまでもコンスタントに読者を得ていると思います。

言葉は悪いですが,”こんなわけのわからない人物のわけのわからない文章”の記事を掲載された書評欄の担当委員の見識を疑います。この女性が,熊本の高校の頃,体型を売り物にして,タレントになったことは無論承知しています。

ここの書かれている文章は全く意味不明です。この本を実際に通読されたかどうか甚だ疑問です。】

*


この物語には,サナトリウムに入院,やがて死を迎える汐見茂思,友人の藤木忍,藤木の妹の千枝子の三人が登場する。とくに,この本の後半2/3は,汐見の遺書に書かれた千枝子との思い出,結婚して他家に嫁いだ千枝子から藤木にあてた手紙が淡々とした筆で綴られていて,心に沁みる。

*


こうしてみると,この欄の筆者は,「思い出す本 忘れない本」に実際には目を通していないか,それとも”認知症”のためすべて(といってよいと思う)を忘れ去ってしまっているのかのいずれかではないか。

文章中に何のかのと御託を並べておられるが,彼女のおっしゃる「愛を語る,まばゆい世界」は,いやしくも大新聞に大きく掲載するにはあまりにも恥ずかしく,低レベルの内容である。

この欄の著者は,NHKの番組「****のすずらん本屋堂」に出演し,本の紹介をしているとのことである。要注意!

もしも,筆者がいい加減なことを書いていると思われる方は,近くにおられる(戦前,戦後に青春時代を送った)男性に意見を聞いていただきたい。

蛇足ながら,福永武彦 は 小説家・池澤夏樹の父上である。
by yojiarata | 2013-04-22 23:20 | Comments(0)

若者たちとの一問一答 その2 大学院から製薬企業へ



今年も,若者たちが大学,さらに進んで大学院で学んだ知識を糧として社会に進出して行く4月を迎えた。

このブログでは,薬学の様々な分野を専攻した若者たちが,いま,何をどのように考えているかを,筆者との一問一答形式の対談にまとめ,掲載することにした。

今回は,国立大学法人・大学院で修士の称号を取得し,大手製薬企業の研究所で創薬の研究に参画している若手女性研究者に登場していただく。

以下, は筆者の質問, はそれに対する応答である。

***


 薬学を自分の進むべき道に選んだのは,小学校,中学校,高等学校のどの段階ですか。

 薬学を自分の進むべき道に選んだのは大学に進学してからですが,小学生の時から漠然と薬学に興味はありました。

 大学はどのような基準で選ばれたのでしょうか。

 実家から通えることと,様々なことを学んで視野を広げられるかどうかです。

 入学して,どのような分野を専攻されたのですか。

 入学してからは,薬学を中心に様々な分野を学びました。

 それには,何か自分なりの根拠があったのでしょうか。

 様々な分野に触れることで,本当に自分が薬学の道に進むべきかを確かめたいと思いました。

 大学院に進まれたとのことですが,専攻分野はあらかじめ決めておられたのでしょうか。

 決めていませんでした。様々な研究室を見学し,研究内容の面白さと研究室の雰囲気で決めました。

 具体的には,どのような分野でしょうか。

 NMRやX線結晶解析により,タンパク質の構造の関連を解析することを目的とする分野です。

 その分野を学んで,どのように感じられましたか。とくに,自分の将来と考えあわせて。

 生命現象を基礎から解明する過程を体験し,研究の面白さと難しさを実感しました。また今後研究を続けていく上で基礎となる考え方や研究に対する姿勢を学ぶことが出来ました。

 修士の段階で,企業に就職しようというのは,どのような考えで決めたのでしょうか。さらに,博士課程へという可能性は,考えなかったのでしょうか。

 新薬を開発することで世の中に貢献したいという考えから製薬会社への就職を希望しました。製薬会社の研究職に就職するためには修士卒の方が就職しやすいと感じたことや,早いうちに社会に出て世の中の役に立ちたいと思ったため博士課程には進学しませんでした。

 就職は簡単に決まりましたか。就職難という言葉を感じましたか。

 私は運良く早い段階で内定を頂くことができましたが,多くの会社に書類審査で落とされたときには,就職難という言葉を感じました。

 就職先は,どのような基準で決めたのでしょうか。何社か,見学するなどされましたか。

 会社の雰囲気と,自分のこれまでの経験が活かせるかどうかで決めました。面接を受けた数社は見学させて頂きました。

 入社してみて,どのように感じましたか。ここでこそ,仕事ががんばれると考えましたか。それとも ・・・

 周りの方が優しくとても雰囲気が良いので,ここで仕事ががんばれると思いました。

 入社後,どのような過程を経て現在に至っていますか。

 現在,入社して約1年が経ったところですが,先輩に教わりながら仕事を進め,自分でできる仕事を増やしている段階です。

 実際にはどのような仕事ですか。

 医薬品を供給するために必要な精製プロセスの開発を行っています。

 それは,自分が希望いたものでしたか。

A 新薬を世の中に送り出す手助けができるという点で,自分が希望していたものです。

 今後,どのように仕事をしていきたいと思っていますか。

 周りの方々と協力しあいながら,個人としてではなくチームや会社全体として良い成果があげられるように仕事をしていきたいと思っています。

 自分自身のアイディアが生かせる自由度は気になりませんか。大学院の研究室とは,当然異なると思いますが。

 特に気になりません。自分自身の判断で大きな方針を変えることはできませんが,細かい部分で自分自身のアイディアを生かすことができています。

 すぐ前の質問に関連して,今後,どのようにして研究を進めたいと考えていますか。

 一つ一つの結果や状況に対してなんとなく判断をするのではなく,自分の中で納得がいくまで考え抜くことを大事にしていきたいと思っています。

 どのような人間になりたいですか。とくに女性の場合,将来の計画が,男性と異なる面もあると思いますが。

 周りの方々から信頼され,目標とされるような人になりたいです。お子さんがいながらバリバリ働いている女性社員もいますので,普段の仕事をする上で男女の違いは考える必要はないと思っています。

*


 話題が変わりますが,薬学部 6年制 をどのように考えますか? 6年制 に進もうという考えは,全くなかったのでしょうか。今のままでは,薬剤師の資格を取得できませんが・・・・・ 薬剤師の資格が取得できないことに,未練はなかったのでしょうか?

 もともと研究がやりたいと思っており,薬剤師の資格はオプションとしてとれればいいというくらいにしか思っておりませんでしたので,取得できないことにあまり未練はありません。

 実際に,6 年制に進んだ友人はおられますか。

 はい。

 その方は,どのような部署で,どのような仕事をされていますか。

 博士課程に進学して研究をしている人や,製薬会社に開発職として就職した人がおります。

 色々とうかがいましたが,これまでの経験を基にして,今後,薬学における研究,教育はどうあるべきか,お聞かせいただけませんか。

 薬学部 6 年制 が導入されたことで,4 年制 に進んだ場合にはこれまでのように薬剤師免許が取得できず,工学部や理学部など他の理系学部との違いが不明瞭になったと思います。

実際,薬学部で行っている研究は,薬学に関係のないものも多く,同様の研究を他の学部で行っていることもあります。薬学部として研究を行うからには,もう少し薬に関係する分野に特化し,新薬の開発につながるような研究をしてもよいのではないかと思います。

 ご指摘の点は,大変重要だと思います。薬学部の側でも配慮していただければよいですね。

薬学を学んでこれから社会に出ていく,より若い人に,何か助言があればお願いします。

 自分はなぜ薬学の道を選んだのか,そして社会に出て何がしたいのかをよく考え,その実現のために頑張って頂きたいと思います。

 お忙しい中,大変貴重なご意見をいただき,有難うございました。
by yojiarata | 2013-04-21 20:13 | Comments(0)

断熱膨張の時代



大学に入ると,理科系の学生は,どこかの段階で 断熱膨張 という言葉を耳にするはずである。

岩波理化学辞典 の 断熱膨張 の項には,

物体が熱の出入を伴うことなしに体積を増大する現象

と書かれてる。つまり,元手無しにどんどん膨らんでいく現象である。勿論,その分だけ,中身が薄くなる。

*


連れ合いに付き合って,大河ドラマを日曜日に観ているが,水ぶくれという感が拭えない。限られた題材を一年間に引き伸ばそうとすると,どうしてもこうなるのかもしれない。それにしても,どこかで聞いたような話の繰り返しで,取っ換え引っ換え出てくる人物は誰が誰だか分らない。断熱膨張 と付き合うのもこれくらいにしようかと思っている。

*


現政権の ”イケイケドンドン 路線” は,断熱膨張 の見事な例である。借金だらけの現状を忘れて,現を抜かしているうちに,日本経済 という 風船がパン!をはじけて,あとには燃え滓だけが残る惨状を,イケイケの先生方は心配しておられないのだろうか。

少なくとも,断熱膨張の付けが,我々国民に回ってこないことを願っている。
by yojiarata | 2013-04-21 00:18 | Comments(0)

三国連太郎 死す



三国連太郎の訃報に接した。

直ちに頭に浮かんだのは,『戒厳令』(吉田喜重監督作品,1973年公開)である。映画は,二‐二六事件に連座して死刑になった北一輝を軸にして展開する。

処刑の場で,”天皇陛下バンザイ”と叫んで死ねと迫られた三国連太郎(北一輝)が乾いた声で応える。

”私は,死ぬ前には,冗談を言わないことにしています”

の言葉を遺して処刑される。

いまでも,30年以上も前に見た映画のこのラストシーンが記憶にある。

最も印象に残る三国の出演作は,『飢餓海峡』 (原作・水上勉,監督・内田吐夢,東映東京,1965年公開)。

戦後まだ間もない頃,北海道地方を襲った猛烈な台風により,青函連絡船が転覆して多数の死傷者が出た。

『飢餓海峡』は,この未曽有の海難事故を原点とする殺人事件を描いたものである。

三国連太郎,左幸子,伴淳三郎の連携が,日本映画の歴史に残る素晴らしい作品を生んだ。

犬飼太吉のちに樽見京一郎を名乗る三国連太郎。

左幸子(青森県大湊市の娼婦・杉戸八重)

伴淳三郎(函館署の刑事・弓坂吉太郎)


***


まず,三国連太郎の役作りについてのエピソードから始める。

夜の鼓  

近松門左衛門の世話物『堀川波鼓』を,橋本忍と新藤兼人が翻案し脚色,今井正が監督した文芸時代劇。1958年,松竹。

彦九郎(三国連太郎),お種(彦九郎の妻,有馬稲子),床右衛門(鼓の師匠,森雅之)が繰り広げる愛憎劇。

妻・お種が床右衛門と不義密通した。怒りに震えて,お種を責める彦九郎。

三国連太郎とのインタビューによると,有馬稲子を本気で殴る。彼女の顔が腫れあがって,ついには気を失う。今井監督のOKがでなかったためだったと,三国は語っている。

最後に,三国は有馬稲子を切って捨てる。この時,三国は本身の刀を使う。本身を使わないと監督のOKがでないんですよと三国。ジュラルミンの刀だと重みがでないという今井監督の指示によるとのことである。

有馬稲子は,私の頭が悪いのは,あの時,三国さんに本気で殴られたせいですと語っている。

有馬稲子『のど元過ぎれば有馬稲子―私の履歴書 有馬 稲子』(日本経済新聞社,2012)


***


本箱から,佐野眞一『怪優伝 三国連太郎・死ぬまで演じつづけること』 (講談社,2011)を取り出して再読する。

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佐野眞一の著書には,多くの俳優に対する三国連太郎の歯に衣着せぬコメントが掲載されていて興味深い。その内から,いくつか拾ってみる。

佐野氏の質問,コメントは,前に, — を付してある。


***



高倉健

― 私から言わせると,『飢餓海峡』で若い刑事を好演した高倉健が,その後出演した膨大な数の映画で,『飢餓海峡』以上の演技をみせたという記憶がありません。これはどういうわけでしょうか。

三国

・・・・・ あのときは,それ以降の高倉さんがどんな役者になるか,見てみたいと思っていましたが ・・・・・。

― 『飢餓海峡』以降の高倉健は,唐獅子の紋々(もんもん,入れ墨,筆者注)を背負った任侠映画がほとんどですよね。

三国

だから,任侠映画に出たのが間違いでしょうね。

三国

内田監督が高倉くんの”手”が違う,と言い出したんです。


― 内田はこのとき,「高倉くんの手は刑事の手じゃない。女の手だ」と言って,何度もダメ出ししたという。


左幸子

― 左幸子さんはどんな女優さんでしたか。

三国

頑固な人ですね。

自分が一度言い出したらもう誰の言うことも聞かない。


三船敏郎

三国

・・・・・ あのひとは徹底して己の素材を生かされた人なんです。セリフは正確で疑問を挟まないし,また,一字一句間違えた様子がありませんでした。一挙手一投足,そして歩数まで監督の指示に従うというところがある。

そして三船さんが映えたのは,何と言っても一連の黒澤作品ですが,完全主義者という評判の黒澤さんのカッチリとお作りになったコンテにあれほどピッタリとはまられた人は,他に類がなかったを私は思っています。

― それだけ役者としての自己主張は乏しかったと巷聞耳にしますが。

・・・・・ しかし,黒澤さん以外の監督,つまりほとんどの監督の演出だと,あれほどの生彩は見られないという事実は見事と言うべきではないでしょうか。



***


ふと,教授と教授から研究の指導を受ける大学院学生の関係に思いが至る。 

筆者の経験では,この点に関していえば,全く反対方向の二つのタイプがある。

タイプ1

教授に言われるまま,まるで鸚鵡返し。見事な研究をして,立派な論文を仕上げる。まさに,黒澤・三船路線である。

タイプ2

ああ言えばこう言い,教授の言葉を頻繁に無視する。

教授の資質にもよるが,タイプ1の学生は,教授に気に入られて,研究者としてよい出発をする。しかし,将来,大々的に成長するかどうかは全く未知数である。

タイプ2の学生は,教授から疎まれ,つらい思いをすることがしばしばである。しかし,将来,ポッシャってしまうかどうかは,全く分からない。

筆者としては,タイプ2の学生の中から,奇跡的な発想と業績が生まれる可能性を期待したい。


***



市川雷蔵

すみませんけどあまり印象がないんです。


杉村春子

怖いおばさんでしたね。


― ではうまいと思った女優はどなたでしたか。

三国

望月優子さんでしたね。

― ほかには?

乙羽信子さんでしょうね。

宝塚出身の女優さんは総じてしばいがうまくないんですが,乙羽さんは別でしたね。うまいというより,真面目な方でしたね。


高峰秀子

三国

僕が鎌倉に住んでいるころ,高峰さんも鎌倉に住んでいたんじゃないかと思います。木下(恵介)さんが大好きな人でしたね。

僕なんか野放図だったから,同じ鎌倉に住んでいても口ひとつきいてくれなかったですよ。

撮影所で会っても口をきいてくれませんでした。非常にクラシックな方でした。僕は反対にハレンチ男ですから。

・・・・・巨匠といわれる監督にもお世辞を言わない人でしたね。

つけんどんにしている人でした。

― 文才もありましたね。

やっぱり才女だったんじゃないでしょうか。”ぶった”女優さんは,たくさんいましたが,あの人が「あら,先生」なんて言ったのは見たこともない。いつも「おい,お前」みたいな感じでした。ああいうタイプの人は少くなりましたね。


***


― これから出たい映画や,やってみたい役柄はありますか。

三国

何もありませんね。出たとこ勝負です。

今後の展望というものは,全くないですね


取材回数六回 延べ時間して都合三十時間に及んだという。

三国は「俳優とは?」と問われて,「俳優」という言葉を三国なりに解釈して,「人に非ずして,優れた者」としばしば答えている。


***


追記

1) 『善魔』(1951年木下恵介監督作品)に,レッド・パージにあって出演出来なくなった岡田英次の代役として出演,役名・三国連太郎をそのまま芸名とする。あの頃は,まだ,レッド・パージという言葉が生きていた。銀座でスカウトされた三国は,当時,千葉県船橋市の矢幡神社の縁の下をねぐらにしていたという。

高校3年生であったその頃の筆者の記憶では,『善魔』に出演した三国は,大根役者だとか何だかと,映画評論家に散々貶された。しかし,三国はその後60年にわたり,日本映画の歴史に残る数々の作品を遺した。『我が母の記,井上靖原作,原田眞一監督作品,2012年,松竹』が遺作となった。

2) 先週の朝日新聞・夕刊(4月18日夕刊,文化面)で,毎週木曜日に登場する世間に名前を知られている方のコラムを読んだ。

【お会いしたのは,一度だけだ。・・・・・ ある映画賞の授賞式で,式が始まるまえに,待合室で二人きりになった。僕が歩み寄って自己紹介すると,・・・・・ 挨拶だけでは失礼と思い,僕が無意味な世間話で場を繋ぐと,三国さんは,きちんと僕の目をみながらああ,そうですか」と相づちを打ってくれた。(下線は筆者による)

・・・・・ 「ああ,そうですか」としか言わない。・・・・・ 僕はそれを聞いただけで,なんだかいい芝居を観たような気がして胸がいっぱいになったのを覚えている。あれだけ胸を打つ「ああ,そうですが」は三国さん以外には考えられない。】

何だか滑稽である。三国の「ああ,そうですか」の意味は,これまで筆者が書いてきたことから,容易に理解いただけると思う。




三国連太郎
身長 181 cm,体重 75kg
1923年1月20日 群馬県太田市生まれ
2013年4月15日 東京都稲城市の病院で死去
享年 90
合掌
by yojiarata | 2013-04-16 00:42 | Comments(0)

バイオリン演歌 桜井敏雄 江戸弁 



桜井敏雄なる人物をご存じだろうか。

***


我が家の本棚には,桜井敏雄が著した

桜井敏雄 『X線結晶解析の手引き 応用物理学選書(4)』 (裳華房,1983)

が収まっている。

***


今年の2月,NHKのラジオ深夜便で,バイオリン 演歌で明治,大正の時代のはやり唄を唄った同姓同名の桜井敏雄(1909-1996)なる人物の存在を知った。桜井敏雄は東京生まれ,師匠はノンキ節で知られている石田一松。

桜井敏雄の唄う 『新金色夜叉』 (大正八年頃流行)はなかでも印象深い。5分を超える長編である。


〽  熱海の海岸散歩する

寛一お宮のふたりずれ

ともに歩むも今日限り

ともに語るも今日限り


・・・・・


恋に破れし寛一は

すがれるお宮を突き離し

恨みの涙はらはらと

残る渚の月蒼し



作詞・宮島郁芳,作曲・後藤紫雲 (大正八年)



***


深夜便で筆者の聴いた桜井敏雄の場合には,唄の前後に,彼の語りがついている。何時頃何処で収録されたかは不明とのことであるが,録音の質も高く,極めて鮮明である。

筆者がとくに興味をもったのは,桜井敏雄の喋る言葉である。それは,滅多に聴く機会のない 【江戸弁】 である。江戸弁 という言葉を勝手に使ってしまった。この表現が適切かどうか分らないが,その歯切れのよさは,いわゆる東京弁とは全く違う。筆者が岡山生まれ,岡山育ちのせいで,東京で聴く言葉の種類に敏感なせいかもしれない。

広辞苑第六版には,次のような説明がある。

えど‐べん【江戸弁】
江戸言葉(でしゃべること)。歯切れのいいのが特色。江戸言葉

えど‐ことば【江戸言葉】
江戸で使用されたことば。明和・安永の頃以後江戸文化が成熟し、独特の語彙と語法を持つようになり、東京語の母胎となった。江戸語。

この江戸弁を喋るもう一人の人物を筆者は知っている。五代目古今亭志ん生(神田亀住町生まれ)である。桜井敏雄の江戸弁は,間の取り方,声の響きと強弱など,五代目古今亭志ん生に極めてよく似ている。

五代目古今亭志ん生(1890-1973)と同時代の六代目三遊亭圓生,八代目桂文楽の噺には,この江戸弁の響きは全く感じられない。この二人の名人は,東京生まれ,東京育ちではない。

現役の噺家にも,東京生まれ,東京育ちの人もいるに違いないのだが,筆者のいう江戸弁に出会ったことは一度もない。五代目古今亭志ん生の長男・十代目金原亭馬生(故人,享年54),次男・古今亭志ん朝(故人,享年63)についても同様である。

そうしてみると,桜井敏雄,五代目古今亭志ん生の江戸弁は,20世紀の初め頃にだけ存在し,今やこの世から消えてしまった言葉ということになる。
by yojiarata | 2013-04-14 22:40 | Comments(0)

森鷗外と永井荷風  流行歌と浪花節



流行歌と浪花節


永井荷風は若い頃,街の人々が愛した流行歌,浪花節などを目茶目茶に扱き下ろしている。

昭和4(1929)年。

【六月廿五日 晴れて風涼し。終日三番町にあり。夜お歌を伴い銀座を歩む。三丁目の角に蓄音機を売る店あり,散歩の人群れをなして蓄音機の奏する流行歌(はやりうた)を聞く。沓掛時次郎とやらいう流行歌の由なり。この頃都下到処のカフェーを始め山の手辺の色町いづこといはずこの唄大に流行す。

その他 はぶの港 君恋し 東京行進曲などいふ俗謡この春頃より流行して今に至るもなほすたらず。歌詞の拙劣なるは言うに及ばず,広い東京恋故せまいといふが如きもののみなり。】

そうかと思うと,昭和8(1933)年には次のように書いている。

【十月廿五日。小春の好き日なり。 ・・・・・ 

流行歌の盛衰


昭和三四年

君恋し


昭和四年
  
東京行進曲

上陸第一歩

麗人の歌

道頓堀よ


昭和五年詳ならず

・・・・・
 
昭和六年
  
銀座の柳(四月頃より流行)

大磯心中

酒は涙か

影をしたいて

・・・】


満更,興味が無いわけでもないらしい。


昭和9(1934)年。

【正月廿一日。晴れて風あり。空には雲多し。正午ラヂオの浪花節聞え出したれば今日は日曜日なり。 ・・・・・ 】

【七月廿五日。 くもりてまた俄に涼し。気候不順なること驚くべし。

・・・・・ 鷗外先生は ・・・・・ 浪花節は宴席に於てもこれを聴くことを好まず,屡其の曲節の野卑にして不愉快なることを語られたることあり。

・・・・・ 今日浪花節は国粋藝術などゝ称せられ軍人及愛国者に愛好せらるゝと雖三四十年まえまでは東京にてはデロリン左衛門と呼び最下等なる大道藝に過ぎず,座敷にて聴くものにては非らざりしなり。

・・・・・ 現代の日本人は藝術の種類にはおのづから上品下品の差別あることを知らず。三味線ひきて唱ひまた語るものは皆一様のものと思へるが如し。・・・・・ 今夜鷗外先生も地下に在りてラヂオの浪花節をきゝ如何なる感慨に打たれ給うや。】
(下線は筆者による)


どうも,荷風先生,師とも神とも仰いだ鷗外先生に大変気を使っておられるようだ。事実,荷風はこんなことを書いている。


大正12(1923)年

【六月十八日。・・・・・ 夜森先生の渋江抽斎伝を読み覚えず深更に至る。先生の文この伝記に至り更に一新機軸を出せるものの如し。叙事細密,気魄雄勁なるのみに非らず,文致高達蒼古にして一字一句含蓄の味あり。言文一致の文体もここに至って品致自ら具備し,始めて古文の頡頏することを得べし。】

この時,荷風45歳。”転げまわって絶賛”という感じである。


***


私の父親は明治33(1900)年生れである。一家を安定に支える父親の責任をもつに要求される重要な資質のひとつは,何かを買いたくなる衝動と財布の中身の冷静な比較であるが,父親は,終生それができなかった。新しいものに出会うたびに,突如として異常なばかりに興味が湧いてくる困った性格は,おかしいくらいに祖父そっくりで,やたらにものを買い込んでいた。

戦災前の筆者の家にあったピカピカの手回しの蓄音機もそのひとつである。近くの蓄音機屋さんがしばしば出入りしていた。蓄音機屋さんは,頭をポマードできれいに分け,立派な縦縞の紺の背広を着て,機械の“バージョン・アップ”を熱心にすすめる。竹の針を使う新しいピックアップの音を是非試してくださいなどとおっしゃる。父親も財布の中身を忘れて,膝を乗り出す。蓄音機が,いつもピカピカだったのは,蓄音機屋さんのせいである。しかし,おぼろげなこの記憶の場面に母親の姿がない。諦めていたのだと思う。

蓄音機屋さんは,新しいレコードが出るたびに,黙って置いていく。レコードは,広沢虎造の浪花節だったり,流行歌だったりした。子供のくせに,私がやたらと浪速節や流行歌を知っていたのは,そのせいである。

父親が,親戚・縁者をよび集め,家族全員とともに蓄音機を取り囲んで,虎造の新しいレコードを聴く。三味線と囃子詞にのせて張りのある節回しで語られるドラマは,いまも記憶にある。

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その頃,我が家では,藝術の種類など考えたこともない近所のおじさん,おばさんが広沢虎造の新しいレコードに夢中になっていた。

うつせみの 人の宿命は 花火とおなじ

燃えて散る間の 儚さよ

きのうの花は きょうの夢

あすの命を 誰が知る

に落涙するおじさん,おばさんがいてもよいではないか。


観潮楼の先生

師とも神とも仰いだ鷗外に対する荷風の思いは終生変わることはなかった。

鷗外の新作狂言上場の場にいた荷風のことばが残されている。この時,荷風40歳。

【・・・・・ 一幕二場演じをはりてやがて再び幕となりし時,わが傍らにありける某子突然わが袖をひき隣れる桟敷に葉巻くゆらせし髭ある人を指してあれこそ森先生なれ,いで紹介すべしとて,わが驚きうろたえるをも構わずわれを引き生きぬ。われ森先生の謦咳に接せしはこの時を以て始めとす。先生はわれを顧み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言われき。余文壇に出でしよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし。いまだ電車なき世なりしかどその夜われは一人下谷よりお茶の水の流れにそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心の中にゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。】

野口冨士雄編『荷風随筆集(下)妾宅 他十八篇』 書かでもの記 一,81ページ(岩波文庫,1986)

***


以後,荷風は師・鷗外の居邸をしばしば訪ねることになる。

【当代の碩学森鷗外先生の居邸はこの道のほとり,団子坂の頂に出ようとする処にある。二階の欄干に彳むと市中の屋根を越して遥かに海が見えるとやら,然る故に先生はこの楼を観潮楼と名付けられたのだとわたしは間伝えている。

・・・・・ 度々私はこの観潮楼に親しく先生に見ゆるの光栄に接しているが多くは夜になったからの事なので,惜しいかな一度もまだ潮を観る機会がないのである。その代わり,私は忘れられぬほど音色の深い上野の鐘を聴いた事があった。日中はまだ残暑の去りやらぬ初秋の夕暮れであった。・・・・・ 】

野口冨士雄編『荷風随筆集(上)日和下駄 他十六篇』 第九 崖(岩波文庫,1986,82ページ)
by yojiarata | 2013-04-12 21:25 | Comments(0)

三遊亭圓朝と牡丹燈籠




圓朝全集が37年ぶりに岩波書店から刊行が始まった。全13巻,別巻2の15冊からなる。

筆者の書棚には,大枚を投じて購入した春陽堂版全12冊(1926-28),角川書店版全7巻,別冊1巻(1975-1976)が並んでいる。

春陽堂版には,圓朝さんの実際の口演から起した速記録がそのまま収載されている。これを読んでみると,時代の差もあると思うが,はっきり云って,決して読みやすいとはいえない。春陽堂版を読み通すのは,大変な忍耐が必要である。

筆者の想像では,圓朝の研究者を別にすると,春陽堂版をとことん読み込んだ唯一の一般人は,五代目古今亭志ん生さんではないだろうか。CD に残した圓朝作品の数が圧倒的に多いのも志ん生さんである。志ん生さんの録音をきいていると,他のいかなる噺家の追随も許さない志ん生さんの話術,演出力によって明治の圓朝が見事に現代に蘇っている。ここには,志ん生さん自身が創り上げた素晴らしい志ん生さんの世界がある。

美濃部美津子さん (志ん生さんの長女)は,次のように話している。

【ほかのことはあれだけど,お父さん,芸のことになると家にいても忘れたことがなかったというのか,枕元にはいつも圓朝全集が置いてありました。ボロボロで汚くなっていましたがね。】

志ん生さんは,安中草三 後開榛名梅香』(あんなかそうざ おくれざきはるなのうめがか)[安中草三牢破り],『鶴殺疾刃包丁(つるころし ねたばのほうちょう)』[御家安(ごけやす)とその妹]などでは,複雑怪奇な作品を,実に見事に編集して語っている。[ ]内は,CD化された噺のタイトル。

角川版は,一般の読者を想定し,読みやすくするために大幅に編集し,会話ごとに段落を入れ,現代仮名遣いを用いている。

刊行が始まった岩波版は,そのごく一部が pd f としてネット上に公開されている。基本的には,角川版の様式と変わりがなく読みやすいが,「彼の娘が可哀相だから」(春陽堂版,巻の十,476ページ),「あの娘がかわいそうだから」(角川版,,631ページ)が,「彼の娘が愍然だから」となっている(岩波 pd f 版,463ページ)など,原典を重視するあまり,かえって不自然である。岩波版には,他にも現在使われる機会の少ない漢字表現が多くみられる。学術文献としては当然かもしれないが,これは一般の読者には余り有難くない。

春陽堂版には,当時使われていたのみられる挿絵が使われている。また,角川書店版には,春陽堂版とは異なる挿絵が掲載されている。とくに,殺しの場面や幽霊の絵が怖い。また,濡れ場の挿絵が当時の作品としては実に生々しく,ドキッとさせられる。

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三遊亭圓朝全集  怪談噺 (角川書店,1975)


『牡丹燈籠』を読むには,岩波文庫版が手軽で適当である。

志ん生さんの『牡丹燈籠』では,「これは,圓朝という人が,何か聴いて作したものです」との前置きがある。

その何か というのは,中国の伝奇小説中興の先鞭をつけた明の文人・瞿佑(く ゆう,1341-1427)による作品である。

瞿佑(飯塚朗訳)『剪燈新話(せんとうしんわ)』 (平凡社,東洋文庫48,101-12,1965)
牡丹燈籠(牡丹燈記)

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ここでは,圓朝の牡丹燈籠との対応は

萩原新三郎 ⇒  喬

お露 ⇒ 麗卿

お米 ⇒ 金蓮

白翁堂勇斎 ⇒ 魏法師

となっている。

幽霊となった麗卿が喬を誘惑し,結局死に至らしめた罪に問われ,喬,麗卿,金蓮の三人が裁判にかけられる。

判決文

双頭の燈籠(金蓮が麗卿の道案内をするときに持っている燈籠,筆者注)は焼き捨てて,三人のものはただちに地獄へひっ立てよ

魏法師は唖にされて,ものがいえなくなっていた。

***


牡丹燈籠の残りの部分は,圓朝の創作による因果応報・凄惨な殺人の噺が延々と続く。

六代目三遊亭圓生もいくつか圓朝作品をCDに残しているが,凄惨な殺しの部分を怖ろしく語っている。筆者の知る限り,志ん生さんは,おそらく意図的に,そのような場面を語ることを避けている。

怪談 牡丹燈籠(岩波文庫,昭和五十年第十六刷)[圓朝作品の成立については,奥野信太郎の解説が本書末尾に掲載されている]

圓朝の人と言葉と業績については,永井啓夫 『三遊亭圓朝』 (青蛙房,昭和46年)に詳しい。
by yojiarata | 2013-04-11 13:49 | Comments(0)