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回想の前田山英五郎  第1話



前田山英五郎 殺気と迫力 万年大関編


万年助教授という言葉に親しみを感じる。万年助教授に分類される人には,懐かしくも面白い人がいるというのが,万年助教授であった自分に対する励ましでもあった。

万年大関の前田山(1914-1971)は,戦前,戦後のわが家のヒーローであった。時代も体型も性格も違うが,懐かしい人であるという点で,朝青龍と比較したくなるお相撲さんである。筆者の母は,前田山のファンのくせに,「出世するお相撲さんは,小結,関脇,大関,横綱とトントン拍子で上がっていくもので,前田山のように,せっかく大関までいったのに,上がったり下がったりしていては,絶対に横綱になんてなれないんだ」などと,いまでいう評論家と同じように無責任なことを言っていた。

本業である医師の仕事をそっちのけにして,何でもやたらと手を出す困った性格の筆者の父は,自分と同じように,ダンスや玉突きや野球に夢中になっている前田山がひどく気に入っている様子であった。前田山の部屋からは,ジャズが響きわたっていたという。

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前田山の相撲は,多くの人を惹きつけたと思う。奇手の“張り手”が突如として飛び出す,恐ろしく元気な前田山を知らない人はいなかった。しかし,張り過ぎをよしとしない人がいたこともまた事実である。昭和12(1937)年5月の夏場所,前頭5枚目の前田山は,連勝を続けていた破竹の大関双葉山に挑戦し,上手投げで敗れた。この対戦のあと,前田山の張り手に議論が集中した。

前田山は,昭和12(1937)年入幕,前頭2場所,小結1場所のあと,関脇を飛び越えて,1年で大関に昇進した。昭和13(1938)年の春場所千秋楽の翌日の新聞に,「前田山会心の笑み(けさ撮す)」の見出しのついた大きな写真とともに,つぎの記事が掲載されている。新聞記事は,全て原文のまま。

1月27日

【気焔吐く前田山 廿五歳で大関 けふ滿場一致決まる】昭和13年春場所を希有の人気の中に打ち終えた満悦の大日本相撲協会は26日は荘重な新番付編成会議 午前9時協会楼上に集まった取締,理事,検査役一同は明日に改選を控えているだけに緊張して会議に列したが,席上誰が口を切るともなしにこの場所猛烈な元気で土俵を飾って大観衆を唸らした新小結前田山の大関昇進問題が議題に上がって忽ち満場一致で彼の大関が承認された。】

愛媛県西宇和郡喜木村大字喜木の産,15歳地方巡業に来た高砂一行に見出されて入門した彼は昭和4(1929)年1月が初土俵,7年1月幕下,8年5月十両と順調であったが右腕の骨髄炎に罹って不幸。二場所を休場。この時慶大整形外科前田和三郎博士の献身的な努力によって二場所の休場で快癒した彼は当時の力士名佐多岬をやめて前田山と名乗りここに華々しい更生の一歩を踏み出した。以来彼の闘志はいかなる相手ものんで11年1月には十両に返り。翌年1月には入幕,そしてまたゝく間に小結となり大関となってしまった。

前田山談

【わしに,張り手をやめろと言うのは相撲を止めろと言われるのとおなじですよ。わしは昨年夏双葉関を張った以外,自分で張ろうと思って張った事は無いんです。相手が悪いんですよ。頑張りますよ。恐いものなんかないからね。】

横綱昇進を目指す前田山の前に,双葉山と羽黒山がつねに立ちはだかっていた。昭和14(1939)年夏場所から,10勝5敗,10勝5敗,11勝4敗の成績を残した前田山は,昭和16(1941)年春場所,横綱羽黒山,続いて横綱双葉山を連破した。

横綱昇進をかけた前田山必死の挑戦を,新聞はつぎのように生々しく伝えている。いまテレビで見るタレントのショーのような相撲とは別世界のことのように思える。

1月22日
【勝放し双葉獨り 凄壮羽黒,前田の決戦】大鉄傘も揺れんばかりに沸き立つ渦の中に全勝を誇る両大関安藝ノ海,羽黒山が揃いも揃って遂に最初の土をつけられて場内はただ熱狂の渦,大鉄傘も揺れんばかり沸き立つこの中に双葉のみは悠々白星を重ねて三役,幕内,十両を通して唯一の勝放しとなり悠然たる無雙ぶり】

【勝放し双葉獨り 凄壮羽黒,前田の決戦】舷々相摩してともに負けられぬ相撲 羽黒と前田の一番は最初から異様な緊張が土俵に漲っていた。やがて時間いっぱい,しかも前田は“待った”羽黒の不快な表情,行司玉之助も何か気押された様に之を許したのが意気を更に掻き立てた。続いて二度目の仕切り顔面蒼白の前田はまだ構への出来ない相手に突っかかった。瞬間“ようしそれならと ・・・ 凄い光が羽黒の瞳にも走って緊張は遂に凄壮な殺気に迫った。

立つや満場騒然の中にも,ピシャピシャと前田の張手の音が鋭くなる。勝敗決して退場後もなお締込も解かず支度部屋に憤然立ちはだかった羽黒は

”いきなり引っ叩かれて眼が眩んぢゃった。土俵を割ったことなんか解るもんか。あんな手があるか。あれぢゃまるでケンカだよ,おい”

妖しいまでの殺気が未だ消えぬ前田は,凄い微笑を口許に浮べて無言。】

1月23日

【双葉遂に倒る 前田,捨身の吊り出し 立上がって双差しを狙う前田 突っぱねて前進する双葉,そこに何ら異変の予感はなかったのだが,次の瞬間猛烈な上突張りを張手まじりに連発しはじめた前田がガプッと双差しになると同時に明らかに攻守位置を変えた。】

つぎの説明とともに,4枚の写真が掲載されている。

【前田山闘志満面の上突張に殺気土俵に満つ】

【双差しから双葉捲変えて左四つ と見る間に決行した前田渾身の吊り】

【浴せんとする双葉を吊ったまま打棄りの体勢で仕止める前田,双葉の体宙に浮く】

【控えの男女ノ川の上に落ちて引き起こされる双葉山 勝った前田が表情を地獄から極楽に戻して土俵上から手をのべる】

取組後の双葉山

【勝力士の如くに悠々と正面に敬禮して混雑の中を支度部屋に引きあげた双葉山は黙々といつもの如く風呂に浸りポッと左頬を紅くして出た。そして左四ツだったよと誰にともなく言った。贔屓が,“アゴは痛くないか”と聞く。“いや痛くないよ別に”とニコニコ笑う双葉。左手で自分のアゴを動かしながら,“アッパーカットは痛いなあ”といったが何故左を捲変へたか?の質問に対しては モロだもの捲変えるのが当り前ぢゃないかののみだった。】

前田山は,双葉山に8回対戦し,善戦したが,この場所を除いてはいずれも破れている。69連勝以後の双葉山が,横綱,大関に破れたのは,この時の前田山のほかは照國だけである。

この場所は,双葉山が14勝1敗で優勝した。大関羽黒山が優勝同点であった。前田山は,松浦潟,玉ノ海,照國に破れ,安藝ノ海とともに,12勝3敗の準優勝に終わった。前田山の横綱昇進が見送られた。

太平洋戦争は,緊迫の度を増していた。

昭和19(1944)年夏場所は,関東大震災直後の大正13(1924)年春場所以来,20年ぶりの野外晴天10日間興行として後楽園球場で行われた。雨天と警戒警報発令で一週間順延になった。同じ年の11月,つぎの年の春場所が,予定を繰り上げて後楽園球場で開催された。春場所を冬寒期の野外で行うことが困難と予想されたためである。

変則的なこの秋場所で,前田山が遂に優勝した。前田山の優勝は,後にも先にもこの時だけである。前田山の優勝は,きわどいものであった。関脇東富士が同じ9勝1敗の成績を残したからである。前田山,東富士の1敗の相手は,いずれも名寄岩である。新聞に掲載された星取り表には,「優勝前田山(九勝一敗)」の下に,やや小さめの字で,「横綱大関を除く幕内優勝東富士(九勝一敗)」とある。

11月22日
【前田山優勝す レイテを偲んで緊迫感のみなぎる10日間であった ここに目出たく千秋楽の太鼓が鳴る 平野製鑵所に本拠を置いて敢闘した勤労力士前田山に榮ある優勝額があがり,同じ職場で闘った東富士がこれにつぐ 増産戦線から直ちに迎えた秋場所であったが,職場での寸暇を割いて熱心に稽古したものに輝く勝利こそ新しき相撲道の描く双曲線である】

この日の新聞は,1枚2ページである。表には,「乾坤一擲,レイテ島攻防戦」の見出しがある。裏には,新聞小説,大佛次郎『乞食大将』(19)が掲載されている。

【前田山,横綱に 夏場所を終えた大日本相撲協会では15日午前10時から両国大金で番付会議を開き,今場所9勝1敗の好成績を残した西の正大関前田山を39代の横綱として吉田司家へ推薦することに満場一致で決定した。】

戦後初めて誕生した横綱である。大関在位は,昭和13年春場所から昭和22年夏場所まで9年5カ月に及び,前田山は33歳になっていた。その前田山が,遂に横綱になった。

前田山の横綱免許状には,

【別に粗暴な振舞ある節は,この免許を取り消す】


の一文が付け加えられた。

大関18場所の前田山の成績

8勝5敗,9勝4敗,10勝5敗,10勝5敗,11勝4敗,12勝3敗,10勝5敗,2勝3敗10休,11勝4敗,11勝4敗,9勝6敗,9勝6敗,8勝2敗,9勝1敗,1勝2敗4休(戦災で被害を受けた両国国技館における非公開場所7日間),5勝5敗,11勝2敗,9勝1敗

第39代横綱前田山(昭和23(1948)年春場所から昭和24(1949)年秋場所まで,在位6場所,1年4ヶ月)の成績

6勝5敗,1敗10休,3勝6敗2休,5勝3敗5休,9勝6敗,1勝6敗8休(引退)。

横綱昇進時の年齢33歳1カ月(最年長),在位6場所(最短),横綱勝率4割7分1厘(最低)はいずれも,昭和の横綱の記録である。

横綱・前田山は身長181センチ,体重105キロ。弟子の高見山,孫弟子の曙に比べると,吹けば飛ぶような大きさである。体重を増やすためには,ホルモンの大量分泌が必要であり,そのためには,充分な昼寝が不可欠とされている。前田山の体重が増えなかったのは,あまりにも色々なことに忙しすぎて,昼寝をする時間がなかったためだと一説にいう。

昭和14(1939)年,25歳で結婚以来,5度の離婚・結婚を繰り返す。社交ダンス教師免許取得,囲碁4段,ゴルフ角界一,従五位勲四等旭日賞授賞。


つづく

by yojiarata | 2013-03-28 21:10 | Comments(0)

回想の前田山英五郎  第2話



前田山英五郎 野球少年編



そして,前田山の人生を変える出来事が起こる。

昭和24(1949)年10月15日,大相撲秋場所は大阪で7日目を迎えていた。この日は,横綱・前田山にとって特別の日となった。

当時の新聞記事によって,この日の前後を辿ってみる。

10月16日
【千代の山破る】なお,負けつづけていた前田山はこの日から休場した。

新聞の星取り表では,中入後結びの一番の結果は,三根山(不戦勝)前田山となっている。この場所,前田山は,初日,力道山を上手出投で破ったあと,鏡里,大起,高津山,神風,出羽錦に連敗し,「病気療養」のため,東京に帰った。

昭和24(1948)年10月12日,戦後初めての日米親善野球のため,サンフランシスコ・シールス軍(オドール監督)が来日した。

巨人との初戦が行われた10月15日の後楽園球場のバックネット裏の一等席に,休場して信濃町の慶応病院に入院しているはずの前田山が座っていた。オドール監督と握手する前田山の写真が新聞に掲載された。前田山は,翌日の神宮球場での対極東空軍戦にも姿を見せた。

10月23日
【前田山に出場停止 協会,不謹慎を理由に処分 その理由は前田山が14日出羽錦との一番に破れ,1勝5敗のまゝタイヤー氏病(腸カタル)の診断書を残して同夜東京に帰り15,16日にはシールス軍の日米親善野球見物に後楽園球場や神宮球場に現れたことが不謹慎だと役員一同の憤慨を買った。なお協会内には強硬論が多いので今場所終了後の番付会議までにはさらに前田山に対し引退勧告などの処置に出るものとみられている。】

【前田山談 引退の意思はない 病気は腸カタルで非常に重く休場した。東京で野球を見物したのは本場所の期間中プロ野球を東京で行わないよう協会代表として交渉した時快諾してくれた連盟副会長鈴木惣太郎氏から日米親善のためオドール監督と握手してくれと頼まれたので断りきれず,後楽園球場に行った。神宮球場へは自発的に行ったが,ファンに対し申し訳ないと思っている。しかし引退する意志は全然ない。】

同じ日の日本経済新聞につぎの記事が掲載されている。

【日本相撲協会は,「廿三日の千秋楽には土俵をつとめたい」との(前田山の)申し入れを拒否した。横綱の申入れに対し役員会側が拒否したのは相撲界はじめてである。】

【出羽海協会取締は語る 前田山の態度は常識では判断できぬ。同横綱には出法停止を命じたが,横綱を処分できるかどうかは前例がないので今後の役員会で慎重に検討せねばならぬ。協会としては世論は前田山に悪く横綱の自発的引退を望む。】

10月24日
【前田引退 本場所を休場,帰京して日米野球見物に出かけ,問題を起こして22日協会から今場所の出場停止を言い渡された横綱前田山は千秋楽の23日午後2時引退届を協会に提出,協会では取締,役員協議の結果,これを受理した。今後は去る昭和17年襲名した年寄高砂となる。】

前田山は,本場所を途中休場して,野球に夢中になっていた。これは,横綱としてあるまじき行為である。すなわち,日本相撲協会の処分は当然である。それを当然のこととして100%認めた上で,あの時,日本中がどれほど興奮していたかを振り返ってみたいと思う。

10月13日
【シールス花やかに入京 銀座は戦後初の人出 家並みから花吹雪 田中絹代さんら30名の女優からそれぞれ花輪を受けたのち,オープンカーを連ねて京浜国道を新橋駅に到着,銀座通りから日比谷へ熱狂的な歓迎を受けながら行進し,夕刻宿舎の目黒雅叙園で実行委員会主催の歓迎会に臨み,ニッポン第一夜の夢を結んだ。】

10月14日
【シールス入京第二日 ファンで埋まる歓迎会 万雷の拍手浴びる】正午からマックアーサー元帥の招宴に臨み,夜7時からの芝スポーツセンターの歓迎会。午後5時の開場とともに会場になだれ込んだ群衆は2万人を突破したとみられ,大競技場も張りさけんばかり,入りそこなった数千の群衆と全署総動員で詰めかけた愛宕署員や警備員の間で「入れろ」「入れぬ」の押し問答が演じられる始末。定刻オドール監督を先頭に26選手が会場入口に姿を現せば,五色のテープと紙吹雪がとび,満場総立ちとなって歓呼,写真班のフラッシュ,フライヤーが雷光のようにひらめく。

・・・・・ 司会者の各選手紹介についでオドール監督があいさつをのべれば拍手が再び会場をゆさぶる。安井都知事が平和を象徴するナラの木製の「東京へのカギ」を選手団に贈り,田中絹代,高峰秀子,暁テル子の三スターが花束を贈って歓迎プログラムの第一部を終わった。】

10月16日
【初試合にマ元帥夫人が始球式 シールス猛打で大勝 巨人の投手陣全滅 痛烈,砂をかむゴロ 五万の人と自動車三千 押収した“ニセ切符”百二十枚】 入場券は,プレミアム最高二千円ともっぱらのウワサ。このキップインフレをあてこんだ大規模なキップ偽造団からのニセモノがはんらんの情報に警視庁からニセサツ専門の刑事連が内外野の入り口にがんばり目を光らした。この係りが同日夕刻までに押収したニセキップ,百二十枚。警視庁では予備隊二個中隊百二十名,地元富坂署から百名計二百二十名の武装警官を動員して警戒,一方各署選り抜きの三十名で交通整理に汗だく,当日は事故は少なく,迷子は五名だけ,これはすぐに親に引き渡された。】

中学生の私は,遥か岡山の地で,ラジオから流れるスタインハウアーのホームランのものすごさに興奮した。手製のボールを使って,カーブを如何に投げるかを連日研究していた私は,“40センチも曲がるカーブを投げるワール投手”に,どうしたら40センチも曲がるのかと胸を熱くした。

前田山は入幕した年の昭和12(1937)年,同時入幕した鯱の里と野球チーム「前鯱チーム」を結成している。バットをもった写真が残っている。日本中が興奮したあの時,前田山の耳には,生まれて初めて聞くことになるアメリカの球音が鳴り響いていた。眼前にはアメリカの白球がちらついて,矢も楯もたまらなかったに違いない。乱暴な飛躍をお許しいただけるなら,野球好きに悪人はいない。

戦争の巡り合わせとはいえ,生涯ただ一度の優勝をあの球場で記録したのも何かの因縁であろうか。前田山は,昭和46(1971)年8月17日,肝硬変のため,療養中の静岡県の温泉で死去した。享年57。高雲院英豪角道居士。

「野球少年」前田山は,愛すべき永遠の大大関であった。



前田山に関する2話の執筆にあたっては,当時の新聞(とくに記さない限り,朝日新聞,いずれも原文のまま)のほか,つぎの書籍を参考にさせていただきました。記して,感謝の意を表したく思います。

今田柔全:『どかんかい 第三十九代横綱張り手一代前田山英五郎』(BAB 出版局,1995)

高永武敏,原田宏:『激動の相撲昭和史』(ベースボール・マガジン社,1991)
by yojiarata | 2013-03-28 21:05 | Comments(0)

子守唄



理由があって,「緋牡丹博徒」(昭和43(1968)年公開)の DVD を見直した。

緋牡丹お竜(藤純子)のただ一人の子分・フグしん(山本麟一)は,お竜の父親を襲って殺害した犯人を捜しあてるが,返り討ちにあって重傷を負う。死の床で,お竜に「五木の子守唄」を唄うように懇願する。幼いころから,お竜の世話をしながら,長年お竜に淡い思いを募らせてきたフグしん。

五木の子守唄を低い声で唄うお竜。画面に流れる子供の頃から娘時代にかけてのお竜の回想シーン。フグしんは,お竜の唄う子守唄を聴きながら,眠るがごとく息を引き取る。この映画のハイライトとして忘れがたい。

〽  おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ
早よもどる

・・・・・



平成25年1月16日の朝日新聞夕刊の記事・「邪馬台国を求めて ➁」が目を引いた。過労のため失明した宮崎康平は,目となり,足となって自分を支えてくれた妻の和子とともに,九州の遺跡や古墳をめぐった。その結果,康平は故郷の島原を含む長崎諫早周辺に邪馬台国があったと確信する。康平夫婦が難艱辛苦の末に到達した結論をまとめた『まぼろしの邪馬台国』は,昭和40年代の邪馬台国ブームに火をつけるベストセラーとなった。

その宮崎康平が作詞・作曲した「島原地方の子守唄」

〽  おどみゃ 島原の おどみゃ 島原の
ナシの木 育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン 久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるバイ

・・・・・  



「三橋美智也 日本の郷愁を歌う」 キングレコード(1996)には,

五木の子守唄
島原地方の子守唄
中国地方の子守唄
江戸の子守唄

が収録されている。三橋美智也が唄う子守歌は,どれも素晴らしい。

子守唄は,当然のことながら,それを唄ってもらった時の自分の記憶にはないが,後期高齢者になったいま聴くと,気分が休まる。
by yojiarata | 2013-03-13 23:08 | Comments(0)

お国のために戦う  



日本銀行の次期総裁の話題がニュースを賑わしている。

総裁候補,副総裁候補(2名)が話されるのを聴いていて,少年の頃毎日のように歌っていた

兵隊さんよありがとう(皇軍将士に感謝の歌)(昭和14年)


を思い出した。

♪ 肩をならべて兄さんと
 
 今日も学校へ行けるのは

 兵隊さんのおかげです

 お国のために

 お国のために戦った

 兵隊さんのおかげです ♪


我々少年を含めたほとんどの日本人は,日本の勝利を疑わなかった。神風が吹いて,日本は必ず勝つ。一億総決起しようとの言葉が巷に満ち溢れていた。しかし,石油など,自国の資源がなく,日本は敗れるべくして敗れた。

***


日銀総裁の選出が,突如としてこのブログに飛び火したのは,候補者3人が揃いも揃って,安倍総理大臣に忠誠を誓い,” 3名の肩にかかった責任の重さを痛感し,身を捨てて仕事にかかり,もし2年後に成果が出なかったら切腹する” という意味の発言をされるのをテレビで聞いたからである。

***


日本銀行の建物は,イギリスのジョシア・コンドルが育てた日本人建築家の一人・辰野金吾によって,中央停車場(現在の東京駅),奈良ホテル,両国国技館(現存しない)などと共に設計された。ベルギー国立銀行を模して1896年に竣工した日本銀行は,今に至るもその静かな佇まいを見せている。

日本銀行総裁といえば,筆者には直ちに一萬田 尚登( いちまだ ひさと, 1893 - 1984 )の名前が頭に浮かぶ。一萬田は第18代日本銀行総裁 (1946-1954) を務めたあと,大蔵大臣(第58・59・60・63代),衆議院議員(5期)などを歴任した。

日本銀行総裁としての一萬田の在任期間は歴代最長の3115日。筆者が中学生から大学入学頃にかけて,新聞やニュース映画(当時は,映画を見に行くと,おまけとして,数分のニュース映画が映画の前に上映されていた)でみた一萬田の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌。日本銀行総裁というのは威厳があって,哲学者のような人物であるとの印象をもった。
 

日銀総裁は,総理大臣によって指名され,国会の同意を得て選出されることは百も承知している。しかし,こうして選ばれた日銀総裁が,まるで総理大臣の操り人形のように,お国のために働くというのは筋が違うと思う。筆者が理解するところでは,日銀総裁は思考の上では総理大臣とは独立の哲学者であり,況んや政治のどぶの中に身を投じるなどということなどあってはならないのではないか。

***


以下,日本銀行法(最終改正:平成二十三年六月二四日法律第七十四号)の冒頭部分から,筆者が重要だと考える部分を引用する。


第一章 総則(第一条―第十三条)

(日本銀行の自主性の尊重及び透明性の確保)
第三条

1.日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。

2.日本銀行は、通貨及び金融の調節に関する意思決定の内容及び過程を国民に明らかにするよう努めなければならない。

(政府との関係)
第四条

日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない。

(業務の公共性及びその運営の自主性)
第五条

1.日本銀行は、その業務及び財産の公共性にかんがみ、適正かつ効率的に業務を運営するよう努めなければならない。

2.この法律の運用に当たっては、日本銀行の業務運営における自主性は、十分配慮されなければならない。

***


それがどうだろう。選ばれし3名は,日本銀行の哲学などはどこへやら,選んでくれた総理大臣のために,切腹覚悟で戦うのだと誓う。

理解不能の数々の疑問が残る。

現在,安倍総理が推し進めておられることは,日本銀行法に謳われている基本精神に矛盾しないのだろうか?

うまくいかなかったら,どう責任をとられるのだろうか。切腹でもなさるのだろうか?

相談役と称してときどきテレビに出てくるあの年配の御仁は,総理大臣に,一体どんなアドバイスをしたのだろうか?

あの一萬田総裁もまた,時の総理の ”お太鼓医者” だったのだろうか?


つづく

by yojiarata | 2013-03-10 22:47 | Comments(0)

お国のために戦う  その2



安倍総理は,しばしば祖父・岸信介元首相を引き合いに出される。

岸信介(1896-1987)は,戦前,戦後を通じて,日本の歩む方向に甚大な影響を及ぼした人物である。総理大臣としての最後の仕事は,60年安保によって,日米同盟を決定的なものにしたことである。

岸のたどった道は,佐野眞一の著作に客観的データをもとに詳述されている。日本銀行総裁の人選を巡る安倍総理の強引ともいえる政策の進め方を理解するためにも,”満州の妖怪” と怖れられた岸の過去を知っておく必要がある。

***


佐野眞一『阿片王 -満州の夜と霧-』(新潮文庫,2005,11-12ペ-ジ)から引用する。


【・・・・・ 建国後わずか十三年で地上から消滅した「満州帝国」という人口国家を視野に入れない限り,「戦後日本」,とりわけ高度成長期の日本の本当の姿は見えてこない。

・・・・・ 日本の高度経済成長のグランドデザインは,かっての満州国を下敷きにしてなされたような気がする。時の総理大臣として,高度経済成長に向け号砲を打ったのは,前総理大臣・安倍晋三の祖父の岸信介である。その岸が産業部次長として満州に赴任し,満州開発五ヶ年計画をたて満州国の経済政策の背骨をつくって,のちに「満州国は私の作品」と述べたのはあまりにも有名である。
筆者注 「第1次安倍内閣」(2006年9月26日-2007年8月27日)

満州で最も有名な日本人といわれたのは,”二キ三スケ”である。東条英(関東軍参謀長),星野直(満州国国務院総務庁長)の”二キ”と,岸信(満州国総務庁次長),松岡洋(満鉄総裁),鮎川義(満州重工業開発総裁)の”三スケ”である。

東条はその後首相となり,星野は東条内閣の書記官長となった。また松岡は外相となって国際連盟脱退の立役者となり,鮎川は日産コンツェルンを満州経済発展の起爆剤とした。

この経歴が示すように,彼らは有名だったばかりではなく,満州と日本のその後の運命を決めた男たちだった。】


満州から帰国後,岸は商工大臣として東条内閣に入閣した。

***


岸は,極東国際軍事裁判でA級戦犯として逮捕され,巣鴨拘置所に収監される。東条英機を含む7名が処刑された翌日の昭和23(1948)年12月24日,岸は釈放された。岸とともに満州を牛耳った東条は,あの世でどんな思いでこのニュースを聞いただろうか。

出獄後,岸は公職追放の身分であったが,その後政界に復帰,結局,総理大臣に就任した。どこまでも幸運がついて回る男である。

60年安保で国中が揺れた年の6月18日深夜,新安保条約は自然成立した。日米が批准書を交換した6月23日,岸は閣議にて辞意を表明,7月15日,混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。

あいにく,栄枯盛衰は世の倣い,この総辞職の一日前の14日,岸は暴漢に刺され,瀕死の重傷を負っている。「満州国は自分の作品」と豪語したあの岸が,だらしない,哀れな姿で病院に運ばれるテレビの映像が今でも筆者の目に焼き付いている。

ともあれ,新安保条約の成立により,たとえどのような危険があろうとも,オスプレイの飛行訓練を遠くから虚しく仰ぎ見ることだけしかできない日本となった。



本稿の執筆に当たっては,前述の佐野眞一『阿片王 -満州の夜と霧-』(新潮文庫,2005)のほか,
佐野眞一『甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮文庫,2008)も参考にさせていただいた。ここに記して謝意を表したい。
by yojiarata | 2013-03-10 22:46 | Comments(0)

対話の技法  ♪ エー ♪, ♪ アノー ♪, ♪ ソノー ♪ 狂詩曲



何事によらず,最初が肝心だ。

筆者は,教師として,さまざまな形で対話をすることを長年経験してきた。その段階で,改善のための反省もあり,それに基ずく努力を重ねてきた。その経験を基に,中学生,高校生のみならず,広く一般の人々にも参考になると考え

荒田洋治『自分をつたえる』(岩波ジュニア新書,2002)

を執筆した。

この本の 【Ⅲ いかに話すか  4 演説にのぞむ(55-62ページ)】 に,今回のテーマである対話の作法に関して,次の諸点を中心に筆者の考えをまとめた。

最初の1分間が勝負だ

間を大切にする

声の大きさを調節する

聴き手を惹きつける


***


演説の論旨を頭のなかで十分に整理し,大事な言葉をゆっくり,はっきり,強調して発音することがまず何より大切である。

演説の筋道が頭のなかで十分に整理できていないときには,気ばかりが焦って,次の言葉が出てくるのを待てず,無意識のうちに,

♪ エー ♪


♪ アノー ♪


♪ ソノー ♪


が連発されることになる。これでは,聴き手が演説に惹きこまれることなどない。

その典型的な例を最近耳にした。参議院予算委員会での総理大臣と国会議員とのやり取りの半分は,♪ エー ♪, ♪ アノー ♪, ♪ ソノー ♪ で占められていた。国民を代表とするこれらの人々の対話に接し,余りの可笑しさ,恥ずかしさに,情けなくなった。

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原稿を完璧に作り,それを再現する(読む)ことが完璧な演説になると考えておられないだろうか。答えがノーであることは,国会の場で見聞する通りである。

我々が生業とする学会講演でも同じである。完璧な原稿を作って,それを完璧に講演で再現しようとしている人がいる。これでは,面白くも,可笑しくもない。その理由を以下に述べる。

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話が突然,語りのプロである噺家に話題を移す。

八代目桂文楽さんは,”完璧な原稿タイプの噺家” だったのではないだろうか。このタイプの人は,いったん途中で言葉に詰まると,大変なことになる。線路が途切れれば,次につながらなくなるからである。実際,文楽さんは,もう一度勉強しなおして,出直しますと深々を頭を下げ,そのまま引退してしまった。

対照的なのは,五代目古今亭志ん生さんだ。志ん生さんの場合には,ストーリーの大筋が頭に入ってはいるが,その入り方が文楽さんとまるで違う。志ん生さんの場合には,キーワードが断片としいて頭の中にある”棚”に入っていて,文字通り,瞬間瞬間の会場の雰囲気,自分の気持ちに応じて,それをつないでいる。このため,つなぎ間違えなどが頻繁に起きますが,志ん生さんは悠然と,別の棚から別の言葉を取り出して噺を続ける。したがって,登場人物の名前をとってみても,安三郎であったり安次郎であったり,目茶目茶であるが,これでストーリーが崩壊することはない。むしろ,巧まざるユーモアとなって,噺を盛り上げる。

極論すれば,学会講演も同じである。もちろん学会では,事実は100%正確であるべきことは言うまでもないのであるが,たとえば,最初の1分の勝負の折に,噺家の場合のように,”まくら”をいれて場の雰囲気をつくって本題に入ることがあってもよいのではないだろうか。

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オリンピックの招致委員会の出来事も,恥ずかしいの一語だった。

より速く,より高く,より強く

1番バッターの総理大臣が発した,歌とも,掛け声ともつかぬ奇妙きてれつな大声も,滑稽の一語だった。ご本人は,よくやったと思っておられるのではないかとの印象をもった。もしかしたら,ご自分は,上質のジョークだと考えた上で実行に移されたのかもしれない。要するに,センスの問題である。

ジョークと言えば,アメリカ第40代大統領ロナルド・レーガン(共和党選出)は,暗殺未遂事件の後,緊急手術の場にのぞみ,手術室に入ってきた医師団に,

よろしく頼む,ところで,諸君は全員,共和党員だろうね。

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筆者の個人的な感想を言わせていただけるなら,この招致委員会での日本側の代表によるプレゼンテーションは,成功だったとは言えない。

2018年冬季オリンピックの開催地が韓国に決定した折,たまたま聴いたキム・ヨナさんの素晴らしい英語の演説には全く感心した。福原愛さんは,中国語がネイティブ並みで,それゆえ,中国で多くのファンをもっていると聞く。ここで強調しておきたいのは,単に語学力を問題にしているのではない。

対話には,個々の人に特徴的な面白さが必須の条件である。オバマ大統領と会談した安倍総理を見ていて感じるのは,オトナとして対等に相手にされていないのではないかという危惧である。

このような地盤を固めることが,日本が今後オトナとして国際舞台で対話するために必須ではないだろうか。
by yojiarata | 2013-03-08 13:26 | Comments(0)

大相撲  立ち合いの今昔



大鵬の特集番組をNHKテレビで見ながら,妙なことに気が付いた。

少なくとも,映像に登場する力士(大鵬,柏戸を含めて)には,”立ち合い” に手を土俵につくなどという動作はまったくみられない。両手を腰のまわりにブランと下げ,カンガルーが喧嘩の前に向き合うがごとく,そのまま立ち上がる。

大鵬-柏戸戦然り,当時大関だった北の富士,”憎らしいくらい強い”北の湖,・・・・・ 誰一人として土俵に手をついている力士はいない。今から見ると,いささか異様な風景である。

多くの力士が腰を割らず,仕切り線に両手を着かないで立合う有様でしばしば問題視されたため,30年近く前に協会主導のもと立合いの正常化が徹底され,両手を着いての立合いが義務化された。北の湖理事長も何度もこの件に言及,力士全員にしばしば注意の通達を出しておられる。

土俵にしっかりと手をつく正しい立ち合いで,大鵬-柏戸の決戦をもう一度見たいものだ。
by yojiarata | 2013-03-07 18:38 | Comments(0)