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亭主をおしりに敷く所作  日本語と英語



10年以上も前のことになる。

大学を定年(当時は満60歳に達した直後の3月末日)で退職した後,縁があって農水省がつくばに設立した機能水研究所の所長を6年間務めた。

研究所が発足後しばらくして,オーストラリア人のビル君が主任研究員として加わってくれた。研究を活発に進め,ビル君のおかげで研究所の実績がどんどん上がっていった。

研究も然る事ながら,ビル君から多くのことを学ぶ得難い経験をした。そのうちの一つが英語である。

***


ことの起こりは,筆者の書いた英語の小文がビル君の目に触れたことから始まる。ビル君は,筆者が,my hand on my waist と書いたのを目敏く見つけて,貴殿は,一体何を言いたいのかと訝しそうに問うた。私は即座に,腰に手を当てるのは,小学校の体操でも,駅のホームでぼんやり立っているときでも,「われわれ人間が行うはなはだ標準的かつ基本的な行為である」と答えた。

筆者の説明を熱心に聞いたビル君は,それなら my hand on my hip といわねばならないと主張した。少なくとも,英語には,my hand on my waist という表現はないと断言する。ビル君の奥方のハスナさんも全く同意見であった。英語では,決してそうはいわないとおっしゃる。

筆者は,ヒップというのは,卑猥である,いわんや,ヒップに手を当てるなどという表現は,このセクハラ時代に口が裂けても使いたくないと反論したが,ビル君もハスナさんも,ヒップに手を当てるという表現には,なんら卑猥な響きがない,どこが悪いのだと譲らない。

以下,その後の議論を要約する。なお,筆者の質問,コメントは,【・・・・・】のように示した。

***


【hip の定義をうかがいたいと思います】

hip とは,お腹の下の,左右に飛び出している硬い部分のどちらかひとつを指します。


【そうすると,hip は普通名詞ですか。すなわち,数えられるのでしょうか】

その通りです。人間は hip を2つ持っています。左の hip と右の hip がそれです。ですから,貴殿の意図を正確に表現したいのなら,左の手を左の hip に当てる,あるいは右の手を右の hip に当てるといわねばならなりません。ただし,左の手をぐるりと回して右の hip に当てるのは,普通は不自然かつ困難です。これは,右の手についても同様です。従って,単に,手を右の hip に当てる,あるいは,手を左の hip に当てるといえば充分です。場合によっては,ただ,手を hip に当てるといっても,かまいません。


【それでは,waist とは何でしょうか】

waist とは,上の胸部,下の hip の間のくびれた部分です。


【waist はそのままウエストとなって,言葉としてはいつの間にか日本語として定着しています】。

日本語の辞書には,何と書いてあるのでしょうか?


【岩波広辞苑第六版には,

しり【尻・臀・後】

腰の後下部で、肉の豊かに出た所。肛門のあるあたり。臀部でんぶ。おいど。いしき。けつ。源氏物語帚木「簀子すのこだつものに―かけて」

と書かれています】

hip も いつのまにか日本語として使われているようですが,日本人は,一体どこを指してヒップといっているのですか。


【『医学用語辞典』の和英編には,ヒップの項目はありません。英和編では,hip = 股関節部と書いてあります。

洋裁では,ウエストから測って18センチ下です。平均の体型の人なら,ここがビルさんのおっしゃるヒップの位置です。

岩波国語辞典第三版によると,「腰の後ろの部分」です。“夫を尻に敷く”という例があがっています。岩波広辞苑第四版では,「腰の後下部で,肉の豊かに出た所。肛門のあるあたり。臀部。おいど。いしき。けつ。」となっています】

貴殿の説明をうかがった範囲でいえば,腰もお尻もヒップも,私たちが思っている hip と全く違いますね。

ハスナさんの発言 亭主をお尻に敷くには,私なら buttocks を使います。


【ハスナさん,buttocks を定義してください】

buttocks とは,椅子に座ったときに,椅子の平たい部分と直接接触する丸くて柔らかい突出した部分のことです。普通の人なら二つありますから,この部分全体を指すときには,複数形にして使います。


【日本語では,buttocks を含めて,うしろの膨らみ全体を漠然と指して,お尻といったり,ヒップといったりしているような気がします。ヒップは,ビルさんのおっしゃる hip を含むより広い部分,腰は buttocks より上,waist から下の,hip を含むさらに広範な部分だと思います。厳密なビルさんの定義では,buttocks と waist の間のうしろの部分を何とよぶのですか。日本語の腰は,そこを含むのですが】

子供の時以来,聞いたことがありません。


【お相撲さんのまわしは,どこに巻いてあると表現しますか】

お相撲さんは,まわしを hip の上に乗せるように巻いています。


【それは違うと思います。まわしは,腰に巻くのです。お相撲さんはお腹が飛び出していますから,注意して巻かなければいけません】

それはまずい。waist のまわりに巻いたら,苦しくて,相撲なんかとれないと思います。


【それでは,まわしはヒップの上に巻くのですか】

それはだめです。hip の上に乗せるようにして巻かねばなりません。


【何故ですか】

人体では hip がもっとも出っ張っていて,下に行くほど細くなりますから,ヒップの上に巻いたら,まわしがずり落ちて来るではありませんか。そんなことは,土俵の上でみんなに見られているお相撲さんには,絶対にすすめられません。これまで述べた全ての条件を満足するように,まわしは,waist の下に巻いて,hip で支えなければなりません。しかし,まわしを固定する上で,waist の役割は受動的です。能動的な役割を果たすのは,あくまで hip です。

***


NHKラジオの基礎英語1,2,3,続いてラジオ英会話(合計1時間,1日に何回か再放送される)を聴くとはなしに聴いている。ついこの間,どれかの番組で,先生が,

ヒップとおしりは違います


とおっしゃった。

ビル君はオーストラリアに帰国後,University of Western Sydney の教授に就任し,大活躍している。
by yojiarata | 2013-02-25 17:00 | Comments(0)

望郷の詩



岡山から笈を負って上京したのが昭和27年。あれから60年になる。浜松までは蒸気機関車,トンネル内の煙には閉口した。浜松からは電化されていた。夕方に岡山を出発し,翌朝に東京に到着。その間,14時間。

コメは統制下にあり,「外食券」が必要な時代だった。学内の掲示板には,”外食券を売る”,”外食券を買う”の紙が貼ってあった。下宿もこの掲示板で見つけた。

下宿には,筆者とほぼ同年代の二人の息子がいた。東京生まれ,東京育ちの兄弟は,

君は,田舎があっていいね

とよくいっていた。田舎育ちの一人暮らしには,とくに夕暮れ時が何とはなしにわびしい。しかし,このわびしさを知らないのは,もしかしたら,不幸なことかも知れないと思った。

***

1970年代の初め,仕事で滞在していたアメリカで,若くして逝った友・高野公男を訥々と語る船村徹をテレビで見た。胸が熱くなった。日本人向けに,日曜日の夕方に放送される番組だったと記憶している。高野公男作詞,船村徹作曲の『別れの一本杉』 (昭和30年)。

 遠い 遠い 

想い出しても 

遠い空  ・・・・・ 


春日八郎は故郷の一本杉を想いながら歌ったという。


***


エリザベート・シューマンがジェラルド・ムーアの伴奏で1949年に録音したミニオンの望郷の詩は胸を打つ。ミニオンは,サーカスの一座とともに暗く寒いドイツを旅しながら,

Nur wer die Sehnsucht kennt
Weiss, was ich leide.

あこがれを知るものだけが わが悩みを知る

と,シトロンの花が咲く明るいイタリアの故郷を歌った。

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エリザベート・シューマンは,この録音の3年後,66歳で他界している。ナチスドイツに追われて1938年アメリカに移り住んで以来,彼女は故郷の地ザクセンを二度と踏むことはなかった。

シューベルトは,ゲーテのこの詩に6回も曲をつけなおしている。もしかしたら,シューベルトにも,人知れぬ望郷の想いがあったのかもしれない。


***


生まれ育った堺を23歳であとにした与謝野晶子が東京で詠んだ26歳の望郷の詩

 
海恋し

 潮の遠鳴りかぞへては

 をとめとなりし父母の家


の体言止めに,霞むような美しさが見えると 『 恋ごろも 』 (明治37(1904)年)の感想文を書いた高校生の長女は成人し,今,二人の子供を育てつつ,システム・エンジニアの仕事をしている。


***


22歳のフィッシャー・ディスカウが1948年にベルリンで録音した『 まち 』(白鳥の歌)。若々しいバリトンによって夕映えに浮かび上がる 『 まち 』に,わが故郷が重なった。

ジェラルド・ムーアのピアノのそこはかとない響きとともに,フィッシャー-ディスカウのバリトン

Aber Vater und mutter sind lange tot

Es kennt mich dort keiner mehr

と流れる『異郷にて』(シューマン,リーダークライス作品39,アイヘンドルフ詩)を聴きながら,望郷の想いに,西洋も,東洋もないと思った。


***


ここまで書いてきて,北アフリカのアルジェリアの砂漠で,非業の最期を遂げた10人の日本人を含む多数の技術者達の無念さを思う。望郷の念は如何許りだったろうか。

北アフリカの広大な砂漠から,祖国日本に思いを馳せる望郷の詩 『カスバの女』 (作詞・大高ひさを,作曲・久我山明,1955)が頭に浮かんだ人も少なくないはずだ。現在,You Tube で多くの歌手による録音を聴くことができるが,少なくとも筆者には,青江三奈さんによる望郷の響きが最も印象に残る。

亡くなられた方々,家族の方々に心よりお悔み申し上げます。

合掌
by yojiarata | 2013-02-18 20:00 | Comments(0)

我が母校にも押し寄せてきた”体罰” の波



今日の朝刊*を見て,ひっくり返らんばかりに驚いた。体罰の波が,遂に我が母校,岡山県立岡山操山(そうざん)高等学校に押し寄せてきた。

野球部のマネジャーの2年生が自殺したのだ。

朝刊の記事によると,「マネジャーなら黒板くらい書け」と怒られ,自殺当日も「声を出せ」と注意され,練習後1人呼ばれて叱られた。

朝日新聞は,この件を監督による体罰にあたるとして大きく報道した。しかし,これが体罰だとすると,野球部監督は引き受け手はなくなってしまうだろう。

我が母校だから言っているのはない。いま,体罰とは何かが問われている。




筆者が言う朝刊*とは,朝日新聞の朝刊のことである。とくに朝日新聞である理由はない。昔,取り始めて以来,そのまま取り続けているだけである。
by yojiarata | 2013-02-14 00:25 | Comments(0)

安倍総理大臣 と オバマ大統領   演説を聴く



過去1ヵ月の間に,1国のリーダーである2人の演説を聴くことになった。

平成25年1月28日 第百八十三回国会における安倍内閣総理大臣所信表明演説。

迫力の無さは目を覆うばかりである。理由は簡単。目を原稿に落として,それをただ棒読みしているだけだからである。

これに対して,昨日聴いたオバマ大統領の年頭教書演説。原稿などない。終始,会場を見まわしつつ,堂々たる態度で朗々と演説する。

2人のリーダーを比較して,余りの迫力の違いに恥ずかしくなった。顔から,汗が流れる思いである。


演説の迫力の差は,あらゆる点で,2国間の力学に反映される。
by yojiarata | 2013-02-14 00:24 | Comments(0)

ドイツ語の青春



大学に入り,最も熱心に聴いたのはドイツ語の授業である。試験の成績もまずまずだった。

英語の方はさっぱりで,成績はいつも,”良” あるいは ”可” 。君は高校で何を教わってきたのだと教師に皮肉を言われた。教育パワハラである。しかし仰る通りなので,これではいけないと反省し,力を入れて勉強を始めた。

野島先生のドイツ語の授業はいきなりファウストが出てきたり,さすがは大学だと感じた。授業がしばらく進んだ頃,野島先生が,「蓄音機」を提げて現れた。「蓄音機」といっても,今ではそれが何者であるか理解できる人は多くないかもしれない。手でぐるぐる回して,レコードを回転させるためのモーターの準備をする。レコードは78回転のSP。

演奏が始まった。曲はシューベルトの『魔王』,瀕死の我が子を抱いて必死に馬を走らせる父親,子供にしか見えない魔王の幻影。そして,子供は死ぬ。ゲーテの原作にシューベルトが曲をつけたものである。野島先生が詳細に解説してくださった。

この時の経験から,筆者はドイツ歌曲に強く惹かれることになった。それ以後,手あたり次第ドイツ歌曲を聴くうちに,作曲者はシューベルトとシューマン歌手はディトリッヒ・フィッシャー-ディスカウ,伴奏はジェラルド・ムーアに収斂していった。

今から思うと,野島先生が聴かせてくださった歌手は,ゲルハルト・ヒュッシュ(Gerhard Hüsch, 1901-1984)だったのではないだろうか。ゲルハルト・ヒュッシュは,若き日のフィッシャー-ディスカウが追いかけ,つねに比較された先輩のバリトン歌手である。
by yojiarata | 2013-02-11 23:03 | Comments(0)

病を生きる



年齢を重ねるにつれて,嫌でも病院通いの機会が増える。

病院の待合室。ちょっと見ただけでも,高齢者の割合が高い。夫婦のどちらかが診察してもらうのだが,ほとんどの場合,夫婦一組で来院する。

確率的には,参っているのが亭主で,支えるのが女房というのが標準的パターンである。すなわち,精神的にも,肉体的にも,女房が主導権を握っている場合がほとんどである。

待合室に座っている。すぐ横の席の夫婦の会話を聴くとはなしに,聴いていると,これが身につまされることが多い。

亭主: 俺の病気,一体治るんだろうか。 がんかもしれない。 心配だ,心配だ,・・・・・ どうしよう ・・・・・ 何度も同じことを繰り返す。

女房応えて曰く: 心配して治るものなら,お医者さんはいりませんよ。 よかったら,いくらでも心配したらいいですよ。効果は保証しませんけれど。

亭主 ?????

その日のNHK ラジオ 深夜便で,アン真理子さんの 『悲しみは駆け足でやってくる』 を聴いた。 

   あしたという字は,
   明るい日と書くのね 
   ・・・・・    


と歌っておられた。

長生きするには,のんきがよいのではないでしょうか。

by yojiarata | 2013-02-09 22:44 | Comments(0)

惜別 千石規子さん



昨年から今年にかけて,世界的な名声をもつ映画監督,歌舞伎界の大御所が次々に他界され,新聞,テレビで大きく報道された。

その陰に隠れるように,多くの愛すべき人物がひっそりとこの世を去った。千石規子(せんごくのりこ)さんもその中の一人である。とくに,三船敏郎のデビュー作 『酔いどれ天使』 (黒澤明監督作品,1947)の印象は鮮明である。結核に侵されながら,酒におぼれ,坂道を転がり落ちるように命を落とすやくざの松永(三船敏郎)。その松永の病気を気遣いつつ,心ならずも 酒場で酒を出すぎん(千石規子)。

誰からも見捨てられた松永の遺骨を引き取り,

”郷里(くに)に帰ってのあの人のお墓を作ってやるんだ。このままでは,あんまり可哀そうだもの。”

遺骨を抱いてポツポツと語るぎんの遠景のラストシーンが印象深い。

その後もいくつかの黒澤作品に登場,とくに,『野良犬』の拳銃密売組織の一員として出演,短時間ながら,存在感を示した。いい女優さんだった。


千石規子
2012年12月27日没
享年 90
by yojiarata | 2013-02-08 08:28 | Comments(0)

内閣総理大臣 対 各党代表の ”論戦” を聴く



内閣が交替し,総理大臣の所信表明演説に対する各党党首の代表質問,それに答える総理大臣のやり取り( ”論戦” )がテレビで実況され,新聞にも大きく報じられた。

普通,論戦と言えば,質問を聴いた上で,その場で適切に回答をする,必要に応じてさらに追加質問するというのが筋である。『広辞苑』によると,「論戦」とは「互いに議論をたたかわすこと」とある。すなわち,論戦とは,ダイナミックで知的な言葉のやりとりなのだ。

ところが,我らが総理と各党党首の”論戦”には,それが全く感じられない。まるで,冷蔵庫に保存された烏賊のように,冷たく,動きも何もない。何故だろうか。どうにも腑に落ちない。

筆者は超後期高齢者になり,一日中家にいることが多いので,今回は,テレビで一部始終を注意深く観察することにした。

やり取りの順番をまとめると次のようになっている。

1) それぞれの党首が質問する。

   質問は印刷されているらしく,党首はそれを朗読する。

   質問が終わると,質問が印刷されている用紙を,演台のすぐ下にいる4人の人物(書記?)の一人に渡 して自分の席に戻る。

2) 総理大臣が,回答に立つ。

   総理大臣も,用意された用紙を棒読みにしている。
  
   時々ポーズとして,党首の方をちらっと見る。

回答が用意され,それを棒読みにする姿は,いかにも奇異である。


以上がワンセットで,次の党首が登壇し,同じことが繰り返される。

質問が予め印刷され,各党首はこれを読み,それを書記に提出するのには不思議な点はないといえばない。しかし,上で述べたように,これでは,質問がこれっきりで終わりになり,論戦にはなりえない。

もっと不思議なのは,総理大臣が,回答が印刷されていると推測される書類をただひたすら読んでいる点である。

こうなると,総理大臣は「質問」を予め入手し,それに対する回答を印刷して登壇,棒読みにするとしか考えられない。回答は,主に官僚の手になるものと想像される。余りにも素っ気なく,魂が入っていない,空疎な内容だからである。

情けないことに,総理の回答は,極論すれば,”ハイ” とか ”イイエ” 以上のものではない。質問する各党の代表が追加の質問をして,総理の真意を問いただせる仕組みになっていないから,これ以上の進展など,あるはずもない。

極論すれば,試験問題を予め入手したうえで,誰かに助けてもらって用意した解答を手元に用意して試験場に入るのと同じではないか。これが,”近代民主主義国家”日本の実情なのだろうか。だとすれば,こんな情けないことはない。この ”論戦” は,一国の政治の方針について,総理と各党党首が公の場で意見を交わす極めて重要な機会だからである。

例えば,アメリカでも,議会の論戦はこんな調子で進行するのだろうか。
by yojiarata | 2013-02-04 21:25 | Comments(0)