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NMR余話 Ⅰ



昨年4月22日に,このブログにNMR50年(Ⅰ-Ⅴ)を掲載した。

NMR50年について,別の観点から書いておきたいことがあるので,「NMR余話Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ」 としてここに掲載する。


【A】 NMR分光計の開発,改良


NMRの歴史は,NMR分光計開発の歴史である。その歴史を遡っていると,科学研究における伝統の重みを感じないわけにはいかない。 NMR現象の検出に最初に成功したのは,確かにアメリカのグループである。しかしそれは,オランダで永年にわたって営々と積み重ねられていた磁性物理学の分厚い,しかし地味な研究の上に開いた花であることを忘れることができない。その後も,オランダからは,NMR研究の節目節目で,きわめて本質的な業績が生まれている。

1950 年代の後半から 1960 年代にかけてに3冊の教科書が出版された。

John D. Roberts: Nuclear Magnetic Resonance APPLICATIONS TO ORGANIC CHEMISTRY (McGRAW-HILL BOOK COMPANY, INC. 1959)

J. A. Pople, W. G. Schneider, H. J. Bernstein: High-resolution Nuclear Magnetic Resonance (McGRAW-HILL BOOK COMPANY, INC. 1959)

L.M. Jackman: Applications of Nuclear Magnetic Resonance Spectroscopy in Organic Chemistry (S. Sternhell, 1969); 高分解能核磁気共鳴-その有機化学への応用-(清水博訳)(東京化学同人,1962)

日本からも,

藤原鎭男,中川直哉,清水博:高分解能核磁気共鳴 化学への応用 (1962,丸善)

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が出版された。自らの頭で再構築された事柄がイメージ豊かに丹念に書き込まれていて,いま読んでも教えられるところが多い。

今と違って,NMR分光計はどこにでもあるわけではなかった。研究者たちは,これらの数少ない装置を,時間を分け合って使っていた。時間が限られている分,実験の成果は密度が高かったように思う。

はじめに,NMR分光計の開発にあたった国内外のメーカーの初期の動きについて,その概略をまとめておきたい

1) バリアン

Russell VarianとSigurd Varian は,全ての点において対照的な兄弟であった。兄の Russell は,スタンフォード大学で物理学を学んだ学者肌の発明家であった。のちに,バリアンの財政的な基礎となるクライストロンを始めとして,100点以上の発明を世に送り出した。弟の Sigurd は,勉強というよりは冒険を志した。アクロバット飛行に熱中し,後にパンアメリカン航空のパイロットとなった。バリアン兄弟は,クライストロンの発明と,航空機の計器飛行への応用という観点から協力し,第2次大戦ではこの結果が重要な役割を果たしたという。

戦後の1948年,バリアン兄弟は,カリフォルニア州サン・カルロスにVarian Associates を創設した。従業員は最初わずか6人であった。しかし,Felix Bloch ,William W. Hansen などのコンサルタントの助言を得て,会社は順調に伸び,今日のバリアンの基礎が築かれた。 Varian Associates において最初のNMR装置が完成したのは1949年である。ついで,1950年に,高分解能NMR分光計が完成した。バリアンの装置には,サンプル・スピニングなど,Bloch による数々の新しいアイディアが盛り込まれていた。

冒険家の弟Sigurd は,1961年,自らの操縦する飛行機が,彼の愛したメキシコの海に墜落し,60年の生涯を閉じた。着陸側への連絡が届かず,このときに限って,自らも開発に関わった計器飛行でなく,悪天候の中の手動操縦であったという。

Russell 夫人 Dorothy

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による著書『Russell and Sigurd Varian. The Inventor and the Pilot 』 (Pacific Books, Publishers, 1983) には,NMRを世に出すための,バリアン兄弟と Bloch を中心とするスタンフォード大学グループの一体となった仕事ぶりが鮮やかに書かれている。それは,アメリカにおける研究開発のシステムと新しい境地を開拓しようとするバリアン兄弟の熱意に支えられたものであった。

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バリアンに続いて,スイスのTrüb, Täuber, and Co. (Zurich) が,1957年に永久磁石を使った分光計を発表した。これは,ETH で Hs. H. Gunthard と H. S. Primas が作製した装置のコ ピーであった。Primas は,高等学校卒業だけの学歴でETH の 教授に迎えられた鬼才である。Primas の指導により博士論文を完成させた Richard R. Ernst は,1963年,バリアンの Wes Anderson のグループに加わり,ノーベル賞の対象となった一連の研究を開始し,ETHにもどってそれを発展させた。当時のバリアンには,Wes Anderson ,Ray Freeman をはじめとする素晴らしい人材がそろっていた。

2) ブルカー

Trüb, Täuber, and Co. は財政事情の悪化により1964年に倒産し,NMR部門がスイスのスペクトロスピンに吸収合併された。一方,1960年に設立されたBruker Physik AG は,NMRのための磁石の製作に乗り出した。発足当時のボードの議長が Emil Bruker であった。Karlsruhe 工科大学物理学科教授の Günther R. Laukien は,ボードの有力メンバーであった。ブルカーはその後,スペクトロスピンと資本提携し,高分解能NMRの開発に着手し現在に至っている。Laukien は,ブルカー,スペクトロスピン両社の社長を務めた。

ETHでは,Kurt Wüthrich が ブルカーの装置を用い,生体系のNMRの分野で研究を大きく発展させ,20年の歳月を費やしてタンパク質の三次元構造解析法を確立した。

3) 日本電子,日立製作所

海軍士官であった風戸健二は,復員準備のための荷物の整理中に,一冊の本『電子顕微鏡』(黒岩大助,昭和17年)を偶然手にした。風戸がかって呉で購入していたこの本との再会が,後の日本電子株式会社会社につながることになる。1947年,千葉県長生郡茂原町に株式会社電子科学研究所が電子顕微鏡とともにスターとした。

電子科学研究所は,1949年,東京都三鷹市に移り,株式会社日本電子光学研究所(Japan Electron Optics Laboratory, JEOL)と社名を変更,1956年にNMR分光計第1号機(JNM-1,32MHz,電磁石)を完成させた。株式会社日本電子光学研究所は昭和36年,社名を日本電子株式会社(東京都昭島市)と変更し,現在に至っている。日本電子の市販の1号機JNM-3-60(60MHz)は,1961年に東京大学理学部化学科の藤原鎭男教授の研究室に搬入された。

日立製作所は1961年,那珂工場創立の年にイギリスのパーキンエルマー社の基本技術を導入してNMR分光計の開発に着手し,1964年,最初のモデル(H-60,60MHz,永久磁石)を世に送りだした。

4) 日本の将来

過去20年の間に,NMR分光計はコンピュータを中心とするディジタル技術,超伝導磁石を中心に置く分光計の 革新によって,恐ろしい勢いで進歩,変貌を遂げてきた。この変革の歴史を見るとき,そこには,大げさにいえば,日本のサイエンスの持つ宿命が浮き彫りにされる。

分光計の開発において,本質的なアイディアは伝統に裏付けられた西欧のものであることは否定できない。日本はディジタル技術で世界をリードするものを持っていると思う。しかし,現在までの所,それがNMRの本質的な進歩にはつながらなかった。少なくとも,日本のNMRは,「花も実もある」境地には達したとはいいがたい。 遠回りでも,原点に立ち戻って虚心に考える以外に道はない。原点といっても,戻らぬ時計を戻して,欧米の伝統に太刀打ちは出来ない。だとすれば,長い年月をかけて,地道に道を切り開いてきた西欧のグループの「求めたところ」を肝に銘じ,長期的な視野をもって粘り強く研究を発展させる以外に道はない。


つづく

by yojiarata | 2012-03-24 23:15 | Comments(0)

NMR余話 Ⅱ



【B】 フーリエ変換 NMR分光計

1960年代は,有機構造解析の手段に用いられたNMRの方法論が,タンパク質や核酸などの生体高分子の構造研究に用いられ始めた時代である。当時,人々はNMRの果たす役割を認めつつも,同時にNMRに特別な印象を持っていた。それは,NMRの測定感度があまりに悪いという点に尽きる。

1) フーリエ変換 NMRの最初の試み

1960年代,科学計測機器の世界は,”電子計算機”の時代から,”コンピュータ” の時代に移りつつあった。

1965年,NMR国際会議が,藤原鎭男先生を委員長として東京赤坂プリンスホテルで開かれた。この会議は,その後,国際NMR学会(ISNMR)を母体として,2年おきに世界各地で開催されている。

東京の会議では,その後のNMRの発展と深く関わることになる点について,二つの重要な講演があった。

まず第一に,Wes Anderson (バリアン)が,Richard R. Ernst がバリアンで開発したフーリエ変換NMR分光計に関する講演を挙げなければならない。

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なお,最前列に座っておられる御仁は Oleg Jardetzky である。彼はこの時 36歳。日本では見当たらない風格と迫力である。

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時間ドメインで情報を取り込み,フーリエ変換によってスペクトルを得るこの実験の成功の意味するところは重大であった。NMRの検出感度向上に革命をもたらすばかりでなく,緩和時間の測定など,Hahn にはじまる数々のアイディアが,応用研究の対象になることを意味したからである。

当然のことながら,フーリエ変換NMRの現実と将来に質問が集中した。事実,Anderson の説明によれば,FID をいったん紙テープに落とし,大型計算機(IBM 7090)に移したあと,1K のデータのフーリエ変換の計算に40分を要したという。

先に進む前に,フーリエ変換にその名を遺すフランス人のフーリエ男爵について簡単に述べておく。

2) Jean Baptiste Joseph Fourier

フランス革命と,それに続くナポレオン一世の栄光と失脚の時代を生き,政治の世界においてもナポレオンに見込まれたその才能を生かして活躍,晩年には粘液水腫による容貌の異変を珍奇なファッションで包み隠しつつ,62歳の生涯を閉じた。

フーリエの人と業績については,D. Shawの著書に興味深く語られている。フーリエは,洋服仕立て人の家に生まれた。下層階級の出身であったため,当初希望していた軍隊入りの希望が叶えられなかったが,フランス革命を機に,その政治的手腕を発揮してその後の道を切り開いたという。

D. Shaw: Fourier Transform N.M.R. Spectroscopy, Second Edition, Elsevier (1984) [→ Appendix 1. Jean Baptiste Joseph Fourier]

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3) NMR 専用 の小型コンピュータの導入

バリアンのグループの仕事とほぼ時を同じくして出現したフーリエ変換 NMR分光計は,ブルカーが最初に市販し,つづいてバリアンが XL-100 の完成を待って市販の分光計を完成した。Anderson の講演の6年後の1972年のことである。

従来のフーリエ変換の計算は,サイン,コサインの足し算,引き算が何回も重複するによって,N点のフーリエ変換には,N に比例する時間を要する。これに対して,FFTでは,計算時間は,N log2 N に短縮される。フーリエ変換の計算は,高速フーリエ変換(FFT)のアルゴリズムの登場によって画期的に高速化した。

しかし,FFTだけでは,NMRがあれほど急速に発展することはなかったであろう。時を同じくして,NMR分光計に専用のミニコンピュータが接続された。コンピュータは,メモリーが8K,16Kの時代からたちまちのうちに,大容量のディスクをもつことになる。

4) FFT アルゴリズムの確立

教科書には,FFT は J. W. Cooley と J. W. Tukey によって,1965年,突然この世に生まれたかのように記述してある。しかし,対称性と周期性を考慮してフーリエ変換の数値計算を効率よく行うというアイディアそのものは,古く1903年に Z. Math. Physik 発表された C. Runge の論文に遡る。

FFT は その後,紆余曲折を経て現在に至っている。その歴史自身も大変興味があるため,多くの人によって総説が書かれている。しかし,少なくとも海外では語られることのないことが一つだけある。それは,1960年代,東京大学理学物理学科(当時)の高橋秀俊先生(1915-1985) が,Cooley と Tukey とは全く独立にフーリエ変換を高速で行うためのアルゴリズムを考案されている事実である。

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高橋先生は知る人ぞ知る物理の鬼才であった。しかし,思いついたアイディア,あるいはそれをもとにした研究結果をたちまち論文に書く ”目から鼻にぬける” 現代の多くの研究者とは全くタイプの異なった静かな学者であった。日本人によって書かれたFFTの解説は山のようにあるが,その中にも高橋先生の業績の記載がない。

NMR誕生50周年を記念して出版された 『Encyclopedia of Nuclear Magnetic Resonance 』 Historical Chapter (John Wiley, 1995) の一部を執筆する機会を得たので,高橋先生について調べられるだけのことを調べて記載した。

筆者のこの記事に興味をもった Richard Ernst と筆者は,2011年10月のNMR討論会の折に再会し,その後,Takahasi の FFT について,メールで何度も情報をやり取りした。

現時点における Ernst と筆者の共通の理解は次の通りである。

1)Takahasi の FFT は,Cooley と Tukey の FFT とは独立に発案された。

2)Takahasi には,自身のアルゴリズムの発表が Cooley と Tukey よりも先であるとか,後であるのかを主張する気は全くない。

5) Takahasi Hidetosi の偉大な足跡

小澤宏君(東京大学大型計算機センター,当時)の協力を得て調査したところ,Takahasi のアルゴリズムは,東京大学大型計算機センターのプログラム・ライブラリーに公式文書として残っている。【東京大学大型計算機センターニュース,Vol. 2 Supplement 2 (1970)】 そこには,Takahasi のアルゴリズムは,1966年8月22日に作成,改定のうえ,正式に登録されたことが明記されている。 
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高橋秀俊 (Takahasi Hidetosi)  『FFT アルゴリズム について 』

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高橋 先生の FFT のアルゴリズムにかかわる業績については,高橋研出身の小澤宏君(故人)に全面的に協力をいただいた。高橋研の後,化学の大学院で博士号を取得した小澤君とは,その後,長年にわたって一緒に仕事をした。若くして他界した小澤君の冥福を心より祈りたい。

つづく

by yojiarata | 2012-03-24 23:10 | Comments(0)

NMR余話 Ⅲ



【C】 NMRの教え

1) 緩和時間と情報

共同研究者の小澤宏君(東京大学大型計算機センター)と高橋先生を訪ね,なんとかTを長くする方法はないものでしょうかと,恐る恐るお聞きしたことがある。100MHzの装置で,当時の超高磁場に何とか対抗したいと模索していた頃であった。高橋先生は,何かボソボソとおっしゃった。「情報がもともとないのだから,それはダメですよ」という意味のことであったと思う。

ETHをチューリッヒに訪ねたとき,”緩和時間をコントロールする方法はないものか” と深刻な顔で聞きに来た人物がいるが,君はそれがだれだかわかるか?と Ernst が私に問いかけたことがある。

2) 最も写実的な絵画が,最もシュールな絵画である

ひたすら各論に徹して,アリのように粘って仕事をしてきた。これまでに筆者が得た教訓は,各論の延長線上に将来を求めるアプローチは正しいということである。 NMRは,怒涛の如く進歩し続けている。分光計もコンピュータの化け物のようになった。黙って座っていれば,何らかのデータが出てくる。その気にならなければ,NMR現象の原点に戻って,深く考えることもない。進歩したNMRは,シュールな絵画といってもよい。多次元の画像も,限りなくシュールで美しい。装置が進歩したため,多重パルスも,位相を自由に変えて魔法のように操れる。

しかし,シュールな絵画の原点はあくまでも写実的な絵画である。この節の題は,サルバドール・ダリの言葉である。ダリが描き,ダリの妻ガラが愛したという小さな細密画「パンかご」を見ると,彼のいっていることが分かるような気がする。単純なパンの輪郭や模様が,異常ともいえる丹念さで描かれている。これが,あのダリの作品かと驚く。ダリは,本物の写実的な絵画の延長にだけ,本物のシュールな絵画があり,写実画の修行を積むことがなければ,また,シュールな世界だけが絵画だけだと考えている限りは,所詮本物の絵画は描けないと言いたかったのではないかと,私は勝手に解釈している。「パンかご」 は,スペインのフィゲラスにあるガラダリ劇場美術館にある。

ダリは,画家を志すもののための掟として,「完成を恐れるな。絵に完成はないのだから」,「眼も手も頭脳も放り出すな。画家になったときに必要だ」,「画家よ,絵を描け」などの言葉を遺した。ダリの言葉は,そのまま,NMRを志すわれわれにも通じると思う。



by yojiarata | 2012-03-24 23:05 | Comments(0)

春一番



筆者も人並みに孫がいる。全部で4人(女2,男2)

すぐ近くに住んでいる2人の孫はよくわが家を訪ねてくる。上が女(3歳),下が男(1歳)。

孫娘を観察していると,母から娘,娘から孫と血筋がつながっているのがよくわかって大変興味深い。

娘は母から,多くのことを学んでここまできた。節約第一,他人との接し方,礼儀。洗濯物の畳み方,分類して片付けるやり方。それが,3歳に孫にそっくりそのまま受け継がれているのが,おかしいようで,嬉しい。

三橋美智也の歌う『中国地方の子守唄』(山田耕筰・作曲)

・・・・・

ねんねこ しゃしゃりませ

きょうは二十五日さ

明日はこのこの ねんころろ

宮参り

ねんころろん ねんころろん



宮へ参ったとき

なんというて拝むさ

一生この子の ねんころろ

まめなように

ねんころろん ねんころろん



娘は,節約して貯めた貯金の中から,キャンディーズのテープ(当時はCD時代に入る前)『春一番』を買って,よく聴いていた。孫娘が,まめに育つことを願っている。



追記

関東地方では, ・・・・・ 12年ぶりに春一番は吹かずじまいとなった。東海,近畿地方でも,春一番がなかった。

(2012年3月21日 水曜日 朝日新聞朝刊 39ページ)
by yojiarata | 2012-03-20 16:45 | Comments(0)

加齢の周波数依存性



加齢と共にいろいろ不都合なことが起きる。

一つは難聴である。最近になって,気が付いたことであるが,難聴には,明らかに周波数依存性がある。筆者の場合,他人と話したり,ラジオを聴いたりすることには全く支障がない。

筆者の場合,全く問題がないかというとそうでもない。高い周波数の小さな音が全くといってよいほど聞き取れない。最初に気が付いたのは,体温計である。現在の体温計は,測定が終了すると,小さな音で知らせてくれる。筆者にはそれが全く聴こえないのである。近くに座っている連れ合いが,鳴っているではないかというので気が付く。その連れ合いは,最近,少々難聴気味であり,筆者の言葉を時々聴き間違える。体温計より,筆者の声の周波数は低いはずである。

次は嗅覚。筆者の嗅覚は現在,壊滅状態である。お茶の香りなどというゆかしさも,長い間楽しんでいない。お茶といわず,食事全般にわたって,匂いのない世界は味気ないものだ。

しかし,大好きなアンパン,大福などの甘味の世界は十二分に楽しんでいる。塩辛さなども何の問題もない。神様は公平である。我々から何でもかんでも楽しみを取り上げないのは嬉しい。
by yojiarata | 2012-03-20 16:06 | Comments(0)

ソースと宵待草



高校3年で生物を教わったのは,渾名でソースとよばれていた面白い先生だった。何故ソースかといえば,早口で喋りまくるため,「そうです」が,誰にも,どうしても「ソース」と聞こえてしまうからである。

当時の学校(少,中,高)では,先生が自信をもって,遠慮会釈なく生徒を罵倒するのが普通だった。しかし,おなかにウジウジしたものが溜まっているわけではないので,生徒の方もこれが普通だと,さして気にしていなかった。

ある時,花のことが話題になった。花の名前をソースに質問され,誰かが ” 宵待草 ” ですと答えた。ソースの顔色がたちまち変わった。

”馬鹿,間抜け!あれ(宵待草のこと)は 「パンパン」 じゃ!!わからんのか。馬鹿!!! うちに帰ってお父ちゃんかお母ちゃんに聞いてみろ!!!!”

答えた生徒も,ほかの生徒も,わけがわからず,ただ唖然とするのみ。

今にして思うと,ソースにしてみたら,あのナヨナヨした竹久夢二の絵や詩がどうにもがまんがならなかったのであろう。日頃の鬱憤が爆発したのだ。

それにしても,ソースは我らに絶大な人気のある先生だった。時間の合間に,さりげなく,当時の教科書の範囲外であった 「減数分裂」 について,実に簡潔に教えてくださった。

トコトコ,セカセカ 歩くソースの後姿は 何時までも我らの記憶に残っている。
by yojiarata | 2012-03-19 20:40 | Comments(0)

赤ちゃんのパワハラ



その方は,”赤ちゃん” とよばれていた。巨大な体型が醸しだす圧倒的な迫力,渾名からは想像できないボスだった。

すでに何度か書いたが,筆者は20年にわたって万年助教授を続けた。なかでも,理学部(化学教室)は最も長期間所属した。毎週水曜日の12時から1時まで,「昼食会」なるものが開かれていた。大事なことは,教授だけので決めるのだが,そこで決まったことを,助教授にも伝える,いわば,”上意下達” のセレモニーだった。これによって,助教授にさまざまな雑事を行わしめるためである。

ある昼食会の折,赤ちゃんが威厳とともにこんなことをおっしゃった。

”この場には,我が化学教室以外の出身者が一名おられる。”

どのような状況でそのようにおっしゃったかは全く記憶にない。

一名といえば,薬学出身の筆者以外にはいない。その場が妙な雰囲気になったことを,60年近く経った今もはっきり記憶している。そんなことをわざわざ言わなくでも,その一名を選んだのは,教授連中の集まりではないか。筆者は,あの時ほど,気を悪くしたことは滅多にない。第一,こちらが何も言い返せないことを知った上での発言だから卑怯千万である。

当世風に言えば,赤ちゃんの行為は「パワハラ」ではなかろうか。
by yojiarata | 2012-03-19 19:55 | Comments(0)

おじさん達のカラオケ



何年か前までは,学会の懇親会のあと,カラオケというのがお決まりのコースだった。

そうしているうちに,選曲で解離が起こった。我々おじさんが離れるというか,我々おじさんがついていけないというか,カラオケがこの何年かの間に,懇親会後の楽しみから消えてしまった。無理に参加してみても,全く理解できない新曲に圧倒されるばかりであった。

京都の先生も,名古屋の先生も,北海道の先生も,そして筆者も,常連のおじさん達にとってカラオケが無縁の存在になってしまった。寂しい限りである。

そういえば,群馬の S先生の 『白い花の咲く頃』 を何年も聴いていない。昔を思い出しながら歌っておられたのではないだろうか。いつも聴くのを楽しみにしていた。今どうしておられるのだろうか。懐かしい先生である。
by yojiarata | 2012-03-19 11:56 | Comments(0)

バロックと日本の詩情



「新老人の会」を発足され,ニューヨークまで出かけていって飛んだり跳ねたりされている日野原重明先生のようにはいかないが,後期高齢者なりに,元気にお医者さんに通ったり,音楽を聴いたり,ブログを書いたりしながら日々を送って楽しんでいる。

お医者さんといえば,過去数年の間に受診しなかったのは,小児科と産婦人科だけである。

現在の筆者にとっての音楽は,バッハを中心とするバロック,それに加えて妙な取り合わせと思われるかもしれないが,日本の郷愁を歌うものである。

古くは伊藤京子,最近では鮫島有美子などクラシック畑の歌手たちも録音しているが,これはいけない。楽譜は完璧に再現されているかもしれないが,キャーという高音に卒倒しそうになる。歌謡曲の分野からも,多くの歌手が録音しているが,ピッタリ来るものは多くない。ピッタリ来るとは,後期高齢者の体内にスーと抵抗なく入ってくる曲である。

現在のところ筆者がよく聴くのは,三橋美智也(日本の郷愁を歌う),日吉ミミ (北帰行-日本の詩情),岩城宏之(日本の郷愁)である。
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三橋美智也が歌う日本の歌謡史に残る古歌は素晴らしい。「城ヶ島の雨」,「海」,「旅愁」,「白い花の咲く頃」,「荒城の月」などに加えて,「五木の子守唄」など4曲の子守唄が並ぶ。何時の録音か記載がないが,普通に我々が聴いてきた三橋美智也とは全く異なり,力を充分に抑えて,全ての曲を同じトーンで淡々と歌っているのがよい。

日吉ミミの「北帰行-日本の詩情」。素晴らしい歌唱力,「北帰行」に始まり,「惜別の唄」(島崎藤村)で終わる選曲も見事である。

膨大な録音を残した三橋美智也のCDのリスト(現在入手可能)に,なぜか「日本の郷愁を歌う」だけは見付からない。日吉ミミの場合も同様である。その意味では,筆者の手元にあるのは,この世に二つという珍品 ということになる。

若き日の岩城宏之(1932-2006,日野原先生の病院で他界)が録音した「日本の詩情」は,N響の団員90名を動員したコロンビア・ポップス・オーケストラの演奏をバックに,さまざまな楽器の演奏が幽玄の世界を創り出す。今から40年前,岩城宏之33-34歳の録音である。

その時の気分によって,バロックを聴き,また,日本の詩情をゆっくりと楽しむ。後期高齢者の至福の時である。
by yojiarata | 2012-03-12 22:18 | Comments(0)

シャコンヌ



大学院の学生の頃,SPレコードからLPレコードへの変り目で,テープも CD もなく,音楽を聴くのは,ラジオか音楽喫茶であった。

ラジオでは,日曜の朝8時からの『音楽の泉』,シューベルトの「楽興の時」とともに,堀内敬三さんの柔らかな語りで始まる。たしか土曜日の夕方だったと記憶しているが,ショパンのバラード1番で始まる,野村光一さんの番組『音楽の窓』も欠かさず聴いた。また,日曜日の午後2時からは,FENで NBC 交響楽団の演奏を聴いた。トスカニーニ指揮のものが多かったと記憶している。音楽では,どんな英語が使われるかも,知らず知らずの内に学んだ。NBC交響楽団はそのうち解散し,Symphony of the Air と名前が変わり,日本でも演奏会があった。トスカニーニは来なかったと記憶している。

こうして,3,4年の間に,ありとあらゆるジャンルのクラシック音楽が身体に沁みこんでいった。しかし,どうしても沁みこまないものも少なからず あった。例えば,バルトーク,シェーンベルク , ・・・・ 。

現在では,海外から数知れない ”巨匠たち” が来日し,新聞は広告だらけである。ただ,どの方が本当に”巨匠” なのかわからない。現在演奏会に足を運ぶ人たちは,どのような基準で選んでいるのだろうか。一方では,当然,衣服や動きの面で派手になり,タレントの会の様になって来たのも事実である。言いたくはないが,カラヤンがその端緒となった一人のような気がする。

筆者が学生の頃聴いた演奏で鮮明に記憶しているのは,Jascha Heifetz (1900-1987) と Wilhelm Kempff (1895-1991)である。いずれも学生料金があり,大きな負担なく,遠くの席からではあるが,巨匠の演奏に接することが出来たのは幸いであった。

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ハイフェッツの無伴奏パルティータからの 「シャコンヌ」 は印象的であった。ちょうどその頃(1952年) ハイフェッツが録音した演奏が CD になり,筆者の手元にあるのは嬉しい。ケンプは,バッハの幾つかの曲のほか,ベートーベンの最晩年の作品「6つのバガテル,op. 126」 を演奏したと記憶している。

ピアノによるバッハの演奏に関しては,スイス人のピアニスト Edwin Fischer (1886-1969) の名前をまず挙げなくてはならない。

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フィッシャーは,それまでチェンバロで演奏されていたバッハの曲をピアノで演奏した世界最初の人である。数あるCDのなかでも, 『平均律クラビア曲集』, 『平均律クラビア曲集 Book 2』は,とりわけ素晴らしい。
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ピアノ・バージョンになったバッハは,多くのピアニストによって録音されることになる。なかでも Glenn H. Gould (1932-1982) の貢献は著しい。筆者のコレクションにも,ゴールドベルグ変奏曲(1956,1981),平均律クラビア曲集,イギリス組曲,フランス組曲,パルティータ,トッカータなどがある。フィッシャーと,フィッシャーの後を追いかけたグールドのバッハの世界には質的な差がある。もっと語りたいが,今回は,ここで話を止めておく。

バッハはその後,ジャズの世界にまで取り入れられるようになった。これがまた,実によく馴染むのである。とくに,ジョン・ルイスをリーダーとする MJQ が遺した多くの演奏は素晴らしい。

筆者が現在好んで聴いているのは,J. S. Bach (1685-1750) のほか,

François Couperin (1668-1733)

J.-P. Rameau (1683-1764)

D. Scarlatti (1685-1757)

などの作品である。例えば,

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である。

時代が進み,その後は,

M. Clementi 1752-1832)

W. A. Mozart (1756-1791)

L. van Beethoven (1770-1827)

F. Schubert (1797-1828)

と続くが,クレメンティー,シューベルトのほかはほとんど聴かない。聴いていると何故か疲れてしまうのである。やはり,バロックは心が静かになる。
by yojiarata | 2012-03-11 20:57 | Comments(0)