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T細胞からiPS細胞へ 第1話



今回の『専門家に聞く』は,佐藤健人博士にお願いしました。佐藤健人博士は1986年 東京大学理学部生物化学科卒業,1991年 同大学院博士課程,1991年 東海大学医学部免疫学教室助手,講師,助教授を経て,現在准教授(基礎医学系生体防御学)


免疫学との出会い・希少難病研究への思い


荒田

佐藤さんは,20年以上にわたって,免疫学をテーマに研究を続けておられると理解しています。これまで,佐藤さんの研究分野はどのように拡大,発展しておられるのでしょうか。

佐藤

私の場合,一番はじめの興味の対象は「がん」だったのです。理学部の学生だった頃でしたが,当時はオンコジーン(発がん遺伝子)の研究が大きく発展を始めていた頃でした。オンコジーンと言っても,その機能はよくわからない。ただ,培養している繊維芽細胞に,ある配列のDNAを入れてやると細胞は増殖を止めなくなるというシンプルな話でした。ところが私はどうしてもこれが,がんの本質に迫るとは思えなかったのです。

なぜならば,ここには「分化」という視点が完全に欠落しているからです。おおざっぱに言って,がんとは,未分化で活発に増殖する細胞が,分化し増殖を停止するのを止めてしまった存在だと私は捉えていました。がん細胞は,どうして分化プログラムから逸れてしまったのか,どうして未分化な段階にとどまって増殖を止めないのか ― こういう,分化というものを基盤に置いた考え方の方が本当のがんにより近い,と考えたのです。・・・その後のオンコジーンの研究領域の大きな発展を考えると,若気の至りだったと言われるかもしれませんが,今でも自分らしい判断だったと思っています。

そんな学部学生だった頃,免疫学の領域から以上のような問題意識にチャレンジするようになったわけです。

荒田

はじめは順天堂大学の免疫学・奥村康教授のところでしたね。

佐藤

はい。荒田先生の教室に籍を置かせて頂きながら,奥村先生のところで免疫学のイロハを教わりました。それから東海大学・医学部・免疫学の垣生園子教授のところに出入りするようになりました。当時奥村先生と垣生先生は,リンパ球の一群であるT細胞とNK細胞の分化について共同研究をされていたのです。

ご存じのように,T細胞は胸腺で分化します。この,胸腺でのT細胞の分化は実に面白いのです。

免疫系は「自己」と「非自己」を識別しますが,その基盤の一つは胸腺にあります。T細胞は様々な抗原に反応できるように,ランダムな遺伝子組み換えを積極的に行って,多様性に富む抗原レセプターを作るようになります。一つ一つのT細胞が未だ出会ったことのない未知の抗原に結合すべく準備をしているわけです。当然,中には自己成分に結合してしまうものも生じますから,「自己免疫」を防ぐために,このような細胞を分化の途中段階で選択的に除くわけです。これを「負の選択」と言います。「負の選択」を免れたT細胞だけが分化を進行させることになります。逆に,いくら未知抗原と言っても,あまりにも的外れな反応特異性をもったT細胞も無意味です。というのは,T細胞はB細胞と異なり,抗原の認識を細胞を介して行います。すなわち,T細胞の抗原レセプターは,樹状細胞等の表面に発現している” MHC ”という分子に挟み込まれた抗原と結合するのです。ですから,このMHC分子と全く親和性がないような抗原レセプターは基本的に使い物になりません。というわけで,MHC分子と一定の親和性を持った細胞が選択的に生かされて,次の分化段階に進みます。これを「正の選択」と呼んでいます。

このように,T細胞の運命,あるいは分化の進み方は,発現する抗原レセプターの反応特異性によって決められるわけです。「選択的分化」ですね。免疫システムが自己・非自己の識別を行うことを可能にする,じつに合目的的でエレガントな機構なんです。そして実験科学者として大事な点ですが,こうした特徴は,抗原レセプターや抗原の有無を操作することによって,細胞の運命や分化を人為的にコントロールするシステムを可能にします。分化の研究材料として,T細胞,あるいは胸腺というのは大変有用なものなのです。

私が胸腺にこだわってきた理由はもう一つあります。それは細胞増殖の問題です。P53というがん抑制遺伝子がありますが,この遺伝子を破壊したマウスは様々な臓器にがんが出来やすいとされ,実際に短命です。だいぶ以前ですが,このマウスを調べていて気づいたことは,他の臓器には明らかな腫瘍を見つけない段階でも,胸腺には全てのマウスで腫瘍が生じるのです。胸腺が胸腔の中であまりに大きくなって,肺がつぶされ,呼吸が困難になって死んでいきます。一方,このp53欠損マウスを,T細胞分化に必須な遺伝子を破壊したマウスと交配してやると,胸腺の腫瘍は生じなくなり,寿命が顕著に伸びるのです。このことは,発がんのリスクは,T細胞の特定の分化段階できわだって高いことを示します。この事実を見て,私は,マウスの胸腺こそ増殖制御と分化の関連を研究するのにとても適した材料だと思ったのです。

荒田 

なるほど,そういうわけでしたか。学部学生の頃の問題意識から一貫しているのですね。

その佐藤さんが,最近はiPS細胞の研究も始められたということですが。

佐藤

そうなんです。これには経緯がありまして,希少難病患者支援事務局(SORD)というNPO法人があります。この発足に私の古くからの友人が関わっており,彼の紹介で2009年の春,代表の小泉二郎氏,副代表の中岡亜希氏のお二人にお会いする機会がありました。

厚労省は現在,130の疾患をいわゆる「難病」に指定し,このうち56の疾患は治療研究事業として,患者に対し公的援助があります。この他に最近になって214の疾患が指定され,研究の奨励が行われています。しかしなお,指定から漏れた「希少難病」が7000ほどあるといわれています。と,いうよりも,全国的な実態は厚労省としても掴み切れていないのが現状です。難病指定から外れた希少難病患者や,そのご家族は,自分がどのような病気なのか,これからどう病状が進んでいくのかよくわからない,苦労を分かち合う同病者も見あたらない,自分の病気は世間から無いものとされ,治療法が無いばかりか,これを研究しようという動きもない — 病気そのものの苦しみ に加えて,社会からの疎外感にさいなまれているという,厳しい状況におかれています。SORD副代表の中岡氏は,ご自身が遠位型ミオパチーという希少難病の患者さんです。国際線の客室添乗員として活躍していたときに発病しました。進行性の筋疾患で,現在は肩,腕,首などを少し動かすことが出来るだけで,ベッドと車いすから離れられない,大変不自由な生活を余儀なくされています。

ご本人も様々な絶望や悲嘆にさいなまれてきたと思うのですが,大変に前向きで明るい女性なのです。病気だからといって,人生を楽しく生きることをあきらめることはない。「死なないでいる」ことと「生きる」ことは違うと思う,などとさらりと仰るのです。ヨーロッパで開催された福祉機器展に自ら出かけ,砂浜やちょっとした山道でも進むことの出来る車いすを日本に導入する事業を興されました。ちょっと,こういう発想の製品は日本では見あたりません。プロスキーヤーの三浦雄一郎さん等の協力を得て,その車いすで富士山に登頂するプロジェクトを実現したこともあります。そんな明るいバイタリティの持ち主である彼女は,珍しい病気にかかってしまったばかりに,社会から孤立し,不安と絶望の中を「死なないでいる」人々と,ネットなどを通じてつながろう,共に「生きよう」としました。この活動は,関西圏を中心に何度もメディアに取り上げられたこともあって,少しずつ全国からアクセス・登録があり,時にはイベントを催したりして励まし合っています。驚いたことに,最近では彼らだけで独自にSNS(ソーシャル ネットワーキング システム)を立ち上げ,患者間でリアルタイムにおしゃべりや情報交換を行うまでになりました。

結果として,全国の希少難病患者の情報を厚労省よりも詳しく知っているという,すごい民間団体に育ったわけです。この間,たった3年ほどというのは,驚異的ではないかと思います。

ここで過去になされた幾つかの報道をご紹介しておきます。


(1)(朝日新聞2009年8月24日)
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(2)(読売新聞2011年7月1日)
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(3)(京都新聞2011年7月4日)
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私は話を伺い,希少難病患者やご家族のご苦衷と,これを乗り越えようと立ち上がった中岡さん,小泉さんお二人の誠実と勇気に大変打たれるところがありました。

こうした患者さんたちの現状に,私達の社会はどう向き合うべきなのか,と考えずにはいられませんでした。

小泉,中岡氏は医学や研究の世界には全くの素人でしたが,両氏なりに患者のゲノム検査が突破口になるのではないかと考えたようです。たまたまSORD設立に私の友人が関わっていたことから,医学の世界に関わりがある人脈として私が紹介されたというわけです。

もとより私はゲノムの専門家ではありませんが,東海大にはゲノムの大家が何人かおられました。そのうちのお一人は当時の医学部長でしたが,「こういう問題に取り組むことこそ,大学,なかんずく私学の社会的使命ではないか」とおっしゃり,まずは希少疾患患者のパーソナルゲノム解析を行う方針でプロジェクトが始まりました。

ご存じのように,今やゲノムの世界の技術革新は驚異的で,個人のゲノム全塩基配列が短時間で解読できるようになってきています。いわゆる「次世代シークエンサー」とよばれるものですが,第3世代の登場も遠くないということで,これから一層安価,簡便にパーソナルゲノムの解読が行われるようになる見通しです。

そうした流れの一方で,私も自身の専門性を生かしてプロジェクトに貢献したいと考えました。

私の専門は免疫学であるとともに,細胞の分化であります。私なりの観点からES細胞やiPS細胞についてはかねてから興味を持っていました。そこで,患者由来のiPS細胞を樹立することで,希少難病研究 の基盤整備をおこなうというプロジェクトを考えた次第です。

今年の1月29日付けの毎日新聞(関西版)に,東海大学医学部を含めた全国的なプロジェクトについて,その概略が掲載されています。



(4)(毎日新聞2011年1月29日)
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つづく

by yojiarata | 2011-12-26 16:16 | Comments(0)

T細胞からiPS細胞へ 第2話



iPS細胞の基礎知識

荒田

先に進む前に,ES細胞やiPS細胞について,何が問題で,どこが重要なのか,何故これほどまでに注目されているかについて,専門家でない人にも理解できるように,易しく解説していただけないでしょうか。

佐藤

私たちの身体は60兆個の細胞から成っていると言われていますが,例外なく,受精卵という一つの細胞から始まっています。これが分裂して2つとなり,4つとなり,と次第に数を増やしていき,細胞の塊は次第に複雑な形態を示すようになります。そして,細胞は自身が存在する位置に従って次第に個性を示すようになるわけです。細胞の存在する位置は受動的に決まるだけではなく,自ら移動を行って新しい個性を獲得するようなことも起こります。こうして次第に様々な組織や器官が形成されるわけですが,これをマクロで見た場合に発生と呼び,細胞レベルで見た場合に分化と呼んでいます。

重要なことは,この間,細胞の核内に収容されている遺伝情報は,― 少なくとも塩基配列で定義できる情報については ― 変化がないと言うことです。喩えば筋肉や神経,皮膚や白血球など,見た目は受精卵とは全く違うものですが,核内にあるDNAの塩基配列には変化がありません。これの唯一にして重大な例外が,B細胞やT細胞といった,獲得免疫を担う細胞群ですが,このことは差し置くことにしましょう。このように,1個の細胞が遺伝情報を変えることなく様々な細胞に「分化」する様子を,Conrad Waddingtonは図1のような峡谷を転がるボールに見立てて喩えました。

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図1 C.Waddington (1953)

細胞は重力に従っていずれかの峡谷 ― いずれかの細胞運命 ― に転がっていき,様々な細胞に分化する。彼はこの峡谷の風景を “epigenetic landscape”と呼んでいます。それぞれの細胞が何に分化するかを遺伝子は規定しない,遺伝子は分化するための道具として利用される,という生命観を読み取ることも出来るように思われます。

彼の著書は1950年代という,DNAの塩基配列やこれに規定される種々のタンパク質に関して情報がなかった時代の産物ではあります。しかしながら,現代の科学者に於いても,分化というものを考える際のひな形として少なくない影響を残しているようです。京都大学の山中博士はNature 誌上において,自身が樹立したiPS細胞についてWaddingtonの喩えを利用して解説を試みています(図2)。

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図2 S. Yamanaka Nature 460, 49-52 (2009)

Waddingtonのメタファーが示すことの一つは,重力が常に下に向かうように,分化とは一方向性のものであるということです。ひとたび筋肉や血液に分化した細胞が,受精卵のような様々な細胞を生み出す分化の「全能性」あるいは「多能性」を再び獲得するようなことは自然界では起こりません。分化全能性を持つ細胞はこれを持つ細胞によってしか産み出されない。このような細胞の系譜を「生殖細胞系列」と呼び,分化能の限定された細胞系譜である「体細胞系列」と厳格に立てわけて捉えてきたのが,古典的な生物学の常識であったと言えます。この常識を覆す研究として一躍世に出たのがクローン動物「ドリー」の誕生であり,これを前座に「真打ち」として登場したのが,iPS細胞でした。

山中博士が示すように,iPS細胞は,峡谷の底にたどり着いた細胞にある種の細工を施し,重力に逆らって分化全能性,あるいはこれに近い能力を再獲得せしめた細胞であるということができます。この「細工」は「重力」に逆らって行われるため,全ての細胞でうまくいくわけではありません。あるものは別の峡谷へ落ちていき(図の中では3で示されている),あるものは坂を登ることなく死んでいきます(4で示される)。ある確率で峡谷の上流にたどり着いたとしても,再び坂を下ってしまう場合もあります(2で示される)。坂を落ちずに多能性を維持するためには,落ちないための突起や障害物が必要となります(1で示される)。その分子的実体は明らかとは言えませんが,生殖細胞系列など全能性・多能性を持つ細胞には備わっている性質です。このようにiPS細胞が樹立されるには幾つもの条件をクリアする必要があり,きわめて低頻度でしか起こらないのが現状です。iPS細胞は良く増殖し,それ以外の細胞はほとんどの場合死滅するように培養を行うので,結果としてこれを選択的に得ることが出来ているのにすぎません。しかしながら,これは技術的な問題に属するので,今後もっと高い効率で分化の多能性を持った細胞を作ることが出来るようになるかもしれません。


つづく

by yojiarata | 2011-12-26 16:10 | Comments(0)

T細胞からiPS細胞へ 第3話



iPS細胞・分化研究の背景


荒田

「分化」そして「多能性」がキーワードであることがよくわかりました。

さきほど,「遺伝子は分化するための道具として利用される」と仰いました。とはいえ,分化をするのに必要な情報は全て遺伝子に書かれているわけですね。このあたりの関連については,どのようにお考えでしょうか?

佐藤

「—我々の仮定した特定の塩基対が,そのまま遺伝情報の複製を示唆することに,我々は気づいていないわけではない」,とは,1953年Nature誌上に発表された,ワトソン,クリックによるDNA二重らせん構造に関する論文,その末尾の有名な一文です。「示唆する」とだけ書いて,その中身を説明しない,科学論文としては異例の結語ですが,この一文が「示唆」した内容こそ,その後の世界を大きく変えてしまったことはご存じの通りです。しかし,そのインパクトがあまりに大きかったので,かえって見えにくくなってしまったことがたくさんあるような気もします。

写真は,3D-FISHと呼ばれる手法で,核内の特定の遺伝子領域を可視化したものです。ここではマウスの胸腺内T細胞において,CD4, CD8遺伝子領域がそれぞれ赤,青で示されています。マウスではCD4, CD8遺伝子はいずれも第6染色体にのっていまして,第6染色体の占める領域全体は緑色で見ることが出来ます。共焦点顕微鏡を用いますと,Z軸に沿った各平面ごとにシグナルをスキャンすることが出来まして,お示ししているのはある一断面の画像になります。ご覧の通り,CD4を示すシグナルが1点から成るのに対し,CD8を示す青いシグナルは重複した2点になっています。これは,CD8領域が複製によって倍化していることを示します。つまり,この細胞では,ゲノムの一部で複製が進行中であることが見て取れるわけです。まさしく,ワトソンたちの示唆した「特異的塩基対」による複製が起こっているわけですが,おそらくここでは、鋳型鎖のA に対して T が、G に対して C があい対して水素結合し、新たなDNA鎖が合成される以上の何かが起こっています。それは後生的な遺伝子の修飾(エピジェネシス)であります。塩基配列によらない情報が、複製の前後で保存されることもあれば、複製を機に変化する場合もあるでしょう。具体例として、まさに複製反応そのものを例に説明を試みてみましょう。
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図3 3D-FISHによる胸腺細胞の第6染色体(緑)CD4(赤), CD8(緑)遺伝子領域の可視化

DNA複製と言うと,複製開始点の特異配列を認識したタンパク質群によって開始されるというイメージを持つ方がまだ多いと思います。実際,遺伝子組み換えに使われるプラスミドベクターのマップなどを見ますと,Oriと示されている部位があって,これは一定の塩基配列を有する複製開始点であります。ところが,このような配列特異的な複製開始点というのは,原核細胞と出芽酵母などにのみ見つかるものでありまして,酵母の中でも分裂酵母や,我々ほ乳類の細胞では,複製開始は塩基配列特異的に起こる現象ではありません。分裂酵母では,ゲノムワイドな複製開始点の探索が行われていますが,同定された300-400の複製開始点には,ATリッチであるという以外に配列の特徴が無いといわれています。ちなみに,分裂酵母での複製開始点間の平均距離は30 - 40kbとのことです。

では,出芽酵母を除くほとんどの真核細胞で,複製開始はやみくもに起こるということでしょうか? ヒトなどでは複製開始点は数千カ所あると見積もられます。重要なことですが,複製開始は分化の進行と密接な関連があります。たとえば,アフリカツメガエル赤血球のゲノムDNAは30から230kb間隔で複製開始が起こりますが,初期胚の細胞ではほぼ30kb間隔で複製開始が起こり,複製に要する時間もより短くなります。しかも,これらの複製開始点は細胞周期の進行と共に,一斉に複製を開始するわけではありません。一般に,使われている遺伝子の近傍では早い時期に複製が開始され,使われていない遺伝子の近傍では複製開始が遅くなる傾向があります。従って,複製開始の位置や時期は分化段階に応じて変化するということです。この変化は分化のもたらした結果なのか,あるいは分化を行う要因たりうるのか,というのは大変興味深い視点です。いずれにせよ,これらの制御は塩基配列によって単純に規定されるものでないことだけは確実です。DNA自身の領域特異的なメチル化修飾,ヒストンタンパクを含む,各種のDNA結合タンパク,それらの化学修飾,その結果もたらされるクロマチンの立体構造や核内配置など,様々な要素が関連しています。こういった観点から生命現象を捉える学問領域をエピジェネティクスと呼んでいます。

数年前の高校生物の教科書を見ますと,Gurdon (1962) による両生類の核移植実験が紹介されています。オタマジャクシの腸管上皮細胞から核を抜き出し,除核した卵に移植してやると,正常なカエルにまで発生した。従って,発生・分化というものは,遺伝情報の変化を伴わずに行われるものである,と解説が続きます。しかし,ほ乳類の分化した細胞の核をもちいて正常な発生・分化を行わせるのは,両生類の場合よりもはるかに困難でした。受精卵の核を除き,ここに体細胞の核を移植しても4細胞期以降に進むことはありません。試行錯誤が繰り返され,前処置をした羊の乳腺細胞の細胞核と未受精卵を用いて初めて成体にまで発生を進めることに成功しました。これが,1997年,Nature 誌上に報告されて有名になったドリーです。

Nature 誌は2000年に,20世紀の10大科学ニュースを選びましたが,ドリーの誕生はその最新,10番目に滑り込みました。すわ,ヒトクローンも可能に? それは科学の勝利? 神への冒涜? 等といった扇情的な文句が各種メディアに氾濫したのを覚えておいでの方も多いのではないでしょうか? 一方,生物学でGurdonの実験を学んだ人は,“分化した細胞にも遺伝情報は保持されると言うことでしょ? 両生類で起こったことがほ乳類でも起こった,それ以上の何があるの?”,と思ったかもしれません。

ところが,2003年にGurdon自身がPNAS 誌に寄せた,自身の研究を振り返る短文によると,移植したカエルの卵が正常に発生する率はきわめて低く,移植核のソースである細胞の分化段階が進めば進むほどその確率が低くなることを,彼らは発表の当時からはっきりと指摘していました。全ての教科書を確認したわけではありませんが,今私の手元にある数冊の高校生物の教科書(2011年度使用)には,Gurdonの実験の記載がありません。塩基配列だけで発生や分化が説明できないこと,いわゆるエピジェネティクスの観点が,この数年間で急速に重要視されるようになった事を反映しているのではないかと思います。これはもう,パラダイムシフトと言ってよいと思いますが,まだ,シフトの行き先がはっきりとしたイメージをともなっているとは言えません。

荒田

なるほど。大腸菌のように,分化しない細胞で分子生物学の研究が進められた時代と,分化や発生を大きな研究課題としている現代では,おのずから「遺伝子」や「生命」の見方が変わってきていると言うことですね。

佐藤

そうですね。最先端の研究を行っておられる方にもいろいろな考え方の方がいらっしゃいますが,私自身は,「生命」は塩基配列や遺伝子だけでは捉えきれない,もっとフレキシブルで,—科学者が言うと語弊があるかもしれませんが,もっと神秘的なものだと考えます。だからこそ,生命の研究をすることにやりがいがあります。科学が進めば進むほど,また,生命現象について理解が進めば進むほど,生命が尊いということが世の中のコモンセンスになっていくのが理想ではないでしょうか。ドーキンスのような,「生命は遺伝子の乗り物にすぎない」,あるいは,そもそも「生命は○○ にすぎない」と言う言い回しは面白いとは思いますが,生命への畏敬の念が感じられず,好きではありませんね。

iPS細胞について,続けます。

21世紀に入り,2002年頃からマウスのクローンの報告が相次ぐようになりました。ドリーの場合を含め,重要なポイントのひとつは,核移植を受けるレシピエント細胞を未受精卵としたことです。当初用いられた受精卵が細胞周期で言うところの間期にあり,これに対して未受精卵は第二減数分裂の途上で留まっている,と言うところに大きな違いがあります。この時期の細胞質は,分化した細胞の核を“初期化”する能力が高いのです。

その“能力”の分子的実体を明らかにしようと試み,成功したのが山中博士です。初期化という現象が起こる以上,これを可能にしている遺伝子産物が存在するはずである。そう考えて,山中博士は最終分化した繊維芽細胞に,初期胚で発現している様々な遺伝子の導入実験を行い,「多能性」を与える遺伝子を探したのです。わずか四つ(ないし三つ)の遺伝子を導入するだけで多能性が誘導され,核の初期化を行えるらしいという結果に,世界中が驚愕しました。この画期的成果が人類にもたらした恩恵ははかりしれません。しかし,今なお,核の初期化がどのように行われるか,「山中四因子」は如何にこれを行うか,についてはよくわかっていません。

こうした経緯は私に,C.Milsteinを連想させます。C.Milsteinはご存じの通り,モノクローナル抗体の作製によってノーベル賞を受賞した人物です。最近の抗体医薬の成功は目を見張るものがありますが,実はC.Milsteinは,このような応用を目指してモノクローナル抗体の開発に取り組んだわけではありません。彼の当初の興味は,抗体分子はなぜあれほどの多様性を持っているのか,と言う問題,そして,それは遺伝子の変異がもたらしたものであろう,という,いわゆる「体細胞変異説」を証明することでした。そこで彼は,培養可能な抗体産生細胞,すなわちミエローマ細胞を培養して,抗体遺伝子の変異が起こっていることを見出そうとしたのでした。まずミエローマ細胞をしばらく培養します。仮説が正しければ,この間に抗体をコードする遺伝子にある頻度で変異が起こるはずです。そしてその後,ミエローマ細胞を一つ一つ単離して,再び培養し,分泌する抗体が培養液に蓄積するのを待ちます。こうして得られた単一細胞由来の抗体分子をタンパク化学的に解析して,異なる抗原に反応するようになったクローンを見出そうとしたのです。

7000ものクローンについて検討したとのことですが,これは大変な力作業だったろうと思われます。この企ては見事に失敗しますが,Milsteinによる歴史的といって良い跳躍がここから起こります。彼は実験系を再検討します。そして,オリジナルであるミエローマ細胞が,何に結合する抗体を産生しているかがわからないからうまくいかなかったのだ,結合する相手のわかっているミエローマを入手できれば,当初の抗原と結合しなくなったクローンを探せばよい,アッセイ系ははるかに効率化され,鋭敏となるだろうと考えたのです。こうして既知抗原で免役した動物のB細胞をミエローマ細胞と融合し不死化する,これをクローン化する,というアイディアが生まれたのでした。ハイブリドーマによるモノクローナル抗体の作製です。周知の通り,抗体多様性創出のメカニズムは,分子生物学の手法を用いた利根川博士らにより明らかとされました。しかし,人類がモノクローナル抗体を手にしていなければ,現在の医療や科学一般はずいぶん異なったものになっていたに違いありません。

核移植によって細胞核の初期化を行うことが出来るようになるまで,たくさんの試行錯誤が行われました。ここで起こるイベントがきわめて複雑,精妙であると考えられたにもかかわらず,核移植によらず,遺伝子導入だけでこれを再現しようとした山中博士の挑戦は大変に勇気のあるものであったろうと考えます。これは少なくともモノクローナル抗体の作製に匹敵,あるいは凌駕すると思いますし,初期化や分化のメカニズム解明の観点から言っても重大なマイルストーンとなったと思います。


つづく

by yojiarata | 2011-12-26 16:00 | Comments(0)

T細胞からiPS細胞へ 第4話



iPS細胞と再生医療


荒田

iPS細胞は科学的真理を探究するという観点に加えて,人類の福祉向上にとっても重大な貢献になるであろう,ということですね。この点について,具体的に説明してください。

佐藤

端的な例として,2010年に東大医科学研究所の中内研究室からCell 誌に報告された論文をご紹介しましょう。

Pdx1と呼ばれる転写因子は膵臓の発生・分化に必須とされています。この遺伝子を破壊したマウスでは,膵臓を作ることが出来ないので生後すぐに死んでしまいます。このマウスを受精させ,胚盤胞と呼ばれる時期まで発生を進めます。ここに正常なラットの繊維芽細胞から樹立したiPS細胞を注入すると,iPS細胞はマウスの初期胚と混じり合って様々な細胞となり,この胚を偽妊娠させたマウスの子宮に戻してやると,やがて正常な個体として生まれてくることが出来ます。生まれた個体は,マウスとラットの細胞からできる,モザイク状の,いわゆる“キメラ”個体になります。しかし,マウスの細胞には膵臓になるための遺伝子がありませんから,このキメラ個体で出来上がる膵臓は,すべてラットのiPS細胞に由来したものとなります。通常,異種や,異個体の細胞は免疫系によって攻撃 — いわゆる拒絶反応を受けますが,このキメラでは,免疫系が成立するよりもはるかに早い段階から異種細胞が混在していますから,拒絶反応は起こらないのです。かくして,マウスの体内でラットの臓器が出来上がります。

直ちに気づかれたかもしれませんが,この実験は,マウスを豚に,ラットをヒトで置き換える応用を企図しています。糖尿病で膵臓の移植を必要としている患者からiPS細胞を樹立。この細胞を,豚の胚盤胞に注入してやるのです。豚はあらかじめ,遺伝子操作をほどこし,自身では膵臓を作ることが出来ないようにしておきます。そうすると,豚の体内では,ヒト患者と同じ遺伝子を持った膵臓が出来てくる。この臓器は患者に移植しても,拒絶反応を受けず生着するだろう,というわけです。インスリンを産生できなくなった糖尿病の患者さんにとっては,大きな福音となるかもしれません。

しかし,このキメラ動物で,膵臓以外の臓器や組織では豚とヒトの細胞が混在した状態になります。その比率を制御することは現在のところ不可能です。膵臓の実質部分はともかく,膵臓内を走る血管は豚由来の細胞も混じることになるので,これは拒絶反応の原因・移植の障害になるのではないか,といった危惧があります。しかし,それ以上に問題なのは,そもそもこのような行為が倫理的に許されるのか,ということでしょう。たとえば,生まれてきたヒト-豚のキメラは,どことなく患者さんに似た顔をしているかもしれません(笑)。中枢神経もキメラになりますから,もしかすると普通の豚よりも知能が高いかもしれない。技術的なハードルは,いずれ乗り越えられるでしょう。そのとき私達の社会はこれを許すか,許さないか。苦しんでいる患者の身になれば,何とかして治してあげたい。ではそのために,キメラの生命は犠牲になってもかまわないのか。 ― これは,科学者だけで決められる問題ではありませんね。
 

荒田 

他に方法はないのですか。動物を用いないでiPS細胞を利用するやり方も考えられるのではないでしょうか。

佐藤

仰るとおりです。むしろその方が,現在の研究の主流になっています。たとえば事故などによって脊髄損傷を起こした患者さんからiPS細胞を作り,これを移植して神経系の再生を促すことを目指した研究が行われています。

この場合の問題点の一つは,iPS細胞の樹立に時間がかかることです。現在iPS細胞が出来てくるまでに二-三ヶ月,治療に向けて細胞数を増やしながら安全性の確認等にさらに数ヶ月。脊髄の損傷後,なるべく早い治療が望まれることを考えると,このタイムラグは重大です。そこで,さまざまなHLAタイプのiPS細胞をあらかじめ作製しておき,バンク化するという構想もなされているようです。患者さんのHLAと合致したiPS細胞を,バンクから取り寄せて治療に用いよう,というわけです。

荒田

安全性の確認というお話しが出ましたが,この点についてはどうでしょうか。

佐藤

まさに重要な問題です。

一つには,移植したiPS細胞や,これに由来する細胞が,体内でがん化するかもしれない。また,免疫系のターゲットとなって,拒絶反応を引き起こす可能性も否定できません。

荒田

免疫系のターゲットになるとは,どういうことでしょうか? 本人に由来する細胞なら,免疫系は異物だと認識しないのではないですか?

佐藤

遺伝子の中には,きわめて限局した場所や時間にしか発現しないものがあります。このような遺伝子がiPS細胞や,これに由来する細胞で発現するようなことが起こった場合,免疫系はこれを異物と認識してしまう可能性はあります。

荒田

なるほど。iPS細胞を移植しても,本来の生体における細胞と同じような遺伝子発現を行う保証がないということですね。

がん化する危険性も,そういう問題から起こることなのでしょうか。

佐藤

がんとは,分化プログラムの誤った進行といえますからね。今後は,iPS細胞からの分化を如何に正しく進行させるか,それをどうやって評価するか,という部分の進展が不可欠と言うことです。

そうした本質的な観点とは別に,iPS細胞の作り方自体にまずは改善の余地があります。先にご紹介した「山中四因子」ですが,Klf4, Oct3/4, Sox2,そしてc-Mycの四つです。これらのうちc-Mycは,ご存じのように細胞増殖と密接に関わる遺伝子であり,この過剰発現はしばしば発がんの要因になります。したがって,c-Mycを使わずにiPSが出来ればその方が望ましい。実際,c-MycはiPS化の効率を高めますが,必須ではないことがわかり,あえて残る三因子でiPS細胞を作る場合も出てきました。この他,これらの因子に変わってiPS化に寄与できる遺伝子も知られてきまして,より制御しやすく,がん化のリスクが少ない組み合わせを探索するのも,今後の医療への応用には大事な展開と考えられます。

もう一つは,遺伝子導入の方法です。山中博士はレトロウイルスベクターを用いました。レトロウイルスは扱いやすいベクターなのですが,その性質上,宿主ゲノムに入り込んで働く特性があります。従って,遺伝子導入によって宿主ゲノムに不都合をもたらす可能性があります。このことはもう既に,遺伝性の血液疾患でレトロウイルスベクターによる遺伝子治療を行い,がんを発症してしまった例を人類は経験しています。レトロウイルスベクターを用いない安全な遺伝子導入システムの開発,というのも今後の重要な焦点ですが,もう既に幾つもの方法が実用化されています。将来,iPS細胞が実際の再生医療に用いられる頃にはさらに改良が進んでいることでしょう。


つづく

by yojiarata | 2011-12-26 15:50 | Comments(0)

T細胞からiPS細胞へ 第5話



希少難病患者のiPS細胞を樹立

荒田

それでは,希少難病研究の基盤整備とiPS細胞の関わりについて,お話しいただけますか。

佐藤

希少難病研究の難しさは,情報がない,研究材料がない,という困難によるところが大きいと思います。例えば,SORDの副代表である中岡亜希氏は,ご自身が遠位型ミオパチーという遺伝性の希少疾患ですが,彼女の筋肉を採取するといってもきわめて限界があります。診断のために使うのが精一杯です。従って,病因の解明や治療薬の評価を行うには,動物モデルを立ち上げるというのが従来の発想であろうと思います。

そのためには,ゲノム解析から候補遺伝子を探索し,その遺伝子改変動物を作製する,という手順を踏むことになります。
 
ところが,iPS細胞の登場で,今ひとつ別の方法が可能になりました。

患者由来のiPS細胞を作製し,そこから,筋肉なり,神経なり,病態の現れる細胞を試験管内で誘導して解析,さらには治療薬の評価系に利用することも可能になります。

もとより試験管内でどれだけ生体を反映できるかは大いに工夫が必要でしょうし,限界もあると思われます。しかし,動物モデルが万能であると考える人もいないでしょう。

こういう次第で,SORDにより掌握された希少疾患患者の中からボランティアをつのり,血液を提供頂いてiPS細胞を樹立。将来的にはこれをバンク化して,多くの研究者に利用してもらうことを目指しています。

人手も足りない上いろいろと手続きが大変で,これまでにようやく三つの希少疾患の患者から血液を頂き,iPS細胞を樹立しました。

荒田

血液ですか? iPS細胞は皮膚の細胞から作るものと聞いていましたが。

佐藤

はい。山中博士のオリジナル論文は皮膚の繊維芽細胞を用いています。世界中の研究者がこれにならって繊維芽細胞からiPS細胞を樹立してきました。しかし,今回のように患者さんからiPS細胞を作るということになると,患者さんの負担の軽減が大事なポイントになります。皮膚の採取によって病状がいささかでも悪化するようではいけませんし,今回のSORDとの連携による希少難病患者のケースでは,患者が全国に散っているため,ハードルは低ければ低いほどよいと思いました。そういうわけで,プロジェクトの最初から血液から作らなければならないと考えていました。

その時点では報告されていなかったのですが,マウスではきわめて効率の悪かった血液細胞からのiPS細胞樹立が,ヒトでは存外にうまくいくことを知り,第1例からこの方法を採っています。今後は皮膚よりも血液から作製する事例が増えるのではないでしょうか。

荒田

血液細胞の種類は何でしょうか。

佐藤

T細胞です。私自身にとっても,もっとも親しみのある細胞ですね。はじめは,末梢血にわずかに含まれる血液幹細胞を用いるトライアルがなされていましたが,これでは血液を200ml も300ml も使わなければなりません。T細胞なら数ml あれば充分です。

今回のこの記事のタイトル,「T細胞からiPS細胞へ」は,私自身の研究の来歴を示すものであると共に,iPS細胞の作製法を示すものでもあります。

荒田

佐藤さんの役割は,希少難病患者のiPS細胞を樹立することに特化していると考えて良いですか?

佐藤

いいえ。せっかく作っても,研究に役立ててもらえなければ意味がありません。多くの研究者の方に役立てて頂きたいのですが,まずは私自身がこれらを用いて,何らかの研究成果をあげていくつもりです。他の方々による,優れた研究の呼び水になれれば幸いです。これまでにT細胞の分化研究で培った視点やオリジナリティが生かせればと思っています。

荒田

研究にかける佐藤さんの情熱がよくわかりました。

しかし,このプロジェクトを進めて行くには,困難も大きいようですね。

佐藤

SORDとの連携によるプロジェクトは次第に大きくなってきました。私達のように研究への道を拓こうとする動きと共に,遺伝子診療体制の連携,拡充によって,全国的に希少疾患の遺伝子診断を行う体制作りなども企画されています。

いずれにしても,SORDと私達のプロジェクトは,患者さんたちの声が研究者を動かし,手弁当で始まったというところが,しばしば予算ありきで組まれる大型プロジェクトと異なる点であるということを,私たちは密かに自負しています。

日本というお国柄は,何事もお上任せで,なかなか,こうした社会的活動が民間や市民から発展,展開していくことが少ないように思います。これを支援する社会的環境も,欧米に比べれば著しく立ち後れています。

ハンチントン病は重篤な遺伝性の神経疾患ですが,まだシークエンサーも,SNP等によるゲノム多型の解析方法も無かった1970年代に,この遺伝病の家系にある人たちの小さな一歩から研究が始まりました。はじめは週末の小さな研究会から始まったそうです。もちろん,国の予算などありません。1983年に原因遺伝子座の同定がNature 誌に報告された際,共著者に名を連ねたNancy Wexlerは,はじめの一歩を記した家族の一員でした。

ライソソーム病の一つであるポンベ病の場合は,患者の父親がそれまでの仕事を辞め,ポンベ病を治療するためのベンチャーを立ち上げたことが始まりでした。紆余曲折の末,治療薬の開発に成功した奇跡のような物語は,2010年,ハリソン フォード等により「Extraordinary Measures(邦題・小さな命が呼ぶとき)」という映画になっています。

患者さんやご家族と交歓した機会に,「今までほとんど顧みられることの無かった自分たちの病気を,予算もない中,研究しようとしてくれるクレイジーな先生がいることを知って嬉しい」という声を聞きました。私に出来ることはわずかです。一つの病気を克服するのにも,膨大な時間やお金,そして情熱が必要であることは,私はもちろん,患者さんご自身もよく承知しています。しかし少なくとも,希少難病の方たちに,“あなたたちは無視されているわけではない,何とか治してあげたい,希望を持たしてあげたい”と思っている人間がいることを伝えることは出来てきたかな,と思っています。

出来うるならば,少しでも私達の取り組みについて,多くの方に知って頂きたい,応援して頂きたいと切に願っています。

荒田

意義のあるお仕事ですね。ご健闘をお祈りします。

今回は,お忙しいところ時間をとっていただき,誠に有難うございました。



by yojiarata | 2011-12-26 15:40 | Comments(0)

夜長には John Lewis Piano を



暦によると,本日,平成23年12月22日は冬至である。

夜長には 『ジョン ルイス ピアノ』 が似合う。そこはかとなく流れるピアノの音色。録音は,1956年から1957年。このアルバム は未だに人気があるらしく,現在もアマゾンから限定版として入手可能である。

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ジョン ルイス (1920-2001) は,モダンジャズカルテット(MJQ)を結成し,多くの作品を遺した。

MJQのレパートリーは,ジャズのスタンダードナンバーにとどまらず,広くバッハに及ぶ。平均律クラビア曲集をもとにした『プレリュードとフーガ』,夫人のミリアナ ルイスのハープシコードとの共演による『ゴールドベルグ変奏曲』など。『BLUES ON BACH』 (1973年録音)では,ミルト ジャクソン のビブラホンの響きが素晴らしい。

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話は変わるが,銭形平次の生みの親である野村湖堂(1882-1963)は,アラエビスの筆名で,今で言う音楽評論を書いていた。そのアラエビスの言葉:

”音楽を聴きながら執筆するのが習慣になった。ベートーベンはこれに適していない。重すぎるからである。自分にはシューベルトのピアノ曲が最もあう。”

筆者の場合,ジョンルイスを聴きながらということがよくある。静かでよい。
by yojiarata | 2011-12-22 07:53 | Comments(0)

大食漢 東西対決



今では使われることが稀になった言葉がある。「大食漢」がそのひとつではあるまいか。広辞苑には,「おおぐらいの男」,大辞泉には,「大食する人。健啖(けんたん)家。ふつう男性についていう」と記されている。


ブリア・サヴァラン 『美味礼賛』(原題:味の生理学,1825年)

食を論じた古今の絶品である。ユーモアとウイットに富み,抱腹絶倒の記述が随所にある。例えば,かきが大好物の客人を招いたときのエピソードでは, ブリア・サヴァランが3ダースまでおつきあいしたあとも,料理人がかきの身をむくのを辛抱強く待ちながら,32ダース(32×12=384個)のかきを満足そうに平らげた客人について,つぎのように記されている。

われわれは食事を始めたが,かれの食べっぷりはみごとなものであった。それはまるで断食をしていた人のような健啖(けんたん)ぶりであった。

ブリア・サヴァラン:美味礼賛(関根秀雄訳,白水社,1963)

私自身,ヨーロッパで友人に招待され食事をともにしたことのことを思い出す。最初の一皿,二皿を,自分にはかなりの量だと思いつつ何とか平らげて「ご馳走様です」と思った直後,巨大なメインディッシュが目の前に現れたときの当惑を忘れることがでない。これは,我々がしばしば経験する西欧民族のバイタリティーと無縁ではないような気がする。

ここで,谷崎潤一郎が1933年に書いたつぎの文章を読んでいただきたい。

私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつつこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。茶人が湯のたぎるおとに尾上の松風を連想しながら無我の境に入るというのも、恐らくそれに似た心持なのであろう。
谷崎潤一郎:陰翳礼賛(中公文庫)

食は文化そのものだと思わずにはいられない。

日本の大食漢

朝日新聞1977年(昭和52年)月曜日 13版 17ページ 「家庭欄・ふとる やせる」の別格派のHSさん(体重102キロ,身長178センチ,48歳)の場合

HSさん 曰く

”私の場合は”合理的な大食”(メニュー別項)でしてね。”暴食”じゃありません。暴食っていうのは,とつぜんの洪水のようなもので堤防決壊をおこす,つまり臓器に障害をきたしますでしょう。 ・・・・・

ある日のメニュー

朝食
ごはん三,四杯。汁より実(ジャガイモなど)の多いみそ汁二,三杯。卵二個,分厚いハム二枚,それに肉料理を。たとえばスキ焼きひとなべ分。ミカン五個。リンゴ二個。

昼食
会社の食堂でたくさん食べると笑われるから外へ出て,一軒でヒレカツ定食,続いてそば屋でうどん二杯。

三時
この会社には毎日三時から二十分間,休憩がある。この時大福もち五つ,あるいはシャーベット五カップ。

会食
始まる前に肉うどん二杯。会食中に,いきつけの料亭では,氏のテーブルの下に,田舎まんじゅう,タイ焼きなどをザルに盛っておいてくれる。これを十個くらい。帰宅後「ふつうの人ぐらい」の夕食。

夕食
(まっすぐ帰宅する日)まず魚は,小ぶりのサバなら一匹。刺身なら三人前。続いて肉は,ビフテキ四,五百グラム。「大きいほどいんですが,フライパンの大きさに限度がありますから」煮豆を中ぐらいのはちに一杯。野菜はイモ類が好物。ごはんはいくらでも入るから,夫人に何杯目ときき,五杯よといわれたらやめておく。食後はミカン五個,リンゴ二個,あんまん三つかおはぎ五,六個。

夜食
夜中の十二時。長年ビフテキとごはんだったが,いまは軽く,たとえばトースト五枚に果物。

HSさん 続いて曰く

運動はとくにしませんが,睡眠時間は夜二時から六時までの,四時間で十分です。社の業務と夜までかかる会議や会合,自宅での調べもの。忙しさでエネルギーをどんどん使うから,収支は合うわけなんです。・・・・・

検査を受けますと,胃袋がひと様よりちょっと大きくて長いそうですが,糖尿とか心臓病の気はないんだそうです。大食は臓器の負担が大きくて,摩滅が早いかも知れんですが,三人のドクターと親しくしていて,補修の必要が現われしだい,手を打つ態勢をととっています。一食入れると前のが押し出されますので,日に数回トイレに行きましょう,ですから最近は外科的なところの修復で,医者の世話になりましたが。医者のアドバイスは,私はきちんと守るんですよ。

国際会議なんかで欧米人のあのエネルギッシュな仕事ぶり,あれはよく食うからですよ。武士は食ねどっていうのは,精神修養にいいが,スタイルだけが目的なら,国際競争力の点で,日本は負けますね。・・・・・

ともかくムダ食いはしてないって答えますよ。ひと一倍食べて,ひと一倍働く―。そのために人生,太く短いのか,太くても長生きできるのか,こればかりは棺におさまってから,まわりの人が知ることでしょう。
by yojiarata | 2011-12-17 21:26 | Comments(0)

小指の想い出



伊東ゆかりの『小指の想い出』(1967)は

”あなたが噛んだ小指が痛い”

で始まる。噛んだ相手は,ボーイフレンドである。

筆者にも小指を噛まれた記憶がある。しかし,噛んだ相手は,生物ではなく,稲刈りに使う鎌である。あれは,太平洋戦争開戦と終戦の間の小学校の3年生か4年生の頃だった。

戦地の兵隊さんを銃後で支える国民には,女性のみならず,小学生も勘定に入っていた。戦地の兵隊さんを思いつつ,稲刈りの助けをするため,あの日も鎌を手に田圃に動員された。

何が起こったか,記憶は定かでない。痛かった記憶もない。憶えているのは,田圃の持ち主のおじさんが,大声で,”小便をかけろ”と怒鳴ったことぐらいである。オシッコをかけることには抵抗があった。何か汚いもので大事な身体を汚したくない,小学生にもプライドがあると一瞬思ったのかも知れない。

そのあと,どのようにして家にもどったかなど,全く記憶がない。町医者をしていた父親が傷の処置をしたのだと思う。

左手の小指,爪から身の部分まで鎌が切り込んだ痕は,今も残っている。小指の爪は今も半分に割れたまま生えてくる。小指を見るたびに,戦争で全焼した我が家を思い出す。

ずっと後になって,友人の医者にこの話しをした。彼は,”オシッコは無菌だよ,君の身体の一部だよ”と教えてくれた。
by yojiarata | 2011-12-08 15:25 | Comments(0)

枯葉



紅葉が東京の市街地にも下りてきた。落ち葉が舞う木枯らしの師走となった。

木枯らしといえば,二葉あき子さんの 別れても を思い出す。


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前にも書いたが,私の中学生活は,明けても暮れても,野球とともにあった。戦災で焼け出され,母の実家のある田舎の家を早朝6時にでて,一里(約4キロ)のまだ暗い道を歩いて,入学したばかりの中学に行く。中学と言っても,全焼して校舎はなく,グランドはやけに広かった。仲間が大勢集まっている。授業が始まるまで,布で作ったボールと竹のバットで野球。授業が終わった後は,また野球。薄暗くなってから,田舎の道を歩く。木枯らしの頃の寒さは格別だった。家に駆け込み,コタツに潜り込む。

「空になる凩,雨戸うつ吹雪 ・・・ 」 は,まるで子守唄のように,野球少年だったあの頃を思い出させる。

ほかにも,『水色のワルツ』,『夜のプラットホーム』などを遺した二葉あき子さんは,今年8月16日,心不全のため他界された。今の世にはもはや存在しない上品で透明な声の歌い手だった。

枯葉といえば,シャンソンの『枯葉』がすぐに頭に浮ぶ。手元に,1950年代中頃に録音されたジュリエット・グレコ (1927-) とイブ・モンタン (1921-1991) の CD がある。以前,学会の帰りに立ち寄ったパリの街をフラフラ歩いていたときに見付けたCD屋さんで購入した。

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『枯葉』は世界的な大ヒットとなり,その後,ジャズのスタンダード・ナンバーとして,数限りない演奏が録音されている。筆者のCD コレクションでも10枚は下らない。筆者がよく聴くのは,次の一枚(1958年録音)です。理由はとくにありません。演奏者の組み合わせ,その音色がよいなと思っています。

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イブ・モンタンは,多くの映画にも出演している。なかでも,『恐怖の報酬』は,怖ろしくも素晴らしい,忘れがたい作品だった。

淀川長治さんなら,”こわかったですねー恐ろしいかったですねーだけと,イブモンタンは素晴らしかったですねー”とおっしゃるに違いない。
by yojiarata | 2011-12-05 22:03 | Comments(0)

究極の万年助教授



大森房吉(1869-1923)は,1890年,東京大学理科大学物理学科を卒業,1895年から2年間ヨーロッパに留学し,帰国後,1899年に地震学講座の教授に就任し,日本の地震学の礎を築いた日本における地震学の祖と称すべき学者である。関東大震災の年(1923年),脳腫瘍のため早世する。

大森の講座には,助教授の今村明恒がいた。今村は,今で言う「地震予知」の可能性を早くから主張していたが,「地震予知」は意味不明の星占いのようなものであり,世間を惑わすだけだと主張する大森とことあるごとに対立した。しかし,今村の予言通り,関東大震災が起こり,名誉回復し,その年創立された東京帝国大学の地震学講座の教授に就任する。


今村明恒教授

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これだけ書いただけでは,世間によくある主義・主張の異なる教授と助教授の「喧嘩話」になってしまうが,今村にとっては,23年間にわたる助教授生活はさぞ大変だったと思う。なにせ,23年間,助教授とは言いながら,給与はゼロ,軍の学校などで数学を教えるアルバイトをしていたというのだから。

昭和22(1947)年3月31日法律第26号によると,助教授は教授を助けることを職務とすると明記されている。私自身について言えば,1969年,講師から助教授に昇任したとき,教授から,あなたの役割は”私を助けること”ですと,釘を刺された記憶がある。結局,私の助教授生活は,昭和61(1986)年に別の学部から教授として招聘されるまで17年(講師の期間を含めると19年)に及んだ。しかし,この間,国家公務員(当時)としての給与をいただいたお蔭で,万年助教授という肩書きに少々のこだわりがあったものの,教授を助けないで過ごした研究生活は決して不愉快ではなかった。教授を助けなかった自分のせいだからである。

ちなみに,平成19(2007)年6月27日,学校教育法法律第98号が改正され,助教授が准教授へ,助手が助教と変更されたが,実体はこれまでと変わっていない。この法改正によると,准教授は,教授と独立であると書かれているが,研究費の点などを含め,准教授は助教授と何の変わりもないのが現実である。

私は,自身の万年助教授19年は”ベストテン”にはいる記録だと思っていたが,今村明恒助教授のことを知り,上には上があるものだとひどく驚いた。給料無しに23年の助教授生活を凌ぎきった今村明恒に,万年助教授の同士として,深く敬意を評したい気分である。
by yojiarata | 2011-12-05 21:50 | Comments(0)