<   2011年 04月 ( 12 )   > この月の画像一覧

冬を耐えれば 花が咲く



如何なることがあっても,花の咲かない春はない。少なくとも,人類がこれまで経験してきた長年の歴史の中ではその通りである。

a0181566_1748016.jpg

レンゲツツジの開花
東京都立総合芸術高等学校の前庭にて。画面に花芽も写っている。
平成23年4月30日撮影。



生物の体内の水の凍結は死を意味する。生物には,低温の環境を生き抜くさまざまな知恵が組み込まれている。

ここでは,植物の耐寒性について述べる。

5月になると,躑躅(ツツジ)が満開になる。気温が水の凍結点を下回ることがあっても,ツツジの花になる部分(花芽)は冬を無事に過ごし春を迎える。5月にはツツジの赤い花が咲くという当然とも思われるこの事実を現実のものとするために,ツツジを含めて植物には自らを寒さから守るさまざまな機構が備わっている。

温度の下降とともに花芽のなかで何が起こるのかを知るためには,組織を破壊することなく,花芽の内部を可能な限り詳細に観察する計測法が必要である。それには,現在,病院の放射線科で用いられている核磁気共鳴イメージング(MRI)の方法が役に立つ。この方法では,核磁気共鳴(NMR)を用いることによって,水の空間分布を画像化し,生体組織を非破壊的に観察する。花芽のような小さいサンプルを対象とする場合には,空間分解能が30ミクロン程度の画像が得られる。このような画像化の方法を NMR イメージングとよんでいる。

レンゲツツジ(ツツジ科)の花芽のNMRイメージングを測定すると,
a0181566_20273092.jpg

A:基部,B:皮層部,F:少花,LB:葉芽,P:花軸,Pith:髄,Sc:花鱗片,X:材。横バー:3mm。測定温度:+1℃。


花芽を破壊することなく,花芽の内部を観察することができる。NMRイメージングによって得られる画像では,液体の水は白く光って見える。しかし,氷になると画面から消える。すなわち,温度が下がるとともに,花芽の中で何が起るかを知ることができる。

レンゲツツジの花芽の場合には,-7℃で花芽の中の皮層部(B)と芽鱗片(Sc)がまず凍結する。これに対して,春になると花になる小花(雄蕊,雌蕊,花びら,萼)は,-21℃になっても,凍らないで水のままの状態が保たれている。
a0181566_2037980.jpg

(A)レンゲツツジ,(B) サンシュ,(C) ナシ,(D) リンゴ
測定温度:(a)+1℃,(b)-7℃,(c)-14℃,(d)-21℃

よく見ると,温度の低下とともに,芽鱗片が速やかに凍結し,生成した氷が小花を包むことがわかる。この状況で,小花の部分は水であり続けるのである。こうして冬を越した花芽は,春になると花になる。この場合,凍結しているのは,大事な小花から離れた器官のなかの水である。小花の水は,-21℃までの温度範囲では,つねに水として存在し,春になると花になる。すなわち,小花を取り囲む芽鱗片部分が寒さに耐えるための砦になっている。肝心の部分(小花)を取り囲む組織に凍結が起こり,小花自身が凍結を免れるという意味で,器官外凍結 という。

小花が凍結すると,春になっても花が咲くことはない。サンシュユ(ミズキ科)は,-14℃までは,レンゲツツジの場合と同様,花芽の水は水として存在するが,花芽の水は-21℃ では凍結してしまい,花の命が失われる。

器官外凍結の結果,氷によって取り囲まれた小花の水は,過冷却状態で冬を越すことになる。別の言葉でいえば,水を水として保つ過冷却現象による「徹底抗戦」によって,花の命が支えられているのである。

小花の水には,さまざまな物質が含まれ,これが過冷却状態の維持に貢献しているものと考えられる。また,まわりを氷で囲まれているため,雪の室である「かまくら」の効果もあるのではないだろうか。

植物の耐寒性を支える機構は,他にも色々知られている。例えば,ナシやリンゴ(いずれもバラ科)の場合には,温度が下がると,図に示すように,花芽の全体からNMR 画像が速やかに消失する。しかし,この場合には,これまでに述べた器官外凍結の場合と異なり,春になると再び花が咲く。一般的には,この型の花芽の方が耐寒性が高いことが知られている。画像からは,温度が下がるとすべてが凍結するように見える。しかし,NMRイメージングでは,氷が生成して画像が消失したのか,あるいは単に水が失われて画像が消失したのかは区別することはできない。このため,NMRイメージングの画像の解釈には,ほかの実験からの知見が必須である。

結論だけ書くと,ここで問題にしているナシやリンゴなどの越冬の場合には,温度が下がると,細胞の周囲が速やかに凍結することが知られている。この現象を 細胞外凍結 とよぶ。細胞外凍結の結果,細胞はすぐ外を氷で取り囲まれることになります。これは,器官外凍結の場合とは質的に異なる。細胞外凍結が起こると,細胞内の水が急速に細胞外に放出され,細胞が「しわくちゃ」の状態に変化します。ナシやリンゴなどは,こうして冬を越す。

細胞内の残った水が凍ってしまうと,それは花芽の死を意味する。失われる細胞内の水の量は,細胞内の残った水が,どの程度まで過冷却状態を保てるかによって異なる。実際には,与えられた条件のもとで過冷却を保てるよう,水の移動が制御されているといった方が正確である。細胞内は,さまざまな物質が存在し,その質と量によって,どの程度の温度まで過冷却を維持できるかが決まるのである。例えば,夏と冬では,花芽のなかの細胞に含まれる水溶液の性質が有意に異なること,夏の細胞は,低温に対する抵抗性が明らかに低いことが知られている。

これまで,「細胞内に残った水が凍る」と表現してきたが,これは正確には,「細胞内で氷が成長する」といいかえるべきである。氷結晶の成長は,細胞の生存を脅かす。氷がとがった針のように突き刺さって組織を破壊する可能性があるからである。水が氷ではなく,ガラス状態になって固化するなら,細胞への破壊ははるかに少なくなる。細胞の中には,多種多様な物質が含まれていて,これによって細胞内の水のガラス化を促進される。低温に晒された花芽内では,親水性の高い糖やタンパク質が緊急に合成され,水のガラス化を助ける。ガラス化によって固化した状態は,安全な仮死の状態であり,植物はこれによって無事に越冬することが可能になるのである。

生物の耐寒性は,単なる凍結の抑制であるだけでなく,ある場合には凍結の促進でもある。いいかえますと,凍結の促進と制御のバランスによって,開花が保証されているのである。器官外凍結においては,耐寒のための防波堤が器官レベルである。これに対して,細胞外凍結の場合には,細胞膜が防波堤の役割を果たしている。

ここで,茶畑の霜害について一言付け加えておきたい。

大阪から東京に向かう新幹線が静岡県を通過するとき,左側に広がる茶畑に,背の高い扇風機が並んでいるのに気が付く。この扇風機は,茶畑を霜の被害(霜害)から守るためのものである。

五月でも,晴れた寒い日には,放射冷却によって地表の温度が奪われて,地表近くの温度が氷点下になることがある。水は,‘芯’になるものがなければ,0℃に近い氷点下では,凍結することはない。水の過冷却状態である。ところがなぜか,5月の,夏も近づく八十八夜の頃,茶畑に霜が下りて,茶畑が全滅することさえある。この現象は,古来,八十八夜の別れ霜 とよばれてきた。辞書には,

八十八夜の頃に降りる霜。この頃が最後の霜で
これ以後は降りないといわれる。茶や桑に害を与える。
『岩波広辞苑第五版』


とある。茶畑の場合,何が‘芯’になって,過冷却状態の水が凍結するかは,長い間解明されていなかったが,同様な霜害に悩んでいたアメリカの研究者が,霜害を受けた落ち葉の中から,氷核細菌とよばれるバクテリアを見つけた。今から 40年ほど前のことである。氷核細菌は,自分の背中に氷核活性物質とよばれるタンパク質をもっている。茶畑の扇風機は,冷たい地表と地表から離れた高さの暖かい空気とをかき混ぜて,お茶の葉の温度が下がるのを防いでいるのである。過冷却状態にある水から,氷が成長する過程は,雨を降らせるために散布されるヨウ化銀の働きとまったく変わりない。



なお,花芽のNMRイメージング の研究は,機能水研究所において,主任研究員 W.S.Price 博士 [現在 University of Western Sydney 教授,Australia ]を中心に行われ,数編の論文(英語)として公表されている。
by yojiarata | 2011-04-29 16:56 | Comments(0)

雲に魅せられた人 ハワード



平成23年4月28日

日中の最高気温25℃,初夏を思わせる天気,空を見上げると夏の雲。

雲は,大気の状態,発生する高さなどの違いによって,かたちや明るさや色が変化する。人々は,ある日ふと見上げた空の雲に,さまざまな思い出をもっているはずである。

清少納言は,雲のさまざまな変化をつぎのように書き記している。

雲は 白き むらさき 黒きもをかし
風吹くをりの雨雲
明けはなるるほどの黒き雲の やうやう消えて
白うなり行くも いとをかし
朝にさる色とかや ふみにも作りたなる
月のいとあかきおもてにうすき雲 あはれなり

清少納言:枕草子(岩波文庫)


ベントレー ( ⇒ 雪に魅せれれた人々)が雪の人であったとすれば,雲の人は18世紀から19世紀のかけて生きたイギリスのハワード(Luke Howard)である。ハワードは商社をはじめたが,学生のとき見た雲の美しさを忘れることができず,ついに雲と気象の研究にその一生を捧げた。

ハワードは,cumulus(積み重なった雲),stratus(層状に広がった雲),nimbus(雨の雲),cirrus(繊維状に伸びた雲)によって雲の形を分類,命名することを提案した。ハワードの命名に,当時の「国際語」であったラテン語が用いられたことが幸いして,言語の壁を超え,ハワードの提案は以後,多くの人々によって広く用いられることになった。

ハワードの観察が如何に的を射たものであったかは,200年後の現在も,雲の形(雲形)の分類には,ハワードの提案をほとんどそのまま取り入れ,国際的に用いられていることからもわかる。『オックスフォード英語辞典』にも,ハワードの著書『雲の分類』から文章が引用されている。

実際には,雲のかたちを表現するには,高さ,かたち,広がり,明るさ,構成成分(水滴と氷晶)などをもとに,普通,十種類の基本雲形が用いられる。cirrus(絹雲,すじくも)は,最も高層に出来る雲,さらにcumulus(積雲),stratus(層雲),nimbus(雨雲)のほか, cirro-cumulus(絹積雲,うろこぐも,さばぐも), cirro-stratus(絹層雲,うすぐも),cumulo-nimbus(積乱雲,にゅうどうぐも)などの表現が用いられる。

ハワードはまた,多数の雲の美しいスケッチを書き遺している。ハワードの人と業績を含めて,雲に関する興味のある事柄が,CLOUDMANに掲載されている。例えば,Mini Cloud Atlas の項には,さまざまな雲の美しい写真が掲載されている。また,Cloud History の項には,ハワードの人と業績について述べられている。
by yojiarata | 2011-04-28 22:37 | Comments(0)

わが師わが友 清水博 Ⅰ



未知との遭遇


超・後期高齢者になるまで,50年余り,核磁気共鳴(NMR)を友として研究を続けてきた。

私は,点を一つづつ設定しては,前に進んでいく,別の言葉で言えば,各論に徹することを信条として研究を続けてきた。当然のことながら,研究を続けていれば,自分とは全く別の道を歩む人物に出会うことがしばしばある。その中に,ごく稀に,これぞ天才とよびたくなる人物がいる。

清水博 と出会ったのは,私が東京大学医学部薬学科に進学した昭和29(1954)年4月である。世の中,どこにいっても,ちょっと変わった人物がいる。私たちのクラス(35人)のなかに,ちょっとどころか途轍もなく変わった人物がいた。その人物が,のちに私が師と仰ぐことになる清水博である。

自然科学のあるゆる分野で世界から遅れをとっていた日本の近代化を目指して,明治政府は,自然科学の分野で,当時世界で覇を唱えていたドイツからあらゆるもとを導入することに努めていた。日本の薬学も御多分にもれず,リービッヒなどが先陣を切っていたドイツの有機化学を基にしてしてその基礎が作られた。私たちが進学した薬学科は,100年たっても,旧態依然とした有機化学を中心に回っていた。

話を元に戻す。清水博は,薬学科での授業中も,講義そっちのけでさまざまな本を取り出しては読んでいた。今でも記憶にある一冊が,デバイの有極性分子 (1952)である。デバイは,物理化学研究における貢献で,ノーベル化学賞(1932)を受賞している。当時の薬学には,物理化学の授業などなかった。清水博は,独力で薬学の全く新しい道を切り拓こうとしていたのである。

こんなこともあった。あるボス教授の授業中,一人の男が立ち上がって部屋から出て行こうとした。ボスが黙っているわけがない。烈火のごとく怒りを爆発させた。しかし,清水博は,ボスの罵声を後にしてそのまま出て行った。その後,ボスと清水博の間で何があったか知らない。

一時が万事この調子の清水博は,大変な変人としてクラスの空気の外に浮んでいた。

清水博は,大学院修士課程に進学するが,進学先は薬学ではなく,理学部化学科の森野米三教授を指導教官に選んだ。ジフェニルのX線結晶解析の仕事をして修士の学位を授与された。

清水博は,大学院博士課程学生として薬学に戻った。形式的には,生薬化学の柴田承二教授が指導教官になっていたが,実際には毎日,調布の電気通信大学の藤原鎭男教授の研究室に通っていた。同教授が日本の先頭をきって推し進めていた核磁気共鳴(NMR)の研究に参画するためである。

何故,清水博がNMRに惹かれたのかは定かでない。後の博士論文の主題となるNMR緩和の理論を最初から始めたわけではないからである。最初は,有機脂肪酸などの低分子のNMRスペクトルを測定していた。用いた装置は,藤原教授が林助手とともに手製で作り上げた27 Mc/s (当時は,MHz ではなく,こうよばれていた) である。その実験を手伝っていたのが私である。

これより先,清水博の何ともいえない底知れぬ大きさに惹かれていた私は,貴殿のNMRの弟子にしてくださいと申し出た。清水博は,1)自分が下宿している文京区追分町の正行寺第2清風荘にいま部屋が一つ空いているから,そこに引っ越して来ること,2)日夜勉学に励むこと,を条件に弟子となることを受け入れてくれた。私のその後の50年の NMR人生が決まった。



清水博の大学院博士課程



清水博は,藤原研の博士課程在学中に,のちのNMRの歴史に残る何編かの論文を,Journal of Chemical Physics に発表している。ブログのNMR50年 第2部 にその一端を述べたが,一言でいえば,NMR緩和現象を化学の目で体系的に理論付けたことである。現在,不可欠の方法として多用されている TROSY 法の基礎となる理論を世界に先駆けて発表したのも清水博,分子の形が回転楕円体である場合の緩和現象への影響を体系化したのも清水博ある。これら一連の仕事は,1960年代の半ばのものである点に注目しなければならない。私の知る限り,この早い時点で,NMR緩和現象に深く切り込んだ研究者は世界にいない。

歴史にもしも はないが,清水博がこのまま,その研究路線を発展させていたら,Bloch, Purcell のあとのノーベル化学賞に輝いていたに違いないと私は信じている。

しかし,残念ながら,歴史はそのようには進まなかった。日本のNMRコミュニティーにとっては大変残念なことである。

当時のNMRの実験技術は,未だ揺籃期にあった。たとえ,清水博が実験によって,自らの理論の検証,その化学への応用を意図していたとしても,それを可能にする体制は全く整っていなかった。

しかし,問題は清水博の内面にあったというのが真実だと思う。清水博は,NMR緩和の理論解析のあと,分子のブラウン運動の理論解析に取り組んでいたが,縁があって B 教授の研究室で,ポスドクとして,最初の一年はハーバードで,あとの一年はスタンフォードで研究をおこなった。B 教授 が当時のニクソン大統領の科学補佐官に就任したこともあって,全く一人で研究していた。清水博は,当時を振り返って,邪魔されずに仕事ができてあんなに仕合せなことはなかった,私に語ったことがある。しかし,B 教授は,自分・清水のことを他人に紹介するときには,決まって,

He is working for me.

アイディアも何も出していない彼からそんなことを言われるのは,不愉快極まりないと言っていた。

それらの経験を通じて,清水博は,西欧先進国の研究体制,広い意味での文化に大きく感じるところがあり,日本はこのままでは駄目だ,との思いを抱いて帰国した。後に,日本から多くの研究者が西欧先進国に出かけて研究しているが,彼らは一体,何を学んで帰国するんだろうと憂慮していた。

清水博が,世界的な業績を上げながらNMRを離れていったのにはこのような思いがあったのではないだろうか。日本独自の研究をすることがなければ,結局は,西洋の追随に終わると考えた清水博は,歴史に残る業績を挙げたNMRを捨てることになる。

清水博がNMR緩和に興味を持ったそもそもの原因は,非可逆過程のサイエンス の顕著な例として捉えたことによる。

手元に,清水博
a0181566_10532361.jpg


『生きている状態の法則的理解を求めて』

a0181566_1051564.jpg


がある。この冊子は,清水博が,平成5(1993)年3月におこなった最終講義の際に配布されたものである。今読み返してみると,その中に,NMR以後の清水博を知る手がかりがある。




つづく

by yojiarata | 2011-04-26 12:59 | Comments(1)

わが師わが友 清水博 Ⅱ





なぜ情報を研究するか
- 生命の本質的な理解を求めて -




冊子の10ページに,清水博は次のように書いている。
分子生物学 は,生命体を要素に分解して,分解したままの状態でその要素の性質を細かく研究する。このような研究が必要なことはいうまでもないが,問題は生命体のシステムとしての法則性を知るにはこれで十分かどうかということである。

私自身の言葉で,この文章を置き換えてみると,
 自動車は,部品の数が1万も2万もある。自動車の部品の一つだけを取り出して調べることは重要であるが,それでは,自動車全体の働きは理解できない。この部品の1個でも欠けると,自動車は自動車でなくなるではないか。

1970年代から,構造生物学 とよばれる学問分野が登場してきた。X線結晶解析,NMRなどを用いて,生物から取り出し,精製したタンパク質の構造を解析して大きな成果を挙げてきた。巨額の予算を投じる国家プロジェクトが,過去10年の間に推進された。しかし,清水博に問えば,その路線は生命の理解に繋がることはないと言い切ると思う。

1個の部品の理解ではすまない,生物全体を理解するにはどうすべきかを考え抜いた末,清水博は,NMRを捨てて,生命現象の解明に踏み出した。

清水博の辿った道は,上述の冊子の冒頭の部分(2ページ)に集約されている。そこには,次のように書かれている。

この冊子は,この大学で私たちがおこなってきた「生きていることの探究」をしょうかいさせていただくものであるが,同時に「格闘」の現場の記録でもあり,私がまき散らした「迷惑」の証にもなっている。私の研究人生は,この学部に進学し,寛容な雰囲気のもとで,「生きている状態の法則性の解明」という自分の生涯の研究目標を,学部学生の時代に設定したことに始まり,(1)不可逆過程と化学反応論の研究(核磁気緩和および凝縮系における分子の不規則運動の研究),(2)自己組織現象としての生命現象(筋肉と細胞運動における自己組織の研究,(3)情報の生命科学(生命現象の「場}における情報創出現象,知覚像の自己組織現象と認識の研究),そして (4)生きものの自己創出性に関する関係学的研究(生き物の主体性と意味創出の研究)へと進んできた。

その中で私が望んできたのは,研究室の経営者となるよりも,生命と向き合うひとりの探究者であり続け,そして自分の発見を通じて研究室の人々に影響を与えることができる,これらのことであった。生命の法則性をさらに深く捉えていくことの喜びにくらべれば,業績を積み上げていることには魅力を感じなかった。生命を理解するために,より深く,より本質的であると考えられる方向に常に向かおうとし,その方向を選択することによって生じてくるくるであろう困難さを気にかけることはほとんどなかった。そのため研究の方向はたびたび大きく転換し,その転換が研究室のメンバーに絶えず自己批判,自己否定を迫る結果になった。「格闘」の原因を生み出していたのは,常にわたしというこの存在であったともいえるのである。


清水博の著作には,次のような言葉や人名が登場する。

バイオホロニクス 動的平衡

織田信長 ピカソ プリゴジン ハーケン シャノン パブロフ ボルツマン 西田幾太郎 

生き物の即興劇モデル

輪廻

この輪廻に含まれている生命観を,統計物理学的な考えに立って科学として表現することを一生のテーマとしたいと,そのころ友人達に語っていた。(52ページ)

大学院に進学後の2年目,私が自然弁証法の勉強から得た印象の具体化である,分子の統計力学的な動的描像を得るために,私はいよいよ熱力学的な平衡状態ではない不可逆現象を勉強することになった。(53ページ)

私は生態の機能の研究の変遷を自分なりに次のように考えてみた。最初はスタティックな形態学と分類学に始まり,次第にダイナミックな性質が研究の対象になり始めて生理学的な研究が起こり,さらにその基礎を生化学的に探究して,細胞の代謝に関してより動的なイメージを獲得し,動的平衡というがいねんにまで到達した。この動的平衡という概念こそ,生化学によって初めて達成することができた生体の最も進んだ捉え方ではないであろうか。(51ページ)



この文章が書かれたのは,今から20年以上も前のことである。以上の引用では,清水博の退官記念誌のページを併記した。以下の引用も同様である。


*


その前に,書いておきたいことがある。

最近,書店で『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか 』 (2009) を目にした。ある大学の生物学の教授が執筆したこの著書は,ベストセラーになった。この教授は,一躍,この道の権威として,マスメディアの寵児となった。


*


話を元に戻す。清水博は次のように書いている。


私は薬学部で「生きている状態とはどんな状態であるか」ということを研究してきた。(66ページ)

科学は宗教と対立するように考えられてきたが,科学と宗教はそういう関係にはない。生命の本質を考えると特にそう思う。現在の科学には非常に厳しい限界がある。これは前から指摘されていることであるが,今の科学は見るものと見られるものを切り離した形でものを認識するという見方を受け入れた上で成り立っている。(81ページ)

先日,一人の知人が何年かぶりに研究室を訪ねてきてくれました。雑談の後で,私の顔をまじまじとながめて,「このごろ少しおかしなことをいうという話を聞いて来てみたのだが,どうやら気は確かなようで,安心した。」といって帰っていきました。(98ページ)



点・対・点の発想とその限界



私は,近著  『がんとがん医療に関する23話 がん細胞の振る舞いからがんを考える』  (薬事日報社,2010) のなか(127-132ページ)で,薬剤の副作用について次のように指摘した。

点・対・点の発想

1980年代以降, アメリカを中心に世界中で分子標的治療薬の開発研究が行われてきました。アイディアの根底にあるのは,細胞であれ,遺伝子であれ,遺伝子産物であるタンパク質であれ,薬物が狙いを定めた標的だけに選択的に結合し,その効果を発揮することを期待している点です。別の表現をするなら,それは,薬物と人体の関係を,“点・対・点の関係”として捉えようとするアプローチにほかならなりません。ここで,相対する二つの点とは, “1個の薬物分子”と“1個の標的部位”を指すものと考えておいてください。

人の身体のシステムと薬物:コンコルド広場の比喩

人の身体は,自らを構成する六十兆個にも及ぶ細胞の集団が紡ぎだす究極のダイナミックなシステムです。したがって,人の身体に何らかの病変が起きたとき,どこか一箇所(点)だけを修理すればよいというわけにはいかないのです。

遺伝子の異変は,とりもなおさず,遺伝子が作り出すタンパク質がそれまでとは異なった構造をもつことを意味します。これによって,人のシステムに異変が生じることは間違いありません。しかし,複雑極まりないダイナミックなシステムに異変が起きている場合,有害なただ一種類の遺伝子の産物(タンパク質)を叩き潰せばことが足りるというような単純な問題ではありません。突飛だと思われるかもしれませんが,次の比喩を用いて話を進めることにします。

私は今,フランス人の友人が運転する自動車に乗って,パリのコンコルド広場に突入した10年以上も前の恐怖を思い出しています。フランス革命とそれに続く動乱のなか,多くの人々がここに設けられた断頭台の露と消えました。ルイ16世,マリー・アントワネットをはじめとする王侯・貴族達,現代化学の祖であるアントワーヌ・ラボアジエなどの名前が次々と頭に浮かびました。

コンコルド広場には,さまざまな方向に伸びている10本を越える大きな道路から,大小さまざまな自動車が猛スピードで進入し,反時計回りに走っています。大きい道路には三台くらいの自動車が併走していますが,車線などありません。また,小さい路地からも自動車が突然飛び出してきます。フランスでは,如何なる場合にも右側の自動車に優先権があります。したがって,猛スピードで大きな道路を走る自動車の右に,路地からヒョイと別の自動車が現れるのです。結果として,すでに広場を走っている自動車は内側,内側へと逃げ込まざるを得ません。そのため,腕に憶えのある運転手が乗った自動車以外は,目的とする道から出たくても出られなくなります。信号のないところも多く,スピード制限もあってないようなところで,まさに “恐怖” の一語です。

人の身体は究極のダイナミックなシステムであるという場合,この比喩がピッタリだと私は思います。がん細胞を暴走する一台の“真っ赤なポルシェ”に喩えれば,このポルシェを想定して創られた分子標的治療薬は,確かにこのポルシェを追跡して捕り押さえることも可能でしょう。しかし,周りにいる多数の自動車の集団は,極めて複雑でダイナミックかつ不均一な複合系です。すなわち,1台のポルシェだけを捕り押さえることによって,コンコルド広場を猛スピードで出入りする多数の自動車の流れがまったく影響を受けない,つまり“副作用”がないという保証はどこにもありません。

よしんば副作用が深刻なものでなくても,すべてがもとのまま,すなわち,がんが完全治癒(根治)するという保証はありません。さらに,真っ赤なポルシェが,まるで “007の映画” のように,色を変え,形を変えて変身すれば(標的タンパク質の構造変異),分子標的治療薬にとっては,標的とする赤いポルシェが消えてしまったことになり,手の施しようがなくなります。

私がここで読者に語りかけようとしている点を理解していただくために,現在,世界で広く読まれているがんの教科書「R.A.Weinberg: The Biology of Cancer (Garland Science, Taylor & Francis Group, 2007);ワインバーグ:がんの生物学(南江堂,2008)」を取り上げてみます。開いてみると,がんに係わる生物現象が,見事なイラストによって縦横無尽に美しくギッシリと描かれています。“ゴメンナサイ!許してください!!”というほかありません。

極め付きは,付録(残念ながら,この付録は日本語版には付属していません )のPathways in Human Cancerです。A1サイズの巨大な紙面一杯に,がんに関わりをもって登場する膨大な種類の発がん遺伝子,がん阻害遺伝子,それらが発現するタンパク質群が,迷路のように錯綜した経路上に,押すな押すなとひしめきあっている様は,まさにコンコルド広場そのものです。がんを対象として分子生物学的研究がここまで進んだかと驚くと共に,“これはがんの治療に直接に繋がるものではないな”との思いは否定できません。“木を見て森を見ず”に陥るに違いないと考えるからです。私個人としては,このような研究路線が何時の日か,がんをこの世から駆逐し,人類に幸せをもたらすことを願うだけです。

この本を書く7年前,ワインバーグ自身が次のように告白しています。

現在のがん生物学およびがん治療は,科学とはいえず,細胞生物学,組織病理学,
生化学などのつぎはぎ細工である

ワインバーグの考えは7年が経過した今も同じではないかと想像します。少なくとも私自身の考えはすぐ前に書いたとおりです。

さらに付け加えますと,これらの研究成果の多くは,マウス,ラットなどを用いた動物実験の結果にその基礎をおきます。しかし,すでにお話しましたが,動物実験を用いる実験病理学の研究結果は,必ずしもヒトのがんに当てはまるとは限らないのです。


私は,ジャーデツキーの研究室に滞在して以来,40年近く構造生物学を信条としてきたが,薬剤の副作用一つを取り出しても,構造生物学では何の問題も解決できないと告白せざるを得ない。

清水博は,一貫して生命現象の本質を考え続けてきた。

東京大学を定年退官後,金澤工業大学に新設された場の研究所・所長,更に定年退職後,場のアカデミーを主宰して現在に至っている。清水博の学問は,宗教を巻き込んだ方向に移っていった結果,多くの人の理解を得られぬまま,現在を迎えている。天才・清水博にとって不幸なことである。残念である。清水博の退官記念誌の最終ページをここに掲載する。
a0181566_110388.jpg


中公新書として出版された『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』 (1990)には,生命現象解明にかける清水博の熱い思いが平易な言葉で綴られている。是非読んでいただくことを希望して擱筆する。








執筆  2011年4月26日

by yojiarata | 2011-04-26 12:50 | Comments(0)

NMR50年 Ⅰ



大学院の博士課程に進学した昭和35(1960)年頃,ふとした切っ掛けでNMR(核磁気共鳴分光法)と出会い,そのまま現在まで,NMRを友として50年過ごしてきた。

昨年,NMRの母体である日本核磁気共鳴学会がウェブ版として機関誌を発行,縁があって,卷頭エッセイ『創世記』を執筆した。

NMR学会会員のために書いたこの記事がより広い範囲の人々の眼に留まることを願い,若干加筆,修正を加えた上で,ここに掲載する。

なお,この記事の全ての内容は,あくまで筆者である私自身の個人的な見解であることをお断りしておきたい。


神々の時代


今から100年前,磁性物理学の研究で世界をリードしていたのは,ライデン大学を中核とするオランダである。低温物理学の祖である) Heike Kamerlingh Onnes (1853-1926)
a0181566_1757657.jpg
は当時,唯一液化が達成されていなかった“永久ガス”ヘリウムの液化に成功した。水銀,スズ,鉛などの金属が液体ヘリウム中で示す超伝導現象を発見したのも Kamerlingh Onnes である。

Kamerlingh Onnes の時代から1世紀が経過した現在,液体ヘリウムはNMRの測定に不可欠のものとなった。鉄道の高速化を目指して,超伝導状態を用いる“リニアモーターカー”も開発研究が進んでいると聞いている。

一時ブームとなった高温超伝導体の開発研究も先が見えない。少なくとも当面は,超伝導状態を作り出すためには液体ヘリウムに頼ることになるであろう。ちなみに,ヘリウムガスが地底から噴出しているのは,アメリカ,ロシアのほかは中国であると理解している。何もかも輸入に頼る日本で,ヘリウム が 第2のレアアースにならないことを願っている。

F.Bloch (1905-1983)と
a0181566_532578.jpg
E. M. Purcell (1912-1997)
a0181566_1875798.jpg
のグループが凝縮系のNMR現象の検出に成功したのは1946年のことである。

新しい発見にはしばしば,歴史の残る闘いがある。核磁気共鳴現象の発見についていえばC.J.Gortor
a0181566_5353583.jpg
 と

I.I.Rabi
a0181566_536247.jpg
 の確執はよく知られている。

因みにいえば,Nuclear magnetic resonance が最初に登場するのはGortor が L.J.F. Broar と共著で発表した“実験の失敗を告白する論文”Physica IX, 591-596 (1942) : Negative Result on an Attempt to Observe Nuclear Magnetic Resonance in Solids である。この論文には,Nuclear magnetic resonanceと命名し,最初に使ったのはRabi であると明記されている。公平無私な Gortor の人柄が偲ばれる。

NMRを化学と結びつける礎を築いたのは,物性物理学者である。ここでは,N.Bloembergen [1920-;ノーベル物理学賞受賞時の写真,筆者が当時購読していたPacific Stars and Stripes1981年10月21日付けより],
a0181566_5374196.jpg


久保亮五

a0181566_5383065.jpg
(1920-1995;NMR現象に関する最も重要な論文:Ryogo Kubo A General Theory of Magnetic Resonance Absorption J. Phys. Soc. Japan 9, 888, 1954) の名前を挙げるに留める。

Bloembergen がハーバード大学に提出した博士論文を基にしてPhysical Review (1948) に発表された歴史的論文は,共著者E.M.Purcell, R.V.Poundを含めた三人の名前の頭文字を並べて,後にBPP とよばれることになる。Benjamin から単行本として発刊されている博士論文(そのもの)
a0181566_2318086.jpg


と,“指導教官”Purcell によって加筆されたBPPを比較してみると大変に興味深い。優秀な学生の博士論文は,こうでなければならない。





つづく

by yojiarata | 2011-04-22 17:30 | Comments(0)

NMR50年 Ⅱ



日本におけるNMRの黎明期


電気通信大学UEC コミュニケーション ミュージアム 第7展示室 に1台の電磁石が展示されている。ウェブページに写真が掲載されているこの磁石が藤原鎭男,林昭一によって制作されたのは,電池通信大学開学当時の1949-1950年のことである。藤原鎭男林昭一はこの電磁石と手製の分光計を用いて,銅の核磁気回転比を測定,コバルトの原子核の共鳴周波数の値が化合物によって異なることを発見した。さらに,ヨウ素,フッ素,硫黄などについても 核磁気回転比 が測定されている。

その後,アメリカ・イリノイ大学 H.S.Gutowsky [ISMAR,1974,インドのボンベイ(現在のムンバイ)における講演]
a0181566_553429.jpg
の研究室に滞在し藤原鎭男は,帰国後,Gutowskyの研究室で稼動していた 27 Mc/sec(当時は,MHz ではなくMc/secが用いられていた)高分解能NMR分光計(永久磁石)をひな型として,同型のNMR装置を製作した。この装置を使って実験した多くの研究者が,電気通信大学から全国の大学や研究所に移ってNMRの研究を発展させた。

昭和30年代の初め,毎週土曜日の午前中,電気通信大学で少人数の研究会が開かれていた。主催者は藤原鎭男,幹事は清水博

清水博は,
a0181566_5544649.jpg
東京大学大学院博士課程に在学中,その後のNMRの歴史に残る重要な論文をいくつも発表している。その中に,20年後に出現したTROSY の原点となる論文 H.Shimizu Theory of the dependence of muclear magnetic relaxation on the absolute sign of spin-spin coupling constant J.Chem.Phys. 40, 3357 (1964) が含まれている。

当時,スピン結合定数の絶対符合の決定に熟慮を重ねていた清水は,化学シフトテンソルと双極子相互作用テンソルのクロスタームが緩和にどのように影響するかを解析するかによって,絶対符号が決定できるはずだと考え,思考を進めたが問題の解決に至らなかった。しかし,この論文で詳細に議論された化学シフトテンソルと双極子相互作用テンソルの交互作用テンソルの緩和への寄与のなかに,20年後のTROSY 法開発の源流があった。この点については,スイスで開かれたスイス・日本の小さな会で私が指摘し,K.Wuthrich もその通であると認めている。

研究会の出席者は西岡篤夫中川直哉林昭一などの方々であった。筆者は清水幹事の紹介でこの会のメンバーに加えていただいた。この会は,新着論文の紹介,世界におけるNMRの動きなどに関する自由で楽しい雰囲気の勉強会であった。

つねに積極的に発言し,数式の物理的意味をトコトン問いつめ,全体を引っ張っていたのは幹事の清水博である。駆出しの筆者は,研究とは何かについて清水博から,一言では言い表せない多くのことを学んだと思う。

あの頃,中川直哉の逆転の発想にはしばしば感心させられた。中川直哉は,重い原子,例えばヨウ素が分子内に存在すると,化学シフトへの相対論的な効果が重要になると主張していた。半信半疑のままでその場は終わったが,中川直哉の業績は,現在では化学シフトにおける相対論的効果として世界で広く認められている。

1961年11月24日(金)-25日(土),「高分解能核磁気共鳴の化学への応用 第1回討論会」が日本化学会講堂で開催された。電気通信大学のNMR研究会で藤原鎭男,清水博が提案したと記憶している。要旨集の作成などは清水博が全て担当した。この討論会は,第2回以後は「第xx回NMR討論会」の名の下に現在まで続き,2011年には,第50回(横浜)を迎える。
a0181566_556859.jpg

第1回討論会の講演要旨集の目次(清水博の自筆)
a0181566_5564758.jpg
a0181566_5575134.jpg
a0181566_5582583.jpg
を見ると,当時,NMRに興味をもっていた研究者の多くは有機化学者であったことがわかる。

筆者は,優秀な有機化学者の直感にはつねに最大限の敬意を払っている。有機化学者のなかでも,筆者の記憶に鮮明に残るのは,近代NMRの誕生を待たずに他界した通和夫
a0181566_5592995.jpg
である。“ビラ”全面に描かれた山のような化合物を見ていただきたい。スライドもパワーポイントもゼロックスも何も無い時代である。近代NMRを縦横に駆使する通さんの活躍ぶりを見たかったと懐かしくも惜しんでいるのは筆者だけではあるまい。





つづく

by yojiarata | 2011-04-22 17:20 | Comments(0)

NMR50年 Ⅲ



蛍雪の功


J.D.Roberts の著書  Nuclear Magnetic Resonance APPLICATIONS TO ORGANIC CHEMISTRY ( McGRAW-HILL BOOK COMPANY, 1959) は,
a0181566_5423520.jpg
開いた途端,ブルブルっと電気が走った。筆者が電気通信大学で助手に採用された20代中頃のことである。僅か118ページの小冊であるが,世の中にこんな世界があったのかと感動し,毎晩,夜の更けるのも忘れて何度も繰り返し読んだ。説得力のある図,
a0181566_5433012.jpg
明快な記述!! わが青春のNMRが感動とともに始まった。

何と言っても素晴らしいには,難しいことを易しく説明することに細心の注意が払われていることである。J.D.Roberts は,自分は物理化学がわからないから,V.Schomaker と H.M.McConnell に食いついて,何度も何度も執拗に納得いくまで質問したと書いている。素晴らしいセンスの持ち主である有機化学者が著わしたこの傑作は,NMRの歴史に何時までも残るであろう。

時を同じくして出版された J.A.Pople の著書 J.A.Pople, W.G.Schneider and H.J.Bernstein: High-resolution Nuclear Magnetic Resonance ( McGRAW-HILL BOOK COMPANY, 1959) (501ページ)
a0181566_23221581.jpg
もまた素晴らしい。J.D.Roberts の一歩先が見事にまとめられている。とくに,原理,測定法,化学シフト,スピン結合,緩和,化学交換と線形と続くPart 1 PRINCIPLES(全230ページ)は今もなお新しく,きわめて有用である。これらの事柄について,これだけコンパクトに書かれたものはこれまでに無く,これからも出ないのではないだろうか。例えば,生体系のNMRに忙しい毎日を送っておられる方々も,一度は目を通されてはどうだろうか。

Part 2 APPLICATIONS は,さすがに古いが,掲載されているスペクトルをボンヤリ眺めて,過去50年のNMRの進歩の道程を振り返ることも無駄ではない。とくに,プロトン以外の核(当時は“他核”とよばれていた)に関する記述は興味深い。その頃,C -13 NMRのスターであり,つねに学会の先頭を走っていたP.C.Lauterbur(そうです。皆さんがよくご存知のあの方です。)によって測定された酢酸,ベンゼンなどいくつかのスペクトルは美しくもあり,おかしくもある。

8.5 Mc/secで測定されているが,Lauterburは“多くの化合物では,C-13 の緩和時間が,場合によっては,分のオーダーに達するため,分散モードで速い掃引を行って測定した”と書いている。ともあれ,この著書から学ぶところは今も多い。

A.Abragam (1961),C.P.Slichter (1963)など物理学者の手になる教科書が次々に出版された。

Abragamの教科書は,東京工業試験所(東工試,東京都渋谷区初台,当時)の山本修の研究室で輪講した。出席者は藤原譲(藤原鎭男と姻戚関係はない),山本毅雄(藤原研,当時)ほかの方々であったと記憶している。Abragamの教科書は難解をきわめ,長期間かけたが遅々として進まなかった。筆者は,自分自身でも深夜まで挑戦したが,「第12章 遅い分子運動の場合」は難攻不落,ついに挫折,未だに後悔している。今にして思えば,オランダ語のできる前野良沢などと組んで 『ターフェル・アナトミア』 (ドイツで出版された書物のオランダ語訳)を日本語に置き換える作業をしながら,ああでもない,こうでもないと苦しんでいるうちに日が暮れて,ただあきれにあきれて居たるまでなりと書き残している杉田玄白の心境であった。[⇒ 『冬の鷹』(吉村昭,新潮文庫,1976)]
a0181566_1038959.jpg


負け惜しみと聞こえるかもしれないが,測定に使う時間が非常に限られていたあの頃,教科書,総説,原著論文など,手当たり次第,時間をかけて心ゆくまで読み,考えることができたのは幸いであった。最近の学生諸君の勉強は,時間がないせいか,原著ではなく,総説や教科書からの「孫引き」で終わってしまうことが多いように感じている。

横道に逸れ,また大変に失礼かとは思いますが,DNAのダブルへリックス・モデルの原著論文を読まれたことがありますか。重箱の隅を楊枝でほじくるようですが,この論文にはG-Cペアの間の水素結合が2本しか描かれていません。この点に関しては,J.D.Watsonが後に,The Double Helix (Atheneum, 1968, p. 195)に短いコメントを書いています。

なお,“1本足りない”ことを最初に指摘したのは他ならぬ L.Pauling である。Watson,Crickとの先陣争いを繰り広げたPaulingは,リン酸が内側,塩基が外側にある3重らせん構造を発表して闘いに敗れた。Paulingはこの敗北を終生忘れることがなく,夫人によくこぼしていたようです。この図に添付してあるように,他界したその年(1994年),アメリカ化学会のインタビューに答え,
a0181566_10433074.jpg
そんなに大事なことだったのなら,何故もっとがんばらなかったのかと妻に問いただされた。大変もっともな意見だと自分も思う。
と述べている。

Abragam の教科書で今でも印象に残っているのは,前書きに書かれた次の一行である。“著者は久保亮五の論文には大きな影響を受けた。余りの重要さのため,本書では文献のリストには引用していない”。もしできるなら,このような論文を自分も書きたいものだと思った。

NMRの素晴らしさに魅了されたが,問題は,NMR 装置は恐ろしく高価で,現在のように何処にでも転がっているようなものではなかった。NMR を愛してしまった人々の苦しみが始まることになる。

東京とその近郊では,日本原子力研究所(原研)(山口一郎,早川直宏),東工試(額田健吉,山本修)の2箇所で,NMR装置が稼動していた。原研の装置は当時の最新鋭機(56.44 Mc/sec)であった。いずれの場合にも,平均して1ヶ月に1回の徹夜の時間をいただいた。早くスペクトルを見たいというチンピラの筆者に,辛抱強く対応していただいた山口さん,早川さん,額田さん,山本さんに,今頃になって遅いのですが,心から御礼申し上げます。

原研で測定したサンプルの中にサントニン(誘導体)
a0181566_5465725.jpg
があった。今考えると信じられないような高濃度で測定したが,測定結果は大変満足すべきものであった。現代人には信じてもらえないと思うが,1970年代 初頭までは,1%エチルベンゼンを用いて表示した S/Nは,最初は5-6,次第に良くなって,50-60(いずれも磁場スイープ)であった。

この頃より,NMRは有機化学を舞台に大きく発展していく。





つづく

by yojiarata | 2011-04-22 17:16 | Comments(0)

NMR50年 Ⅳ



IUPAC 国際天然物化学会議 (1964年,京都)


1964年4月12日-18日,有機化学の世界でNMRが独り立ちしたことを示す国際会議が京都で開催された。

筆者が参加した初めての国際会議であった。最近は,自分に関係のある講演をチョコッと聴いて姿を消す人の少なくない残念な時代になったが,新米の筆者は,耳を澄ませ,目を輝かせて,寸刻を惜しんで,またとない機会に密着,聴講した。一見自分に関係のない講演が,自分のつぎのアイディアになるのはよくあることだ。全体を取り仕切った中西香爾(コロンビア大学)の素晴らしく流暢な英語に大いに感心し,子供の頃に覚えた軍歌の一節“今に見ていろ,僕だって”を思い出していた。

会議は聞くもの,見るもの何もかも新しく輝いていた。今にして思うと,駆け出し時代に味わったこの感動と興奮がその後の研究生活の原動力となった。研究とは感動と興奮だと思う。

とくに印象深いセッションを一つだけ挙げよと問われれば,筆者は躊躇無く 「テトロドトキシンの構造に関するセッション」 と答える。

テトロドトキシンの構造決定に関しては,著名な3研究室の先陣争いが世界の注目を集めていた。超満員のこのセッションは,平田義正(名古屋大学),津田恭介(東京大学),R.B.Woodward(ハーバード大学)の3人が登壇して,独立に行った構造決定の結果を報告した。提出された構造は三者とも同一であった。
a0181566_1719318.jpg


同じセッションに登壇したH.S.Mosher (スタンフォード大学)は,カリフォルニア・イモリ (Taricha torosa) の毒が,まさに,テトロドトキシンと同一であることを示した。この研究結果は,テトロドトキシンがマフグ科のふぐだけに存在するものではないことを初めて示した重要な研究であった。

講演で面白いと思ったことはいつまでも記憶にある。Woodward のマフグ,トラフグの発音(筆者には大変ユーモラスに聞こえた),Mosher が映したカリフォルニア・イモリの毒々しい写真は今も記憶に残っている。

肝心な場所に存在する 4級炭素 などによって構造決定は困難をきわめた。可視・紫外,赤外は何の役にも立たなかった。言うまでもなく,特定の元素を取り出して見ることが出来ないからである。実際,構造決定は,分解産物を丹念につなぎ合わせる伝統的なやり方で行われた。

電気通信大学に在籍していた筆者のもとを,津田恭介のグループから太刀川隆治(三共,当時)が訪ねてきた。学会の前の年だったと記憶している。競争が激烈であったためか,構造が何処までわかっているかを筆者にも伏せたまま,この部分構造はNMRの結果と矛盾するかなど,意見を求められ当惑した。その上,測定に用いたのは,電気通信大学の 27Mc/sec 分光計であった。

結局,NMRだけでは結論に至らず,最終的にはX線結晶解析によって構造が決定された。これは,今に至るも続く永遠のテーマ,「NMR か X線 か」の言わば原点であったような気がする。

テトロドトキシン・後日談

1972年,岸義人(ハーバード大学)が D, L-テトロドトキシン(ラセミ体)の全合成に成功した。2003年には磯部稔・西川俊夫(名古屋大学)らと J. Du Bois(スタンフォード大学)が独立に初の不斉全合成を達成している。

1970年頃を境として,パルスフーリエ変換法,超伝導磁石の導入によってNMRは急速に変貌を遂げる。スタンフォード大学医学部薬理学教室のO.Jardetzky
a0181566_172132.jpg

第1回ISMAR,東京,1964年,威風堂々,物凄い貫禄で周りを圧する Jardetzky (当時30代後半だったはずである)


1970年代のはじめ,Jardetzkyの研究室に滞在していた筆者は,装置が電磁石(100 MHz,1971年)から超伝導磁石(270 MHz 続いて 360 MHz)(1972-1974年)に移行する“遷移状態”の場に立ち会う得がたい経験をした。CWであった装置にも,すぐにパルスフーリエ変換法が取り入れられた。

1987年8月26日(水),27日(木),28日(金)第29回天然有機化合物討論会が札幌市民会館で開催された。この討論会は,天然物に関するきわめてレベルの高い学会であることで知られる。この会で,村田道雄を中心とする東北大学のグループが新しいNMRの技法を駆使して得た見事な研究成果を報告している。

32 イモリのテトロドトキシン新誘導体について
四津まり,村田道雄,安元健(東北大・農),
直木秀夫(サントリー生有研)
第29回天然物有機化学討論会要旨 29,240-247(1987)


国立情報学研究所 CiNii のウェブページには,第29回天然有機化合物討論会講演要旨集の本文全部がPDFとして公開されていて,誰でも読むことが出来る。
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN00154136/ISS0000422026_ja.html
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006678644

テトロドトキシンのその後については,次の総説が興味深い。

化学と生物 Vol.21, No.10, 678-687 (1984)
http://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=kagakutoseibutsu1962&cdvol=22&noissue=10&startpage=678

こうしてみると,日本核磁気共鳴学会も,(第1回から現在までの)講演要旨集の電子化などを急いで進める必要性を感じる。






つづく

by yojiarata | 2011-04-22 17:14 | Comments(0)

NMR50年 Ⅴ



コンピュータの時代


NMRスペクトルの解析などには,最初,タイガー計算機(1999年4月13日撮影,1960年代中頃の価格は3万5千円)
a0181566_1048339.jpg
を用いた。ある日曜日,1日中ガラガラ回して下宿中から非難の雨を浴びた。最小自乗法による ABC スピン系のスペクトル解析には,2個の 3x3 のマトリックスの対角化,1個の6元連立方程式の解を求める必要があり,最終結果に到達するまでに,タイガーでは何週間もの時間を要することもあった。最初に設定したパラメーター(化学シフト,スピン結合定数)が不適当であれば,最小自乗法による計算は収斂しない。泣く泣く,パラメーターを設定し直して再びタイガーをガラガラ 廻す。高磁場の時代に生きる現代人に,ABCスピン系のスペクトル解析があの頃,如何に重要であったかを理解いただくことは困難だと思う。

ちょうどその頃,東京大学理学部物理学教室で,(右)高橋秀俊(1915-1985),(左)後藤英一(1931-2005)
a0181566_13154585.jpg
によってパラメトロン電子計算機PC-1(残念ながら,写真が一枚も残っていない)が完成し,夜の9時から朝の9時までの12時間,理学部内の研究室に公開された。PC-1のおかげで,一晩の徹夜でABCスピン系の解析が可能となった。大感激であった。パラメトロンを後藤が発明したのは大学院学生の時である。24ビット256語,プログラム,データはすべて紙テープに移し,ガチャガチャと鳴り響く機械読みリーダーで入力した。これは大変な作業である。まずプログラム(当時はアセンブラー登場以前であり,何日も辛抱しながら機械語で書いた)を入力したあと,データのテープを読み込ませる。途中でテープがちぎれる悲劇にもしばしば見舞われた。余りのショックに足取りも重く,徹夜明けの下宿に引き上げるのみ。

大学紛争の頃,夜中に目が覚めて,学生の吹くピッピッという音が耳について眠れなくなるとポツンと洩らされた大先生がおられた。筆者には,あのガチャガチャの音がそれに相当するかもしれない。ただし大先生の場合と違って,ガチャガチャは懐かしくも心地よい響きをもつ子守唄であった。

ここで,どうしても書いておきたいことがある。それは高橋先生の寛容さである。筆者は高橋先生には足を向けて眠れない。当時,PC-1は日本でたった一台しかない,先生にとっては文字通り“虎の子”の財産であったはずである。その虎の子を,1週間を通して夜間12時間にわたって,個人的には会ったこともない学生,研究者に開放したのである。先生は,“これは国から援助をいただいて作った国の財産です。開放するのは当然のことです”と言っておられたという。言うは易しく,行うは難いことである。

目が飛び出るような高額の機器を山のように並べて抱え込み,外部には一切公開しなかった御仁を筆者は知っている。高橋先生の爪の垢を煎じて飲んで欲しかったが,今や手遅れである。

“T2が短く,FIDがすぐ消えてしまって困っています。何とかならないでしょうか?”と高橋先生に質問したことがある。先生は問題の所在を直ちに理解され,仙人のように厳かに,“君,もともと情報が無いのだからダメですよ”とおっしゃった。

その後,PC-2
a0181566_13163031.jpg
に進化した高橋研の電子計算機(24ビット1024語,すなわち1K語)には,スーと音も無くテープを読み込むフォトリーダーが使われていた。スーと音も無く読み込みながら,途中でテープが絡まることもあったが,これには本当に感激した。計算速度も上がり,「計算=徹夜」の概念から開放された。この間,高橋研のスタッフの皆さんには何から何までお世話になった。何を今頃になってと言われるかもしれませんが,有山さん,石橋さん,お名前を忘れてしまった大勢の方々,本当に有難うございました。

やがて,装置に専用に附属する専用のミニコン
a0181566_14581224.jpg
の時代になった。テキサス・インスツルメンツの 980A,980B,続いて,コンピュータ全盛の時代になった。お金持ちの時代になった今,利用者は何も考えないで,コンピュータの命令に従って動く(動かされる)時代になった。

吉田富三(東京大学医学部病理学教室,1903-1973)
a0181566_19564760.jpg

(左) 吉田富三(32歳),(右) 長男・吉田直哉(4歳)(元NHK チーフプロデューサー)日本癌学会山極賞受賞に際して(昭和10年4月);生前,吉田直哉より掲載の許可を得た。

のことばをふと思い出すことがある。

だいぶ前の事だが,アメリカのある研究所で,見事な機械が揃っているのを見せられてそれを感心すると,案内してくれた若い研究者が,僕は毎日これらの機械の間を往復しているだけで,何も考えない,考えることを機械が許さないのですよ,という意味のことを言った。私はハッとしてその男の顔を見直し,アメリカにもいい若い人が居るな,と思ったのを覚えている。

[→ 吉田富三『随筆集 生命と言葉』(読売新聞社,1972,253ページ,現代仮名遣いに改めた]


来し方,行く末


NMRの世界では,より高い磁場,より感度の高い検出法が求められていた。1970年代の半ばになって,NMRは有機化学を越えて生化学の世界に浸透しつつあった。

生化学者から質問が飛ぶ。“我々はマイクログラム,ナノグラムを相手にしているのに,君たちはミリグラムあるいはそれ以上を相手にしているではないか。我々にとっては,気の遠くなる量である。君たちは一体何を考えているのだ!”

福岡大学で1977年に開催された生化学会(1977)で筆者が使ったスライド
a0181566_1354355.jpg
をご覧いただきたい。“今後,装置の強大化,高額化の波が押し寄せてくる,どうすべきか困惑している”と述べた筆者に対して,それならその流れに乗ればよいではないかとおっしゃった方がおられた。その方は後に大金持ちになられた。

大勢の出席者を集め続いていた 「赤外・ラマン討論会」 は次第に勢いを失い,構造化学討論会に合併吸収され,やがて分裂・消滅した。日本化学会年会でも,物理化学のセッションには必ず NMR,ESR の発表があったものだが,やがて,磁気共鳴のセッションに併合され,今ではほとんど消滅した。

しかし,NMR は違う。NMRは可視・紫外分光法,赤外・ラマン分光法とはその性格を全く異にする。すなわち,分子全体を見るのではなく,分子の中の個々の原子を1個ずつ手にとって見ることが可能な稀有な方法である。

有機化学者が出会って興奮し,全力でその可能性を拡大していったNMR は今や,タンパク分子中の特定のアミノ酸残基のどのH,13C,15Nであるかを帰属し,その周辺の静的,動的構造に光をあてることのできる究極のスペクトロスコピーに成長した。

思えば,筆者のNMR人生は,我が愛するドンキホーテの生きざまそのものであった。
a0181566_1349427.jpg
敵わぬ相手に挑戦しては跳ね返されるドンキホーテ
a0181566_15135158.jpg
は本当に素晴らしい人物である。

これからの日本を背負っていく若者は,感動と興奮と粘着力を持って,結果を恐れず猪突猛進してほしいのです。古ぼけた,カビの生えたようなことをいうな,と額に皺を寄せないでください。期待すればこそです。もう一度いいます。若いドンキホーテが大勢出て来ることを熱望しています。

文中,引用した方々のお名前には,失礼とは思いましたが,敬称を省略させていただきました。お許しください。


結びに,古い任侠映画から:

古い不器用な奴だとお笑い下さいまし。ただあっしには,
これしかできないんでござんすよ。
鶴田浩二(1924-1987)






by yojiarata | 2011-04-22 17:02 | Comments(1)

Ecology Now



1971年1月,アメリカ・カリフォルニア州パロアルトに到着。それから2年間,スタンフォード大学医学部薬理学科のオレッグ・ジャーデツキー教授の研究室に客員助教授として滞在した。

アメリカ滞在の2年間の間に,満足すべき研究成果は得られなかったが,その一方で,アメリカを含めた西欧先進国の文化についてかけがえのない多くのことを学んだ。

1) エコ ロジー

最初に住んだアパートの駐車場で Ecology Now のステッカーを貼った自動車を見た。今では誰一人として知らない人のない エコロジー(エコ) なる言葉を知ったのは,この時が最初である。

しかし,今振り返ってみると,この大学では エコ どころではなかった。実験に使った後の溶媒のベンゼンを何処へ捨てるのか同僚(大学院学生)に聞いてみると,ここと言って流しを指差した。日本では既に,廃液の処理が問題になり始めていたので,同僚に,そんなことをしていると貴殿の大切な大地が汚染されるではないかといってみたが,彼氏はそんなことは考えたこともないと悠然としていた。

駐車場の自動車の持ち主はどのように考えて,あの巨大なステッカーを貼ったのか聞いてみたかったが,結局その機会を逸してしまった。

あれから40年以上が経過し,アメリカ大統領の掛け声の下,地球の汚染に政治的な配慮が払われ,それが雇用の創出に繋がっている。

2) 英語の表現

筆者は,大学院学生の頃から英語に興味をもち,自分では人並みに英語ができると思っていた。これは全くの思い違いであることをすぐに気が付いた。今思えば,当たり前のことであるが,英語に限らず言葉は生きている。

倉石武四郎 『中国語五十年』(岩波新書,1973)

平野敬一 『マザー・グースの唄 イギリスの伝承童謡』(中公新書,1972)

カンザス出身のスタン,現在テキサス大学の生化学の教授をしているキャッシー,レバノン生まれ,ハーバード大学出身のラジャには,毎日のように,生きた英語を教わった。彼らも,基本的には英語ができるけれど,生きた英語が全く駄目な小生に,喜んで付き合ってくれた。

思い出したので,余事ながら付け加えておくと,実験室や廊下を裸足で歩き回るキャッシーに,危ないから止したほうがといってみたが,全く,われ関せずであった。

「わが英語の先生方」から学んだことは数知れないが,ここでは,ほんの少しだけ書く。

Presumably

研究室のミーティングで,Presumably は何度も聞くのだが,自分の理解としては,Presumably が probably, possibly とどう違うのか全く解からないのには当惑し,先生方に質問を繰り返した。

例えは,英和辞典で,Presumably をひいてみるとよい。

adv 思うに, たぶん (probably).
The report is presumably correct. その報道はおそらく正確であろう.

presume の項には,推定する,思い込む,【法】《反証がないとき》真実と推定する。想像する,・・・と思う,考える。想定[仮定]する, 含意する

[株式会社研究社 リーダーズ+プラスV2]

これでは何のことか,理解不能である。研究室のミーティングで,あるポスドクが,presumably ・・・ と発言する。別のポスドクが直ちに,

There is no reason to presume, Jim.!

切り返す。この国では,年功序列という概念は研究の場にはない,大げさに言えば闘わなければ生き残れないのである。

何度も先生方に食い下がった結果,私が遂に納得できたのは,キャッシーの次の説明である。


ある会社の重役である女性(当然,毎日出勤して重役室にいる)に関する問答を想定。

Presumably she is in her office at the present time.

But I don't know how probable this is.

Because it is possible that she is temporarily out of her office to meet some other person.


Yes か,No か

貴殿は,これが一体何だかわかるでしょう?
You know what this is.

はい,わかりますよ。
Yes, I do.

いいえ,わかりません。
No, I don't.

つぎに,

貴殿は,これが一体何だかわからないでしょう?
You don't know what this is.

肯定するなら,日本語では,はい。解かりません。
英語では,No. と答えなければばらない。

つまり,日本語では,肯定,否定と並ぶことが許されるが,英語では,否定の次は否定が続き,
No, I don't.でなければならない。

逆に,わかりますよ,と言いたければ,
日本語では,いいえ,わかりますよ
英語では,Yes, I do.となる。

更に厄介なのは,

貴殿は昨日彼女に会わなかったでしょう?
You did not meet her yesterday?

はい,会いませんでしたよ
No, I did not.

いいえ,会いましたよ。
Yes, I did.

一言で言えば,英語では,

Yes の後には肯定の文が,No のあとには否定の文が続かねばならない

つまり,

Yes, I did not.

No, I did.

とは決してならないのである。

映画 『告発の行方』(1988)に次の会話がある。事件の現場にいた学生ケンに,裁判で証人に立つことを依頼する弁護士キャサリン。ケンが,友人の身を守るため,断ろうとする場面。

ケン:僕は現場にはいなかった。I was NOT there at that time.

キャサリン:いいえ,貴方はいました。Yes, you WERE!


当たり前のことをクドクド書くなと仰る方は,実践で腕を見せて欲しいと思います。
by yojiarata | 2011-04-17 18:11 | Comments(0)