以下,抗がん剤の名称,キーワードといえる重要な概念などは,文中,赤字で表示します。
そもそも,薬という概念が歴史に登場するのは,いつ頃でしょうか。
中国最古の薬物書として「神農本草経」が知られています。本草とは今で言えば生薬のことで,この本には365種の薬物が記載されています。後漢から三国時代に当たる,1世紀から3世紀頃までに編纂されたと考えられています。神農(しんのう)というのは中国の古代伝説上の存在で,百草を嘗めて効能を確かめ緒人に医薬と農耕の術を教えた神とされています。
「神農本草経」を編纂した実在の人物というわけではありませんが,中国文明発祥の時から,薬というものの存在は意識されていたということなのではないかと思います。
また,メソポタミアでは,B.C.3000年頃には,芥子(けし)が栽培されていたことを示す記録が出土しています。ギリシャ時代になると,その樹液から得られたアヘンが鎮痛剤として用いられていました。西洋医学の祖とされるヒポクラテスは,セイヨウシロヤナギの樹皮を熱や痛みを和らげるために,また葉は分娩時の痛みの軽減に用いていたと言われています。そうすると,なぜ効くかということはともかく,古代文明発祥の時から薬というものの存在は認識されていたのだろうと考えます。
余談ですが,セイヨウシロヤナギの示す鎮痛作用の本体は,19世紀に入ってからサリチル酸であることが明らかにされました。サリチル酸で問題となっていた胃腸障害を軽減した鎮痛剤としてアセチルサリチル酸がみいだされ,アスピリンの商品名でバイエル社から発売されたのは,1899年です。
荒田
【シスプラチンは,1845年にイタリアの化学者ミケーレ・ペイローネ(MichelePeyrone,1813-1883年)により錯体の研究材料として合成され,「ペイロン塩(Peyrone's salt)」とよばれた。
荒田 抗がん剤全般については,如何でしょうか?
春山
抗がん剤の開発の歴史を網羅的に語ることは,私の能力を超えますので,私自身,抗がん剤の進化のマイルストーンとなったと考えている代表的な薬剤について時系列的に述べることによって,いささかなりともご質問の回答になるよう努めたいと思います。
シスプラチン の発見の経緯は先ほど引用されたネット上に書かれている通りです。その抗がん効果は,DNA上で近接するグアニン残基同士を化学的に架橋することによって,細胞分裂を停止させることに由来します。
同じように,DNA鎖を架橋することによって細胞分裂を停止させる薬物にシクロフォスファミドがありますが,この薬物の起源をたどれば,第一次世界大戦中に毒ガスとして開発されたマスタードガスに行き着きます。
開発時期が白金製剤と同じ頃の他の薬剤の例をもう少し示しましょう。例えば,急性骨髄性白血病の標準治療に用いられているシタラビン(商標名 キロサイド,以下,カッコ内に商標名を記します)はヌクレオシドのアナログで,DNA鎖中に取り込まれたところで,複製中のDNA鎖の伸張が停止します。また,パクリタキセル(タキソール)は,微小管を安定化させることで微小管のダイナミクスを抑制し,正常な細胞分裂の進行を妨げます。 化学療法剤,分子標的薬,免疫チェックポイント阻害剤
● 化学療法剤 20世紀中に開発・上市された抗がん剤は,作用点は異なっても,細胞分裂を停止させるという点では,共通の機構によって抗がん効果を示す薬剤でした。これらの薬剤は,現在でも臨床で用いられていますが,次に述べる分子標的薬との対比において,化学療法剤とよばれています。 【荒田注,上市(じょうし),新製品を初めて市場に出すこと。[広辞苑第六版]】
● 分子標的薬 遺伝子操作技術が医薬品の探索研究に本格的に導入されたのは,1980年代になってからだと思います。その成果の一つとして,細胞増殖シグナルの分子機構の詳細が解明されました。正常な細胞増殖は,生物の発生・分化に重要な役割を果たしていますが,がん化した細胞では,遺伝子変異により,増殖シグナルが常にオンになっています。この無秩序な増殖シグナルを遮断することにより,抗がん作用を示す薬物を分子標的薬といいます。二つの例を示します。
最初に紹介したいのは,ハーセプチン(一般名;トラスツズマブ)です。ハーセプチンは,受容体型チロシンキナーゼに属するHer2 タンパク質を認識する抗体医薬で,1992年から臨床開発が開始され,FDA 承認は1998年,日本では2001年に,「HER2過剰発現が確認された転移性乳がん」に対する治療薬として承認されました。Her2 は1986年に,ヒト上皮細胞成長因子受容体に類似の受容体型チロシンキナーゼとしてクローニングされました。
一般に,受容体型チロシンキナーゼに属するタンパク質は,共通の機能部分から構成されています。細胞膜を貫通する形で存在していて,細胞の外表面から突出した部分は外部刺激を受ける部分で細胞内の部分は,タンパク質にリン酸基を付加する酵素活性(キナーゼといいます)をもっています。休止状態では単量体として存在していますが,外部刺激に反応して二量体を形成します。二量体化が引き金となって,キナーゼ活性が惹起され,細胞質内の特定部位に存在するアミノ酸のチロシンがリン酸化されます。チロシンがリン酸化されると,まるでドミノ倒しのように一連のキナーゼの連鎖反応が開始され,細胞増殖が引き起こされることになります。
乳がん患者,あるいは胃がん患者の約2割で,がん組織におけるHer2の過剰発現,恒常的な活性化が観察され,ハーセプチン はこのような患者に対して有効です。
ハーセプチン は,抗体分子ですので,標的細胞の細胞表面部分に結合することによって,細胞内への増殖シグナルの伝達を遮断します。一方,低分子医薬の場合には,細胞の中に入って,細胞増殖に関与しているキナーゼの連鎖反応を阻害することが可能です。
そのような例として慢性骨髄性白血病の治療に用いられているグリベック(一般名;イマチニブ)を紹介します。1998年から臨床開発が開始され,欧米で2001年に承認を取得しました。日本では,慢性骨髄性白血病等を効能として2005年に承認・上市されました。
白血病には幾つかの種類がありますが,慢性骨髄性白血病は成人白血病患者の15~20%を占めています。比較的ゆっくり進行しますが,平均4年程度で急性転化期に移行し,予後不良となります。慢性骨髄性白血病患者の骨髄細胞にはフィラデルフィア染色体とよばれる異常な染色体が観察されることが,既に1960年に報告されていました。
1973年には,フィラデルフィア染色体が,後天的な9番染色体と22番染色体の転座によって生じ,結果としてBCR/ABL融合タンパク質が生成されること,そして,この異常染色体は慢性骨髄性白血病患者の95%に観察されることが明らかになりました。
化学療法剤については,対象となるがん種を示していませんでしたが,分子標的薬についての説明では,対象となるがん種を明示しました。その理由は,がん化を引き起こすキナーゼの異常は,がん種ごとに異なっているからです。一対一対応というわけではありませんが,細胞増殖に係わる,どのキナーゼの変異が,どのようながんを生じさせるかということは,昨今の遺伝子解析技術の進歩とともに詳細があきらかになってきています。
最近では,特定の細胞のがん化を引き起こす遺伝子変異は,ドライバー変異とよばれていますが,分子標的薬の探索研究においてドライバー遺伝子の特定は重要な出発点です。それと同時に,個々の患者さんがどのような遺伝子変異を有しているのかということは,抗がん剤選択の重要な手がかりとなっています。
ヒトを含む動物の体内に侵入した細菌やウイルスなどの病原体は,異物(=自己の体を構成する細胞や組織ではないもの,非自己)として認識され,免疫機構により排除されます。
大学院を終えて製薬会社に就職した1980年当時,私にとって免疫学は,何の脈絡もない現象論の集積でしかなく,途方にくれるばかりでしたが,この状況は,免疫学への遺伝子操作技術の適用によって大きく変化しました。
1990年代に入ると,免疫現象に関与する多彩な細胞を秩序立てて分類し,免疫現象を免疫細胞表面の受容体とリガンドの相互作用で説明することが可能になったからです。
この学問分野を分子免疫学といいます。自己,非自己の識別機構の理解も,分子免疫学の進展により深まりました。そのような成果の一つが,今日,T細胞活性化の共刺激モデルとよばれるものです。
共刺激モデルとは,異物排除の主役であるT細胞(リンパ球の一種です)が細胞障害活性を獲得するには,異物の存在を示すシグナルに加え,共刺激とよばれる追加のシグナルが必要とされるというモデルです。
共刺激には,活性化を促すシグナル(正のシグナル)と抑制するシグナル(負のシグナル)の両方があり,T細胞が活性化されるためには,二段階目で正のシグナルを受け取る必要があります。逆に,負のシグナルを受け取るとT細胞の活性化は起こりません。T細胞が成熟していく過程では,自己を誤って認識して障害する不良品のT細胞が生成する可能性があり,これらを徹底的に取り除く仕組みが別に存在しています。それでも,最終段階において,「攻撃してよいか」の見極めをする仕組みといえることから,免疫チェックポイントとよばれています。
共刺激モデルは,がん細胞が免疫機構によって異物として排除されない理由も明らかにしました。がん細胞に共刺激モデルを当てはめた場合,負の共刺激シグナルの伝達に関与していたのは,がん細胞表面に発現しているPD-L1,PD-L2というタンパク質とT細胞上のPD-1とよばれるタンパク質との相互作用でした。この相互作用により,せっかくT細胞が,がん細胞を発見しても,最終段階で攻撃中止のシグナルが送られてしまうことになります。この機構の解明には日本の研究グループが大きな貢献をしています。PD-1 は,1992年に京都大学・本庶佑教授 の研究室で発見され,その機能の解明も同研究室で行われました。
この成果を受け,小野薬品は,本庶教授と共同で抗PD-1抗体の研究開発に着手しました。免疫チェックポイントにおける負のシグナルを阻害し,T細胞の細胞障害活性を高めようという戦略です。その結果,誕生したのが,2014年に根治切除不能な悪性黒色腫の治療薬として承認を取得した オプジーボ(一般名;ニボルマブ)です。オプジーボは,世界初の免疫チェックポイント阻害剤として上市されました。現在,抗PD-1 抗体医薬としては他に一剤が日米欧で上市されています。
抗PD-L1 抗体としては3剤が上市済みですが,日本で上市されている抗 PD-L1 抗体は バベンチオ(一般名;アベルマブ)の一剤のみです。また作用機序は多少異なりますが,抗CTLA-4 抗体であるヤーボイ(一般名;イピリムマブ)も日本で上市されており,この薬剤も免疫チェックポイント阻害剤に分類されています。
以上,化学療法剤,分子標的薬,免疫チェックポイント阻害剤 について説明しました。これらの薬剤の着想から開発の過程は,同時に,がんというものの分子生物学的実態がより詳細に理解されてきた過程であったということがご理解いただけたでしょうか。では,これからの抗がん剤の開発はどのように進展するかということをお話したいと思います。どうも,二つの大きな流れがあるようです。
一つは,治療ツールとしての高機能化の方向です。免疫チェックポイント阻害剤は,免疫機能のブレーキをはずして,生体に備わった免疫機能を高める治療法ですが,この考えをさらに進めれば,T細胞を人工的に改変して,スマート爆弾のようにがん細胞上の目印を手がかりに,がん細胞のみを攻撃することが考えられます。これがCAR-T療法で,既に実用化されています。また,人工的に改変したウイルスを腫瘍特異的に感染させ,がん細胞を破壊する腫瘍溶解性ウイルス療法も,このカテゴリーに入るでしょう。
もう一つの方向は,がん細胞の生態に注目して,新たな治療戦略を立案するという方法です。例えば,最近,がん細胞は,周囲の非がん細胞との相互作用によって,がん細胞が住みやすい環境(がん微小環境,あるいはニッチといいます)を整えていることがわかってきています。このことに注目して,その環境を破壊するという方法もあり得る戦略の一つではないでしょうか。
現在,がんという病態は,大変にヘテロで,かつ常に動的に変化し続けるものであると認識されるようになってきています。ですので,がんの征圧のためには,万能の特効薬を期待するというよりは,多様な治療選択肢を用意しておくほうが現実的であると私は考えています。
荒田 薬には何らかの 副作用 がつきものですが,何だか恐ろしいですね。日本でも使われているのでしょうか。
春山 今,ご紹介した薬物は,全て日本国内で使用されています。まず一般論ですが,副作用には,作用機序の延長線上にあるものと,薬剤の化学的性質に由来するものの2種類があります。
例えば,血液をさらさらに保つ抗凝固剤は,血栓症の予防に必要な薬剤ですが,投与量が多すぎれば,同じ作用の延長線上に,出血という副作用が生じます。化学的性質に由来する副作用の例としては,低分子医薬の化学構造に由来する心臓や肝臓に対する毒性があります。これらの副作用の可能性については,安全性試験の過程で排除しなければなりません。また,どの程度の副作用が許容されるかは,対象疾患の重篤さによって考える必要があります。特に,抗がん剤の場合には,がんという疾患の重篤さを考慮の上,患者にとってのベネフィットと,許容し得るリスクの程度を判断する必要があります。糖尿病薬のような薬剤で肝障害などの副作用が発生した場合には,即刻,投薬中止となります。 一方,抗がん剤の場合には,必ずしもそうはなりません。専門医の判断により,治療効果が期待できると考えられる限り,副作用をコントロールしつつ,投与が継続されることになります。
分子標的薬 は,化学療法剤 に比べ,副作用が少ないような印象をもたれるかもしれませんが,そうでもありません。血液毒性に加えて,下痢などの消化管症状,発熱,嘔吐,吐き気などは,抗がん剤一般に観察される副作用です。ただ,分子標的薬,免疫チェックポイント阻害薬は,作用点が特定されているという点で,有効性が高く的確な副作用対策が立てやすいと言えるかもしれません。
免疫チェックポイント阻害剤 の副作用として,頻度は低いものの,重症筋無力症や,1型糖尿病が報告されています。これらの疾患は,自己障害活性T細胞が活性化された結果ですから,作用機作の延長上に十分に予想された副作用といえます。また,ハーセプチンの副作用として心機能障害がありますが,これも作用機序の延長上にある副作用です。アジア人は,分子標的薬で間質性肺炎を起こしやすい ので注意が必要です。
荒田 過去に起きた薬害の例を挙げていただけませんか。
春山 先ほど,お話ししたように,抗がん剤は末期がんの患者に用いられることが多く,専門医によって,想定される副作用と期待される効果のバランスを考慮の上,薬剤が選択され,投与されるのが原則です。
では,薬害が皆無かといえば,不幸にして過去に分子標的薬であるイレッサ(一般名;ゲフィチニブ)についての薬害訴訟がありました。原告側の敗訴とはなりましたが,得られた教訓は貴重であり,その後の抗がん剤治療に生かされていると思います。
荒田 副作用,specificity などについてまとめていただけませんか?
春山
荒田 薬業界の努力,大学との共同研究による進歩についてお考えをお聞かせください。研究・開発に要する時間,経費などについても触れていただけませんか。
春山 新規医薬品の創製を,1)病態の解明に基づく創薬標的の同定・検証,2)選択された創薬標的に作用するモダリティー(低分子化合物,抗体医薬,あるいはその他)の創製と評価,3)臨床試験の実施と承認の取得,4)承認を受けた医薬品の安定供給と品質確保を可能にする生産体制の確立の四段階に分けた場合,製薬会社が得意とするのは2)以降であり,1)の部分は,アカデミアとの連携なくしてはなし得ないことは,先に概観した抗がん剤の変遷の歴史から明らかだと思います。また,2)から4)に関連する技術についても,その革新にはアカデミアとの連携が必須です。
荒田 患者側にとって,薬価が手の届かない額であることが悩みの種ですね。なぜそんなに高額なのですか。
春山 薬価という点では,抗がん剤は,高血圧の薬などよりは,確かに高価と言えるでしょう。特に昨今は,オプジーボの薬価の問題 が,一般紙や週刊誌で取り上げられていますので,皆さんの関心も高いことと思います。ですが,個人負担という意味では,日本は国民皆保険制度が整備されていますし,医療費が高額になる場合には,高額療養費制度というものが利用できますので,手が届かない薬剤という訳ではありません。
米国のように製薬会社が市場原理に従って自由に薬価を決めることのできる国もありますが,日本を含む多くの国々では,薬価決定に国が関与しています。製薬会社が日本国内で新製品を発売しようとする場合には,薬事承認を取得するだけではだめで,薬価収載申請を行って,その製品が薬価収載される必要があります。
by yojiarata
| 2018-02-06 21:00
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