船村徹 と 高野公男




ご隠居さんは,「船村徹と高野公男」とどうゆう縁があるの。

話は,50年近くも前に遡るんだ。



私は,1970代の初め,アメリカのカリフォルニア州のスタンフォード大学・メディカルセンターの薬理学教室に客員として,2年余り滞在しました。ベトナム戦争の最中で,色んなことを見聞しました。

インターネットなど存在しない当時,故郷のことを知る唯一の機会は,毎週日曜日の午後放送される2-3時間の日本で制作されたテレビ番組だったんだ。


君への答えになるけど,偶々,船村徹が出演していたんだ。この番組で,船村は若いころ通っていた音楽学校の同級生の高野公男の思い出を話していました。

良い演歌を作ろうと意気投合した二人は,高野が詩を書き,船村が作曲して,歌を創り始めたんだ。しかし,二人の音楽活動は,高野が病に斃れ,他界したことによって,2年間で終わってしまう。


私が見た番組では,船村は,高野の思い出をぼそぼそと語り,手にしたギターを弾きながら,【別れの一本杉】をうたったんだ。船村が歌うのを聴きながら,体全体が熱くなってくるのを感じました。この感覚は,異国の地で聴いたからこそ,自分の中に流れている日本人の血によって,感じたのだと,今では思っています。

船村徹は,生涯に5000以上の曲を作曲したんだけど,高野公男との共作 【別れの一本杉】は,日本の演歌の歴史の中で,最も素晴らしい曲の一つだと,私は思っています。


他にも,挙げだしたらきりがないけど,もう一曲と問われれば,後に美空ひばりが歌った【哀愁波止場】 ですね。美空ひばりの高音が美しく,印象的です。こんな高音を出すと喉が潰れるからやめるようにと,美空ひばりのママは最初は反対していたようだけど。大ヒットした一曲であることは,間違いありません。

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● 高野 公男(たかの きみお,1930年2月6日 - 1956年9月8日)
本名は高野 吉郎(-きちろう)。茨城県西茨城郡北山内村(現・笠間市大郷戸)出身。東洋音楽学校(現・東京音楽大学)中退。

1955年,『別れの一本杉』のヒットから間もなく,肺結核に侵され翌年9月8日,国立水戸病院で死去。享年26。




● 船村徹(ふなむら とおる,1932年6月12日 - 2017年2月16日)
栃木県塩谷郡船生村(現塩谷町)出身。栃木県立今市中学校(現・栃木県立今市高等学校),東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科卒。

2017年,2月16日,心不全のため死去。享年84。


獣医だった父親がクラシックレコードの収集家であったことや,小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたことなどもあり音楽の道を志す。

東洋音楽学校在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり,船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったという。大学在学時に,作詞家の高野公男と組み作曲の活動を開始した。高野とともに,生活は困窮を極め,バンド・リーダーのほか,流しの歌手なども経験する。



1993年,日本作曲家協会理事長に就任し,1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任,2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。

1995年,紫綬褒章受章;2002年,栃木県県民栄誉賞受賞;2003年,旭日中綬章受章;2008年,文化功労者;2014年,栃木県名誉県民;2016年,文化勲章受章。




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最後に会ったのは4年前。一番思い出の曲を尋ねると,間髪いれず「別れの一本杉」(55年)と返ってきた。自分を作曲家の道に推し進めてくれて,若くして亡くなった,作詞家の盟友・高野公男氏との作品だ。高野さんが亡くなってからも何十年と「歌供養」と称して,歌手や関係者を呼んで,高野さんをしのぶ会を開いていた。友情の厚さがうかがい知れた。

船村さんは,演歌の衰退を憂いてもいた。「今は演歌に理解を示してくれる若い人が少ない」と嘆いてもいた。できれば,もう1曲,若い人を振り向かせるような,心にしみる名曲を作ってほしかったのに ・・・・・ 。

[細貝 武 談]

















おわり







by yojiarata | 2017-02-21 00:09 | Comments(0)
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