第一次世界大戦の開始から第二次世界大戦の終結までの百年余りの間に製造され,使用された化学兵器は,戦争終結とともに,それぞれの国に大量に残されました。猛毒の化学兵器を如何に処理するかは,すべての国とって,頭の痛い問題になりました。 残された化学兵器がどのように処理されたかについて,2014年3月10日,NHKスペシャル 海底からの警告 が放送されました。 これまで語れる機会の少なかったこの話題を積極的に取り上げだこの番組は,極めて意義深いものでした。我ら国民も,是非とも頭の隅に入れておくべき点たと思います。 以下,読者のために,要点を整理します。 前回の記事 『ハーバー と ボッシュ と 第一次世界大戦 毒ガス戦とその結末』 の続編として読んでください。 §1 毒ガス製造の歴史 第一次世界大戦において,化学兵器が本格的に使われました。塩素系ガスやマスタード・ガスによる死傷者は130万人以上に達したと言われています。 日本が通ってきた道 第二次世界大戦前から,広島県竹原市沖合の大久野島 おおくのしま で,密かに,大量生産されていました。 これは軍の最高機密であり,大久野島は地図から消されていました。製造が始まったのは,1929年,6千トン以上マスタード・ガス,ルーサイドなどが作られました。これは,軍が作った毒ガスの9割にあたります。 島には,100棟以上の建物があり,6000人以上が毒ガスの製造のために働いていたということです。毒ガスは,北九州市苅田(かんだ)港から,全国へ運ばれていったということです。 島にある【毒ガス資料館】には,当時の資料が展示されています。 アメリカ,ドイツ,フランスなどの諸国も,それぞれ大量の化学兵器を作っていました。 §2 毒ガスのもたらした大惨事 第二次世界大戦最中の1943年12月,連合軍が占領していたイタリアの港をドイツ軍が爆撃しました。アメリカ軍のジョン・ハーベイ号が1000発以上の中型爆弾を搭載していました。爆弾には,マスタード・ガスが充填されていました。 爆撃により,船は真っ二つになり,連合軍側に600人以上の死傷者が出ました。この爆撃で,イタリア市民数百人にも被害が及ぶヨーロッパ史上最悪の大惨事とたったのです。被害者の治療にあたった医師たちは,直ちに,化学兵器の存在を疑いました。 この時点で,化学兵器の存在は秘密とされ,公安当局・軍関係者にも知らされていませんでした。。 §3 残された大量の化学兵器の処理 第二次世界大戦のあと,それぞれの国では,大量の化学兵器が残され,どの国もその処理に頭を悩ませることになります。 総量100万トンもの化学兵器をどうするか? 当時は,海洋投棄が最も安全な方法であるというのが世界共通の理解でした。こうして, 日本沿岸 インド洋 バルト海 北海 など,世界中の海が毒ガスの墓場となったのです。 ヨーロッパ北部のバルト海には,ドイツ軍が大量の化学兵器を廃棄しました。この結果,バルト海は,世界で最も危険な海になりました。 §4 毒ガス兵器の海洋投棄によって回って来た付け 爆弾の腐食が進み,中の有毒な物質漏れ出し,イタリアの漁民にまず被害が発生しました。それまで経験したことのないにおい,めまい,焼けつくような痛みに加えて,目が見えにくくなる,息が苦しくなる,水ぶくれなど,皮膚の損傷が起こりました。 濃い茶色の物質が網に付着し,2008年8月から12月までの間,事故で命を落とすこともあったと記録されています。 これは間違いなく第二次世界大戦後に始まりました。 漁民は,だれも海に出なくなりました。魚業で成り立っている漁民たちが仕事を失うからです。被害は記録に残ったものだけでも250件ほどで,1952,3年の間,漁師全員が死亡する悲劇が起きました。あの物質への接触が原因であることが分かりました。 この時点で,イタリア政府は調査に乗り出しました。1997年,50年の時を経て最も大掛かりな調査が始まったのです。海底を調べた結果,兵器の腐食が進み,内容物がむき出したり,漏れ出したりしていることが分かりました。毒ガスは,50年たった現在も活性,比重が重いため,沈殿していました。 穴に入る習性のあるヨーロッパアナゴ,ラプラタユメカサゴは,穴の開いた爆弾に入るため,皮膚が損傷していました。 事故が起きた後も,漁師達は,だれも被害のことを口にしませんでした。生計を立てるための仕事を失うからです。こうしているうちに,化学兵器は別の場所に捨てられ,汚染が広がっていったのです。 それから60年,被害発生が続き,イタリアでは,知られているだけでも,250件以上に上りました。 観光地の海岸には,看板が建てられています。日本人観光客に配慮してか,看板には日本語も書いてあります。
アメリカ,カナダでは,海洋投棄されたことは,分かっているのですが,処理はまだ始まっていません。 日本でも,昭和21年,米軍GHQの命令により,爆弾を船に積み,船ごと,土佐の沖合に沈められました。化学兵器の大半が製造された広島県竹原市沖合の大久野島 おおくのしま で,近くの海に,海洋兵器の投棄が行われました。 現在まで,日本では,最先端技術を投入し,一部の化学兵器を無害化を行っていますが,殆どの化学兵器は海底に眠ったままです。 §5 日本の貢献 2004年,神戸製鋼所が化学兵器の処理に参入することになります。2013年。国から委託を受け,480億円投入した爆破処理などの化学兵器の処理のための研究を行いました。 しかし,1940年代,化学兵器の海洋投棄の実態については,軍は内情を全く知らなかったようです。 §6 デンマーク 漁師を守る対策 ポーランドを中心にバルト海を囲む国々の11の研究機関が共同で調査にあたることになりました。 デンマーク領のバレンボム島では,漁業と農業が主な産業です。ほど近い現場には,バルト海で最も多い3万トンが廃棄されました。海底には水の流れがないとされてきたのですが,実際には,廃棄された化学兵器は広い範囲に拡散していることが分かりました。 §7 国際社会の対応 アメリカにおける調査の結果,数十に及ぶ投棄場所が特定されました。化学兵器は,11の州の沿岸,さらには他の数か国に及んでいることが明らかになりました。 アメリカの調査は,極めて杜撰でした。数千トンに及ぶ化学兵器が廃棄されたという記録はあいまいで,何処に,何を,どれだけ捨てたのか,分かりませんでした。 しかし,連合軍側は,1947年まで,海洋投棄の事実を秘密にすることを決定しました。米・英両国は,さらに,20年間,延長することにしました。つまり,根本的対策は何も進んでいないのです。 このため,アメリカとソ連では,1960年代まで,海洋投棄が続くことになりました。 アメリカでは,メリランド州のアバディーンに陸軍の兵器実験場があり,大量の化学兵器が製造されました。第二次世界大戦終結後は,9000トンにも及ぶ化学兵器が海洋投棄されました。廃棄の場所は数十か所,投棄された化学兵器は,海底3000メートル以上であるとアメリカは主張しています。しかし,3000メートル以上という証拠はないのです。 驚いたことに,アメリカ連邦議会は海洋投棄,汚染の実態を全く知らなかったのです。アメリカ市民はいうまでもありません。 アメリカでは, Operation Chase Cut Holes And Sink ‘em 作戦 の「掛け声」のもとに,化学兵器に対処すべく,作戦が始まりました 1969年,陸軍はアメリカ科学アカデミーに研究を依頼しました。答えは,分解があるか,全容が明らかでないのであるから,海洋投棄を勧告するということでした。 これらの結果を受け,アメリカ議会上院公聴会が開かれ,現時点では,地下に埋められた化学兵器のみを対象とし,海に廃棄された化学兵器はそのままにしておくことが決まりました。 1972年,アメリカ議会により,化学兵器の海洋投棄は違法と定められ,以後,禁止となりました。 この時点以来,アメリカでは,化学兵器の海洋投棄は行われていません。 §8 2013年のノーベル平和賞 アメリカの元・新聞記者 ジョン・ブルの粘り強い調査から始まりました。この人物は,ヨーロッパのどこの国を責任を負わない,ならば,自分がやろうと決めたのです。 調査が始めてみると,重要な資料が次々に得られました。1940年から1960年にかけて撮影された証拠写真が続々と出てきました。 船に積み上げられたマスタード・ガス,ルイサイト,フォスゲンが船に積み上げられた写真,マスタード・ガスの容器を海中に投棄する写真などです。 これらの結果をもとに,化学兵器禁止機関 OPCW が発足しました。 化学兵器禁止機関:Organisation for the Prohibition of Chemical Weapons, OPCW)は,化学兵器禁止条約(CWC)に基づき,1997年に設立された国際機関です。化学兵器の禁止と拡散防止のための世界的な活動を目的とする機関で,本部はオランダ・ハーグ市。職員は約500人です。 2013年オランダハーグで会議が開かれ,化学兵器の全面禁止が採択されました。 化学兵器禁止機関 OPCW には,2013年12月,ノーベル平和賞 が授与されました。 §9 カナダの先住民族の祈り カナダのケープ・ブレトン島にあるブラドー湖の一帯の湖畔には,先住民族ムースー族が数世紀にわたって暮らしてきました。 ブラドー湖でも,70年に化学兵器の投棄が始まりました。廃棄場所は5か所,先住民には知らせないで投棄が始まったのです。2013年夏まで,10年間にわたって3000発が投棄されました。第2次世界大戦がそのひとつ湖畔の町・ジョーンズタウンに化学兵器製造工場があり大量の化学兵器が製造されていたことを住民たちは知りませんでした。 先住民たちは,確かな異変を感じています。村の長老・アルバート・マーシャルは,次のように話しています。 変わった病に我々は悩んでいます。例えば,私の家族7人は,全員,がんに侵されるました。孫娘も入院して,死を待つばかりです。 長老の言葉。私たちの受けてきた自然の恩恵,命の泉,は未来の世代に残さねばなりません。 ムースー族の祈りの唄がながれるなか,番組は終わります。 偉大なる大自然よ
by yojiarata
| 2016-04-24 21:28
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