人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の十一



昭和20年 つづきのつづき



八月三十日。

・・・・・ プラトフォームに入りて村田氏が家人を携え来るを待つ。氏は約の如く総社町より吉備線の汽車にて午後二時近く同じプラトフォームに来り会す。

停車場の構内は休戦以来日々 除隊の兵 にて雑遝すること甚しく,わが乗るべき列車の如き定刻に発するものは知らぬ間に廃され新なる臨時列車亦容易に来らず。待つこと二時間,わづかの貨物車の空しきものあるを見てこれに飛び乗り夜九時 大坂 の駅に着す。

こゝにて東京行乗替の車を待つこと更に亦数時間,翌朝未明に至り初めて乗ることを得たり。 呉軍港より放たれて帰る水兵 にて車中雑沓す。


八月卅一日。

終日車中に或り。 ・・・・・  夜七時過品川の駅 より山の手線に乗換をなし渋谷の駅にて村田氏に別れ,余は代々木の駅前なる鈴木薬舗方に間借をなせる五叟を尋ぬ。 ・・・・・ 

五叟は既に三十日程前熱海木戸氏方に転居してこゝには在らずと,鈴木氏のはなしに余は驚愕し又狼狽するのみ。 ・・・・・


九月初一。

・・・・・ 五叟の弟子恰も熱海に行くべき用事ありと言ふにさらばとて,其者と共に新橋よりまたもや汽車に乗り晡下 熱海 に至る。 ・・・・・


九月初九 日曜日。

・・・・・ 五叟の次男日曜日を除きて日々未明に家を出で東京なる暁星中学校に通ふ。途上の所見を語る。

小田原御殿場の辺にも米国の進駐軍あり。東京の市中米兵の三々五々散歩するを見ると云。

新聞紙上 米兵の日本婦女を弄ぶものあり との記事を載す。果して真実ならばかって日本軍のまた如何ともすべからず。畢竟戦争の犠牲となるものは平和をよろこぶ良民のみ。浩歎 こうたん に堪えざるなり。 ・・・・・


九月十日 日曜日。

くもりて蒸暑し。輪鄰の人昨日東京まで用事あり。最終の列車にて熱海に帰らむとする途中,藤沢の駅にて米兵の一隊四,五十人ばかり乗車せむとせしが客室雑踏して乗るべからず。

米兵日本人乗客を叱咤し席より追払 ひて乗り行きたり。おろされたる日本人乗客はその列車既に最終のものなればやむことをえず一夜を駅の構内にあかし今朝未明の汽車にて漸く家にかへりしとの話なり。

これかって満州にて常に 日本人の支那人に対して為せし処。因果応報。 是非もなき次第なりといふ。 ・・・・・


九月十二日。

・・・・・ 此日 東条大将其他捕縛 せられし由ラヂオの放送あり。


九月十六日 日曜日。

半陰半晴。台所にて人の語るをきくに,この頃の配給にては人一人につき白米一日分一合七,八勺 なれば大豆また玉蜀黍を混じ粥にして食へど,それも朝夕三度は食ひがたし。一日に一度このやうな混合米を口にすることを得れば幸福なり。

農家へ買出しに行きても米芋などの主食物を得ること容易ならず。全国を通じて 国民飢餓 に陥るべき日は刻刻に迫りをれりと云。

余はいはれなく余が余命も来春まで保ち得るや否やと思へる折から,敗戦後の世情聞くもの見るもの一ツとして悲愁の種ならぬはなし。 ・・・・・


九月十七日。

風雨蕭ゝ。座右に読むものなければ木戸氏の蔵書中より改造社の一円本を取出しる柳浪先生の部をみる。

『浅瀬の波』 の篇中に 明治三十年頃の砂村木場また艦材堀あたりの風景 を窺ひ知らしむる叙景の文あり。興味津々たり。


九月十九日。

・・・・・ 山に攀る熱海の人家の朝日を受けて緑樹の間に散見するさま,セザーヌマチス等の筆致色調の妙を思はしむ。蓋し此の如き秋晴の風景は北斎広重の版画にも其色彩を連想せしむるの例稀なるを以てなり。 ・・・・・

晩食前市中を歩む。先月来 食塩の配給杜絶 せし由にて家毎に 海水を汲来り鍋にて之を煮詰め 居れり。戦敗国の窮状いよいよ見るに忍びず。


九月二十日。

晴又陰。東京の知人より又もや可笑しき手紙を得たり。曰く。

・・・・・ 降参以来日を重るに従ひ 我と我眼我耳を疑ふ如き衆状頻々として見聞 致そうろう,実に情なき次第に御座候。(中畧)さて銀座辺へ買物に出る異人供の後をゾロゾロとついて廻り,やれタバーコ,チョコレートなどゝ,片言の英語で乞食のやうに耻も外聞もなくねだる国民服を見る時はおのれ日本人たる事を忘れてつくづく日本人がいやに相成申候。 ・・・・・


九月廿六日。

天気快晴。窓より見ゆる江湾島嶼の風景,可憐なること庭園の如し。 ・・・・・

斯くの如き穏にして美麗なる風土は武力を濫用して侵畧の暴行を企画すべき処に非らざることを証するものならずや。

現在の日本人種は其大半他処より漂流し来りし蛮民の子孫なること亦自ら明なり。米国の学者好事家現在の日本を知らむと欲すれば先その研究をこの辺より始めざるべからず。マカサ元帥 以て奈何となすや。


九月廿八日。

・・・・・ 窓外の芋畠に隣の人の語り合へるをきくに,昨朝 天皇陛下 モーニングコートを着侍従数人を従へ目立たぬ自動車にて,赤坂霊南坂下米軍の本営に至り マカサ元帥に会見せられしといふ事なり。

戦敗国の運命も天子蒙塵 もうじん の悲報をきくに至っては其悲惨も亦極れりと謂ふ可し。南宋趙氏の滅ぶる時, 天子金の陣営に至り和を請はむとして其儘捕虜となりし支那歴史の一頁も思ひ出されて哀なり。 ・・・・・

今日此事のこゝに及ぶびし理由は何ぞや。幕府瓦解の時には幕府の家臣に身命を犠牲にせんとする真の忠臣ありしがこれに反して,昭和の現代には軍人官吏中一人の 勝海舟 に比すべき智勇兼備の良臣なかりしが為なるべし。



 【 勝海舟 ついては,既にこのブログで,何回か取り上げました。最近の記事 「安倍談話が映しだす リーダーの要件 2015年8月16日」にリンクしてありますので,ぜひ読みかえしてください。 】



我日本の滅亡すべき兆候 大正十二年東京震災の前後より社会の各方面に於て顕著たりしに非ずや。余は別に世の所謂愛国者と云う者にもあらず,また英米崇拝者にもあらず,唯虐げらるゝ者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものに過ぎざるのみ。これこゝに無用の贅言を記して,穂先の切れたる筆の更に一層かきにくくなるを顧ざる所以なりとす。


十月初七日 日曜日。

時ゝ雨ふる。晩間嶋中氏に招かれ其宿泊する山王ホテルに至りて晩餐を共にす。米軍の将校とも見ゆる青年七八名食事をなせり。人品さして卑しからず。食後酒場のカウンターに倚り給仕の少女を相手に日本語の練習をなす。日本の軍人に比すれば其挙動遥に緩和なり。 ・・・・・


十月十二日。

・・・・・ 町を歩み銀座通中程の喫茶店にてランチを注文するに,紙の如く薄く切りたるソーセーヂ数片に馬鈴薯少し添へたる 一皿のみ。而して其価四円税壱円なりと言へり。 ・・・・・ 戦後日用品の価唯人をして一驚を喫せしむるのみ。


十月十七日。

・・・・・ 新聞記事に 太田正雄 木下杢太郎 病没 の事あり。行年六十一と云。


 【 私は,昭和31年4月1日から,東京柳島にある製薬会社・研究所に就職しました。事情があって,2ヶ月と4日後に退職しました。そのとき,いつも,暖房用の配管の上に,鳥が止り木とまるようにとまり,パイプを悠々と吹かしていた不思議な方がおられました。

私の所属する部署の課長さんで,その名は太田さん。誰かが,課長のお父様は木下杢太郎だと教えてくれました。今考えても不思議なのですが,直属の上司で毎日会っていながら,杢太郎ジュニアと一度も話したことはありません。即ち,ジュニアの声には,全く記憶がありません。しかし,2ヶ月余りの研究所暮らしで最も記憶に残る懐かしい方です。】



十月十八日。

くもりて静かなる日なり。

・・・・・

[欄外墨書] 薄田泣菫 すすきだきゅうきん 没行年六十九。


十月二十日。

くもりし空より小雨折々降りては歇 む。新生社速達郵便にて雑誌原稿料壱千円を贈来る。午霜氏の周旋にてメリヤス腿引を買ふ。金弐百円なり。


十月廿一日 日曜日。

風雨。午後に歇む。昨日あたりより 食糧品闇売取締 厳しく刑事停車場その他諸処に見張りをなす由。我家にても闇屋来らざるため魚類野菜を食ふこと能はざるに至れり。


十月廿三日。

・・・・・ 近日経済界の風聞をきく毎に余は将来の生活に対し憂灈の念いよいよ深かゝらざるを得ず。文学創作の興合漸く消滅し行くをおぼゆ。 去年此日より煙草配給 となる。


十月三十日。

晴。午後より曇る。昼餉の際前歯一本折れたり。岡山に在りし頃歯科医の治療を受けんとて尋ね歩みしかど見当らず。 老朽の容貌 益々醜悪となり鏡を見ることを欲せざるに至れるなり。晩風蕭策。

【 ここまで読み進んで来て,突然思い出した一冊の文庫本があります。『 ドリアン・グレイの画像 』 ( ワイルド作,西村孝次訳,岩波文庫,1992年,第38刷 ) です。

青春と老いを,こんなに鮮烈に対比させて書いた小説を私は他に知りません。2014年一月十六日に掲載したブログ に取り上げましたので,興味がおありの方は読んでみてください。



十一月初一。

暴暖初夏の如き気候なり。 ・・・・・ 

三十年来書き馴れし雁皮紙帳面十月かぎりの記事にて尽きたれば, 過日人より恵まれしこの半紙を綴ぢて見たれど糊つよくして運筆自由ならず。毎夜就寝前その日その日の事を識す戯れも今は楽しからず。

日記はこのまゝ中止せんかとも思ひしがそれも何やら残り惜しく, 命のあらんがかぎりまたもやよしなき事を書きつくる ことゝはなしぬ。


十一月初七。

・・・・・ 燈火を滅して窓の戸を開き見るに、海上の空薔薇色にあけそめ真鶴の岬淡く紫色にて良く水上に浮べるさま影の如し。町の灯は猶消えず, 海上の漁火亦煌煌たり。  ・・・・・


十一月初八。

快晴風あり。午後凌霜子沼津の帰途来り訪はる。 上野公園また地下鉄道駅内 には家なく食なき者多く集り旅客の瓣当など開きて物食へるを見るや。一人二人と次第に集り来り食物を奪去る由。毎日四五人餓死病死するものある由。 目下東京市中最悲惨の光景を呈する処 はこゝなりと云。 ・・・・・


十一月十九日。

快晴。月明昼の如し。世の噂に来年四月頃には 石炭不足 の為全国鉄道貨車不通になるべしと云。 ・・・・・


十二月初三。

晴。家の内に炭火なければ手足つめたく机に向ふべからず。午霜の家族台所の七輪に コーライト といふ燃料を焚き物煮ながら其のまはりに集りたり。この寒空に 立退を強請 せらるゝは情なしなど語り合へるなり。  ・・・・・


十二月初八。

陰天。風寒からず。午飯の後新生社主人より贈られし 米国製鑵詰 をひらく。無花果を煮つめて羊かんのやうにしたるものと珈琲なり。 珈琲は粉末甚こまかく 熱湯にて溶けばすぐに飲めるなり。品質いづれも善良なり。又オートミールの鑵詰をひらきて味ふに粉牛乳と砂糖の調合甚好し。

戦地にて米国将卒の之を食したることを思ひ,翻って日本軍の食糧の粗悪なるに思到れば勝敗も亦推測するに難からず。 彼と我とは生活の程度 既に雲泥の差あり。人間も動物なれば 其高下善悪は食糧によりて決せらるべし。 近年余の筆にする著作の如きも恐らくは見るに足るべきものには非ざるべし。



*



【 ここで,急に思い出したことがあります。

私は,5年前,『日本の科学行政を問う』 (薬事日報社,2010年)を上梓しました。以下,その中 の 211-212 ページ から引用します。

50年以上も前に筆者が聴講した講義で,T先生が突如として次のようにおっしゃったのを,何故かよく記憶しています。今でもふとあの言葉を思い出すことがあります。先生は,スイスの大学で武者修行して帰国されたばかりでした。

【西洋人と我々は,結局,“クイモノ”が違うんですよ】 

筆者は,T先生の言葉を,

【栄養のあるものを十二分に食し,エネルギーをつけない限り,学問のうえで西洋との闘いに勝てないぞ!】

と勝手に解釈しました。

昭和20年代の末,日本の食糧事情は満足すべき状態には程遠い状態でした。

巨大なビーフステーキを食すなど,庶民には夢の世界でした。学問でも,戦争でも,西洋に勝てないのは,“クイモノ”の違いである,“ 竹槍 ” で突撃しても駄目なのだと,妙に納得したものでした。


あれから何十年かの後, 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン,1850-1904)  の書いた一文がふと目に留まりました。

” 以前,ハーバート・スペンサーが言っていたことであるが,人間の肉体的,精神的エネルギーは,日々食するものの栄養価によるところ大である。

栄養十分な民族は,エネルギー一杯で,力に満ちていることは,歴史が証明している通りである。一国の未来を決するのは精神であることは疑いのないところであるが,その精神は,胃を通じて身体に取り入れた食べ物だ。世界を揺るがす哲学は,パンと水の食べ物からは決して生まれない。

それには,ビーフステーキ,骨付きの羊肉,ハムと卵,ブタ肉とプリン,土地のワイン,ビール,濃いコーヒーが必須なのだ。"


この文は,小泉八雲が,明治23年(1890年)9月から翌年10月まで,松江中学で英語の教師をしていた時のことを書いたものです。全文を読むと,八雲が中学生に心を込めて向き合っている様子がよくわかります。

Lafcadio Hearn: Glimpses of Unfamiliar Japan, XIX, From the Diary of an English Teacher, XII, p. 453, Charles E. Tuttle Company 1976 (First edition published 1894)


(上記の日本語訳は著者自身による。なお,原著のごく一部が,小泉八雲(田代三千稔訳)『日本の面影』(角川文庫,1958)として出版されています。ただし,上に引用した部分は含まれていません。) 】



*



わが文藝の世界的地歩を占め得ることは到底望むべからず。悲しむべきなり。

子供等米国軍艦数艘真鶴湾内に入来りて碇泊すと語れり。見に行く人多し。


十二月初九 日曜日。

晴。午霜子の愛児二人,一人は上野音楽学校,一人は暁星中学校に通学しゐたるに,汽車石炭不足なりとて 明日より一個月間学生用定期券禁止 となりし為,已むことを得ず休業する事となれりと云。 ・・・・・

午後米人ブラウン其他一名来り話す。 ・・・・・ 共に歩みて海岸通より銀座町にいたる。軍艦は三艘にて小型の駆逐艦なり。海岸通より程近き海上に在り。 米艦にあらず,豪州より来れる由。 ブラウン氏語れり。 ・・・・・


十二月十三日。

晴天寒風吹きて歇まず。窓外の紅葉大方落ちつくしたり。

亡国見聞録

  南洋諸島より帰還する兵卒の中には三四年前戦死せしものと見なされ,家族へ遺骨までも其筋より送り届けられしものも尠からぬ由なり。熱海天神町に住みし一商人あり。四年前戦死し靖国神社に合葬せられしかば,親族合議の上その妻を戦死者の実弟に嫁せしめ遺産の相続をもなしたり。

  弟は兄嫂と兄の財産をゆづり受けしなり。子供二人出来幸福に暮しゐたりし処,この程突然死んだと思った兄かへり来りしかば,一家兄弟大騒ぎとなりごたごたの最中なりと云。


十二月二十一日。

晴れて暖なり。 ・・・・・ 裏通蟇屋の店口には Off Limits, by order of Co. の貼紙ありて洋客の影なし。


十二月廿二日。

五叟子昨日東京に赴き 市川に頃合の貸屋 を見付け早速借受の約束せしと云。遠からず一家熱海を去るべし。


十二月廿八日。

晴。風ありて寒し。

十一月初頃より 疥癬 かいせん に罹る。いづこにて伝染せしにや。

初め 臍のあたり より 発せしなれば, 理髪店 よりうつりしものとも定め難し。今は全身より手足の先に及ぶ。痒くして眠りがたきこともあり。 これも戦争害毒の一つなるべし。

晡下 ほか 町に行きて煮豆を買う。飯茶碗一杯ほどにて三円半なり。


十二月卅一日。

・・・・・ 小泉八雲訳するところロチの文抄を読む。夜半数年ぶりにて 鐘声 をきく。



つづく

































































by yojiarata | 2015-12-23 22:18 | Comments(0)
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