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人 と 言葉  永井荷風:断腸亭日乗 を読む  巻の十





昭和20年 つづき



四月初二。

晴。郵便切手七銭のところ昨日より十銭となる。



四月十日。

雨歇まず。家と蔵書とを灰となせしより早くも一個月をすごしたり。一日も早く 東中野のアパート に移らむと思ひながら咳嗽猶治せず。鬱憂禁じ難し。



【 この後,サイレン,空襲の日々が延々と続くことが日記に記されています
。】




五月初一。

晴。午前中水道水きれとなる。去月十五日大空襲ありて以来瓦斯なくなり,毎日炊事をなすに引倒し家屋の木屑を拾集めこれを燃すなり。 戦敗国の生活水も火もなく 悲惨の極みに達したりといふべし。


五月初三。

くもりて風甚冷なり。新聞紙 ヒトラー ムソリニ の二兇戦破れて死したる由 を報ず。


五月初八。

・・・・・ 今朝アパート宿泊人一同東中野停車場附近取払家屋の跡片付に徴発せらる。(人々これを キンロウホウシ と称す。無賃労役の意なり。) ・・・・・


五月十日。


晴。晡下散歩。小滝橋よりバスに乗り早稲田に至る。高田の駅を過るに見渡すかぎり焼原なり。線路土手の草のみ青きこと染むるが如し。バス終点より歩みて駒塚橋を渡る。目白台の新樹鬱然,芭蕉庵門内の老木また恙なく緑の芽の長く舒びたるを見る。

門の柱に小石川区関口台町廿九番地。史跡芭蕉庵。また服部富服部敏幸とかきし小札を出したり。 ・・・・・

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「摘録 断腸亭日乗」 より



五月廿五日。

空晴れわたりて風爽やかに初夏五月になりし心地なり。 ・・・・・

夜いつもの如く菅原君の居室にて喫茶雑談に耽る時サイレン鳴りひびき 忽空襲 を報ず。余はいわれなく今夜古襲撃はさしたる事もあるまじと思ひ,頗る油断するところあり,日記を入れしボストンバグのみを提げ他物を顧ず。

おもむろ に戸外に出で ・・・・・ 昭和大通路傍の壕に入りしが, 爆音砲声刻々激烈 となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三,一種の怪臭を帯びたる烟風に従って鼻をつくに至れり。

最早や壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這い出でむとする時,爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。

無数の火塊路上到ところに燃え出て,人家の垣搐 えんしょう を焼き始めたり。・・・・・

燃立つ火焔と騒ぎ立つ群衆の間を逃れ,昭和大通上落合町の広漠たる焼跡 ・四月中罹災の地・ に至り,風向きを見はかり崩れ残りし石墻のかげに熱風と塵烟とを避けたり。

遠く四方の空を焦す火焔も黎明に及び次第に鎮まり,風勢もまた衰へたれば,おそるおそる烟の中を歩みわがアパートに至り見るに,既にその跡もなく,唯 瓦礫土塊 の累々たるのみ。 ・・・・・


五月三十日。


晴。 ・・・・・ 渋谷駅省線電車雑沓甚しく乗り難しとなり。毎夜月よく折々梟の鳴くをきく。 東都の滅亡を吊ふものゝ如し。



【 荷風は一時,岡山へ移住します。当時,岡山県北部の勝山に住んでいた谷崎潤一郎を訪ねています。

岡山は私の故郷です。荷風は,岡山の方々を歩き回り,極めて的確な描写を日記に書き残しています。彼は,随筆集 『日和下駄』 に書いているように,好奇心いっぱいの大変な散歩好きで,どこへ行っても,あちらこちらを歩き回っています。 】




六月初一。


晴。菅原氏曰く埼玉県志木町の農家にも行きがたくなれば今は其故郷なる 播州明石の家 に行くより外に為すべき道なしとて頻に同行を勧めらる。

熟慮して後遂に意を決して氏の厚誼にすがり 関西にさすらひ行く ことになしぬ。 早朝氏と共に渋谷駅停車場に至り 罹災者乗車券 なるものを得むとしたれど成らず。空しく宅氏の家にかへる。


六月二日。


・・・・・ 午前八時三たび行くに及びて辛くも駅員より 乗車券の交附 を受けたり。 ・・・・・

渋谷駅の改札口に入ることを得たるは午後一時半頃なり。山の手省線にて品川を過ぎ東京駅に至り罹災民専用大坂行の列車に乗る。 ・・・・・ 午後四時半列車初てプラトホームを離る。発車の際汽笛も鳴らさず何の響もなければ 都会を去るの悲しみ 更に深きを覚ゆ ・・・・・


六月初三。


列車中の乗客われ人ともに列車進行中空襲の難に遭はむことを恐れしが,幸にもその厄なく午前六時過 京都駅七条 の停車場に安着す。矢来の雨も亦晴れ冷風習々たり。直に明石行電車に乗換へ大坂神戸の諸市を過ぎ 明石 に下車す。 ・・・・・ 

三四丁隔りたる 真宗の一寺院西林寺 といふに至り当分こゝに宿泊することになれり。西林寺は海岸に櫛比する漁家の間に在り。書院の縁先より淡路を望む。海波洋々マラルメが牧神の午後の一詩を思起せしむ。 ・・・・・


六月十一日。

晴。 ・・・・・ 初発博多行の列車は雑沓して乗るべからず。次の列車にて姫路に至りこゝにて乗りつぎをなし正午 岡山 に着す。 ・・・・・


六月十三日。

梅雨霏々。 ・・・・・ 一同岡山ホテルに宿す。 多くして眠り難し。 ・・・・・ 

街路静にして堤防より の飛び来るを見る。郷愁禁じがたし。 ・・・・・


六月十八日。

晴。菅原君夫妻朝の中より出でゝ或らず。独昼飯を喫して後昨朝散策せしあたりを歩む。県庁裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから 後楽園外の橋 に出づ。

道の両側に 備前焼の陶器 を並べたる店舗軒を連ねたり。されど店内人なく半ば戸を閉したり。

橋を渡れば公園の入り口なり。別に亦一小橋あり。 蓬莱橋 の名を掲ぐ。郊外西大寺に到る汽車の発着所あり。


【 この部分の日記の記述は驚くほど正確です。後楽園に至る橋の名前は 鶴見橋 です。その先の 蓬莱橋 の名前まで記述があり,これも正確です。

荷風がこの付近を散策してから3年が経過して後,私は,鶴見橋,蓬莱橋を渡って高校 ( 岡山県立岡山操山高校 ) に通い初めました。

戦後やって来た進駐軍の兵隊を,この辺でよく見かけました。】



眼界豁然。岡山市を囲める四方の峰巒を望む。山の輪郭軟らにして険しからず。京都の丘陵を連想せしむ。渓流また往時の鴨川に似て稍大なり。 ・・・・・ 宛然画中の光景人をして 乱世の恐怖 を忘れしむ。哺時客舎にかえる。


六月二十日。

晴。午前暑さ甚いからざる中菅原君と共に市中を散歩す。 まず電車にて 京橋 に至る。欄に倚りて眺るに右岸には数丁にわたりて石段あり。帆船自動舩輻湊す。 ・・・・・

河の上流を望めば松林高く人家の屋上に聳ゆるあたり 岡山城の櫓 やぐら を見る。 ・・・・・

貸舟屋あり。児童舟を泛べて 遊泳 す。 ・・・・・



【 私も,遊泳していた児童の一人でした。小学生,中学生,高校生(1年生と2年生)の夏休みは,昼食後,日の暮れるまで,大勢の友達と旭川で泳いでいました。ただし,舟を借りたことは滅多にありません。そのまま,旭川めがけて飛び込んでいました。 】



荒廃の状人をして時代変遷の是非なきを知らしむ。况や刻下戦乱の世の情勢を思ふや。 諸行無常の感 一層切なるを覚ゆ。城郭,断礎の間の道を歩みて再び堤上に登れば,水を隔てゝ後楽園の松樹竹林粛然として其影を清流に投ず。人生の流離転変を知らざるものゝ如し。 客舎にかへれば日影亭午に近し。


六月廿五日。

晴。 ・・・・・ 飯後黄昏河畔を歩む。満月後楽園後方の山頂に登を見る。  橋下蛙声 雨の如し。


六月廿八日。

晴。旅縮のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまま帰り来らざるを見, 今明日必異変あるべし と避難の用意をなす。

果してこの夜二時頃 岡山の町襲撃 せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひびかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。

余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。



【 ここからは,私自身の経験を書きます。

私は,荷風が岡山大空襲に襲われたこの日,岡山市川崎町25番地の自宅で,この空襲を経験しました。その時,国民学校の6年生,10歳でした。旭川のすぐ近くです。

その時のことを思い出してみると,荷風の日記の記述は極めて正確です。

付け加えるとすれば,日記には,「睡眠中突然爆音をきいて」 とありますが,実際に私の記憶にあるのは,奇妙な ” 音 ” です。後で知ったのですが,雨霰と降り注ぐ「焼夷弾」の音だったのです。

その音は,喩えてみれば,柳行李の蓋に大量の大豆を入れ,左右に揺らせて出るザーという,ラジオの効果音にそっくりです。あの音は,70年経った今でも,忘れることは出来ません。鮮明にこの耳に残っています。

岡山での罹災は,荷風が戦後すぐに出版した 『罹災日録』 に詳述されています。なお,この部分は,「摘録」には引用がなく,『荷風全集 第二十五巻 (1994),581ページ 』 に再現されています。 】





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【 この後,荷風は二ヶ月余り,岡山に滞在,風景,人々の交流などを丹念に書き残しています。持病にも変わらず,苦しんでいます。

なお,『罹災日記』 の序文には,繰り返しになりますが,次のような件があります。


「日乗は元より公表すべき心にて記するものに非らざるを以て記事の精疎文章の格式日により時に随って同じからず。之を通覧すれば筆勢に均一なく放漫蕪雑の陋頗厭ふ可きの觀あり。」 ・・・・・ 】




七月初七。

雨霏ゝ。昼夜 蛙声 をきく。


七月九日。


快晴。雲翳なし。谷崎氏及宅昌一氏に郵書を送る。午後寓居の後丘に登る。一古刹あり。山門古雅。 ・・・・・ 墓石の間を歩みて山の頂上に至れば眼下に岡山の全市を眺むべし。去月二十八日夜半に焼かれたる市街の跡は立続く民家の屋根に隠れ今は東方に聳ゆる連山の青きを見るのみ。


八月初一。


晴。おも湯を啜りて病を養う。晩間腹候漸く佳し。


八月初九。

晴。節は既に立秋を過ぎたるが如し。

[欄外墨書] 赤軍満州侵入


八月十日。

晴。 広島市焼かれたり とて岡山の人々昨今再び戦々兢々たり。

早朝岡山停車場に至り勝山行の切符を買はむとせしが得ず。空しく帰る。書を 谷崎君 に寄す


八月十三日。

未明に起き明星の光を仰ぎつゝ暗い道を岡山の停車場に至るに,構内には既に切符を購はむとする旅客雑遝 ざっとう し,午前四時札売場に灯の点ずるを待ちゐたり。構内のところどころには前夜より来りて露縮するもの亦尠 すくな からず。

余この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが,また心を取直し行列をつくれる群集に尾して佇立つする事半時間あまり,思ひしよりは早く切符を買ひ得たり。 月おくれの盂蘭盆 にて平日より汽車乗客込み合ふ由なり。 ・・・・・

再び停車場に至り九時四十二分發伯備線に乗る。僅に腰かえることを得たり。前側に座しゐたる老婆と岡山市中罹災当夜の事を語る。この老婆も勝山に行くよし。 ・・・・・

汽車倉敷を過る頃より沿線の丘陵左右より次第に迫り来り短き墜道に会ふこと再三に及ぶ。沿道には到処清渓の流るゝあり。人家は山に攀づ。籬辺時に百日紅の爛漫たるを見る。正午の頃 新見 と云ふ停車場に着しこゝにて津山姫路行の列車に乗替をなす。 ・・・・・

午後一時半頃 勝山 に着し直に谷崎君の寓舎を訪ふ。駅を去ること僅に二三町ばかりなり。 ・・・・・

やがて夕食を喫す。 ・・・・・ 食後谷崎君の居室に行き閑話十時に至る。 帰り来って寝に就く。岡山の如く 蛙声 を聞かず。蚊も蚤も少し。


八月十五日。

陰りて風涼し。・・・・・ 飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。雑談する中汽車の時刻迫り来る。再会を約し,送られて共に裏道を歩み停車場に至り,午前十一時二十分発の車に乗る。 ・・・・・

午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ,休み休み三門 みかど の寓舎にかへる。S 君夫婦,今日正午ラヂオの放送,日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あかたも好し。日暮染物屋の婆,鶏肉葡萄酒を持ち来る。 休戦の祝宴 を張り皆々酔うて寝に就きぬ。

[欄外墨書] 正午戦争停止。


八月十七日。

晴。 ・・・・・ 休戦公表以来門巷寂寞なり。市中の動静殆窺知しがたし。隣人たまたま津山に赴かんとして停車場に行きしが従業員出勤せず。 汽車の運転殆中止の状況 なりと語れり。


八月廿八日。

晴。早朝村田氏に案内せられてあたりを歩む。午後村田氏の細君岡山に行き 東京行きの汽車乗車券 を獲べき手筈をなすべしと云。村田氏既に東帰の念止み難きものあり。余にも此際意を決して同行せよ。毎夜ラヂオを聞いて時勢を推察するに,荏苒として日を送らば遂に帰るべき機会を失う虞ありと勧めて止まず。

余もとより蘇武俊寛の悲しみに陥らむことを恐るゝ者なり。唯東京行切符を得ることの難さを慮ふるのみ。然れども村田氏の語るをきゝ 地獄の沙汰も金次第 の噂あれば万事を依頼して細君のかへりを待ちたり。夕飯に鰻を食す。


八月廿九日。

晴れて風涼し。正午村田氏の細君と共に岡山駅に至り, ツーリストビューローの事務員 に面会し,金子一包を贈り,東京行の切符を手にすることを得たり。事皆意外の成就にて夢に夢みる心地なり。 ・・・・・ 

五時過の汽車にて総社の旅宿に帰る。村田氏の一家と共に赤飯を食す。蓋し帰京出発の前祝なり。



つづく

by yojiarata | 2015-12-23 22:19
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