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満州の妖怪  と その末裔  安倍一族  巻の2




【太田の著書】 の271ページ に,次の記述があるよ。


・・・・・ 岸ほど正面切って関東軍にものを言える人物は,満州広しといえども,いなかった。満州に来て早々,関東軍参謀長で満州事変の張本人である板垣征四郎に向かって,開口一番「私は日本を食い詰めて来たのではありませんよ」と言ってのけたが,悲運に泣く満州エレジーの主人公たちなどとは,訳が違うと言いたかったのである。


プライドの塊みたいで,ふてぶてしいほどの自信家は,実際,周りがハラハラするほど,あけすけにものを言った。これには,肩で風を切って歩く関東軍の参謀連中も,形無しである。



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田尻育三の著書には,岸に係わりをもったさまざま人物とのインタビューが残されているよ。満州時代の岸について,これだけ多くのインタビュー記事が,一冊の著書に集めれているのは珍しいと思います。


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左下の写真は,巣鴨プリズンを出所して帰宅した時のやつれてひげ茫茫の岸信介
右の大きな写真は,昭和の妖怪と恐れられた岸信介

田尻育三 『 昭和の妖怪 岸信介』 (学陽書房,昭和54年)



やつれ顔の写真(共同通信社)が撮られた日付は,昭和23年12月24日となっているよ。それが何と,同じ巣鴨に収容されていた東条英機ら,7人のA級戦犯が処刑された翌日のことなんだ。



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田尻育三 『 昭和の妖怪 岸信介』 (学陽書房,昭和54年)を度々引用するけど,以後 【田尻の著書】 と 略称することにします。



【田尻の著書】 の 「あとがき」 に,次のように書かれているよ。


本書に収録したのは,月刊誌『文藝春秋』 の52年11月号に掲載された「満州の妖怪 - 岸信介研究」と同誌 53年7月号の「岸信介研究 - 戦後編」をつなぎ合わせたものである。両レポートとも,岸を知る人たちの証言を中心に構成する手法をとっているので,収録にあたっては,いっさいの加筆修正をしなかった。「その時点での証言」の価値が失われるのを恐れたからである。従って証言者の年齢,肩書などはすべて発表当時のままとした。今日では当然ズレや変化が生じていることをお断りしておきたい。


岸研究に取組むにあたり,欠かせない人物としてつっかい棒の役割を果たしてくれた星野直樹は,戦後編の執筆が終わりかけていた昨年5月29日に他界し,証言者のうち内田常雄ら何人かも死去した。改めて取材協力に感謝し,ご冥福を祈るばかりである。



岸信介 と 関東軍 




引き続き,【田尻の著書】 から,重要な点を引用します。


岸が赴任したころの関東軍は,植田謙吉司令官(大将)を頭に,参謀長の板垣,憲兵隊司令官の東条英機らが構えており,12個師団と2飛行機集団,1騎兵旅団,13国境守備隊,9独立守備隊などをひきいて,ざっと70万の巨大な陣容だった。


建国直後の昭和7年3月中旬,当時の司令官本庄繁中将は,執政職にあった溥儀(後に皇帝)との間で「日満共同防衛のため関東軍が無期限に満州に常駐する」との秘密協定を結んでいた。満州国政府の日本人官吏に対しても実質的な任免権を握り,「内面指導」と称して満州国の行政に直接,間接に介入,事実上満州国を支配していたんだ。


そうしたオールマイティともいえる関東軍を岸は巧みに操作した。岸の部下だった 古海忠之 (77歳,元満州国総務庁次長,現東京卸売センター社長)の証言によれば,


「岸さんは関東軍に対しては事前に手を打って摩擦や衝突の起こらないようにしたうえで,仕事を進めていくとやり方をとっていました。満州でも誰でもそうやりますが,岸さんの場合は,水際だっていましたね」


という。



岸の周辺にいた 高橋源一 (80歳,元満州国総務庁弘報処参事官,現在は引退)は,


「彼は関東軍にうけがよかったし,気に入られるように振るまってもいた。満州で実権を握っていた東条参謀長とも,親しいというよりは岸さんが東条にうまく調子を合わせているという感じだった」


といい, 平井出貞三 (86歳,元満州国交通部次長,現在は引退)も こう証言している。


「岸さん は 理屈の通らないことでも平気でやってのける人だったが,それがうまくできたのは軍と結びついたからですよ。軍人の気質と現状を巧みに利用し,うまく立ち回ったはずです。


それに,岸さんは満洲へ来る前から政治家だったということではないですか。つまり,すでに軍部を手をつないでいたということです。そういううわさを当時よく耳にしました。とくに参謀長になる前の関東軍憲兵隊司令官である東条さんとは親しかったようですよ」


古海忠之は,田尻の質問 「岸信介が満州国時代,政治的にどんな動きをしたか? 」 に答えて,


「そりゃあ,いえないな。エピソードはたくさんあるけど,書かれては困るような話ばかりだよ。書かれると岸さんが可哀相だからね。ボクは岸さんに非常に近い部下だったから」


かって満州国の総務長官(事実上の総理大臣)をつとめた 星野直樹 による手記には,次のように書かれているよ。


「人間一生のうちには,一つの決断とか,動きとかが,生涯の行路に重大な影響を与え,時には,その方向を決するという場合も少なくない。岸信介君が商工省工務局長を地位を投げ打って,満州国にはいったことは,岸君にとって人生の重大な決定であったと思われる。


岸君は,在満3年で,商工大臣として東京に帰って行った。だが,帰って行った岸君は満州に来た時の岸君ではなかった。 ・・・・・ が帰って行った岸君は商工省を離れて,客観的に立派な日本の政治家に成長していた。」


星野直樹は,古海らとともに大蔵省組のキャップとして建国直後の昭和7年7月に渡満し,15年7月までの8年間,日本の支配下におかれた新興国の骨格づくりに取り組んだ。岸は昭和11年から14年までの三年間,星野の下につかえ,総務庁次長(事実上の副総理)として,辣腕をふるったとされている。


のちに星野は近衛内閣の企画院総裁(国務大臣)に招かれて帰国,東条内閣では書記官長(岸は商工大臣)として,太平洋戦争開戦の詔書を書いた。戦後はA級戦犯に問われ,極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役,昭和30年12月に仮出所。


星野が,手記 『岸信介来り又去る』 を書いたのは,仮出所後1年半,岸が内閣を組織してから半年後のことである。


かつての部下が総理大臣の椅子に昇りつめたことへの祝詞は,一行もない。


昭和23年2月の法廷において,国際検事団はA級戦犯容疑者, 星野直樹 の罪状朗読の中で,


「1938年(昭和13年)から1945年(同20年)まで,北支派遣軍の特務部の下で,中国においてアヘン作戦を実行した証人サトミ は,1940年(同15年)まで彼によって販売されたアヘンは,ペルシャ製 のものであったが,その彼は 満州産アヘンを販売したと証言した」 (極東国際軍事裁判記録第372号)


と述べている。



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岸という人は,周囲の人たちには,あまり人気がなかったようだね。だけど,自分の将来がかかっている,とくに,上の人間,例えば,東条英機とは,上手に付き合うというか,利用していたんだね。それは,岸と東条の戦後が見事に物語っているよ。


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政治の裏側に通じている 伊達宗嗣 (55歳,国際経済研究所勤務)の話


「政治資金調達システムを編み出したのは岸なんです。政治家は汚いカネにさわってはダメだというのが彼の持論で,そのノウハウを考え出した。それまでにそんなことを考え出した保守党政治家なんて誰もいませんよ。つまり,あいだに人をおくということですよ。このあいだに立つ人をいうのは,代理ではない。第三者的な立場でカネをうけとるべきだちうわけです。戦後,巣鴨を出てから彼ははっきりと意図してそれをやった。


それには教訓があるんです。戦前,政府のアヘン政策は大本営が全部やっていたが,実際にそれをやっていたのは民間人です。僕は, 里見(甫・故人) からそれを聞いて知っている。たとえば,里見が上海でアヘンを使って集めたカネというのは,当時,全部汪兆銘政府の政治資金だった。一日で何億というカネが集まるんですよ。それを他に回すわけだ。そのテクニックを岸は全部知っていた」



里見甫 と 岸信介



里見 は戦前,満鉄から満州国通信社社長を経て,のちに上海に移り,上海を拠点にアヘンの元締めとして謀略と特務工作にかかわっていた。


里見と岸の関係について,戦前,満州国政府機関紙『斯民』の編集者として二人とつきあいの深かった 福家 は,


「里見は,満州国通信社をやっていて,岸さんは満州政府の高級官僚だったから,会見やら何やらで里見とつきあうことも多く,知り合いになったんだ。 ・・・・・


さらに,里見は満鉄出身ということで,岸さんの叔父にあたる松岡洋右・満鉄総裁に非常に可愛がられてね。こちらの関係からも岸さんと親しくなったということがあった。


そのあと,私は甘粕(正彦)さんが上海につくった 『大陸新報』 の社長になり,満州から上海に移ったが,里見もアヘンの関係でその後上海に移った。上海に行ってからも,里見はときどき日本に帰ってきており,その際には日本で岸さんにもあっていたようだ。


里見は本物の中国浪人であり,国士だった。里見,甘粕,岸さん,私らは,当時みんな仲間だった」


と解説した。戦前のアヘン取引で,戦後,里見はGHQ から追われていたというが,40年3月21日,68歳で死んだ。


千葉県市川市にある里見の墓をのぞいてみた。墓石の片隅に岸の手になる「岸信介書」の文字が刻み込まれている。

【田尻の著書】
206ページ


岸当人も昨年7月,高齢を理由に政界引退を声明した。・・・・・ 国際舞台ではこれからも動くと宣言し,その後は公約どおり精力的に立ち回っているので,厳密には引退とは言い難い。しかも,年初来のグラマン・ダグラス騒動では「時の人」である。82歳にして,なおこの生臭さを持続し得ているところが,いい意味でも,悪い意味でも岸の本領なのだろう。







つづく

by yojiarata | 2014-10-15 10:49
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