ご隠居さん 南方熊楠の生い立ちについて,知りたいんだけど。 君の質問に答えるために,熊楠自身が,矢吹義夫宛に書いた書簡の一部を引用するよ。 南方熊楠全集 第七巻 書簡Ⅰ 履歴書(矢吹義夫宛書簡) 昭和四十六年八月九日初版発行,平凡社 6 ページ 【小生は慶応三年四月十五日和歌山市に生まれ候。父は日高郡に今も三十家ばかりしかなき,きわめて寒村の庄屋の二男なり。十三歳の時こんな村の庄屋にところが詮方(せんかた)なしと思い立ち,御坊町と申すところの豪家へ丁稚(丁稚)奉公に出る。沢庵漬を出し来たれと命ぜられしに,力足らず,夜中ふんどしを解き梁(はり)に掛けて重しの石を上下し,沢庵漬を出し置きし由。その後,和歌山市に出で,清水という家に久しく番頭をつとめ(今の神田鐂蔵氏細君の祖父に仕えしなり),主人死してのちその幼子を守り立て,成人ののち到仕して南方(みなかたという家へ入婿(いりむこ)となり候。この南方は雑賀(さいが)屋と申し,今も雑賀屋町と申し,近ごろまで和歌山監獄署ありしその辺がむかし雑賀の宅なりしなり。 ・・・・・ 】 7-8 ページ
【明治十二年に和歌山中学校できてそれに入りしが,学校にての成績は成績はよろしからず。これは生来事物を実地に観察することを好み,師匠のいうことなどは毎々間違い多きものと知りたるゆえ,一向傾聴せざりしゆえなり。】 それにしても,物凄い人だね。 【明治十六年に中学を卒業せしが学校卒業の最後にて,それより東京に出で,ひたすら上野図書館に通い,思うままに和漢洋の書を読みたり。したがって欠席多くて学校の成績よろしからず。十九年に病気になり,和歌山へ帰り,予備門を退校して,十九年の十二月にサンフランシスコへ渡りし。商業学校に入りしが,一向商業を好まず。二十年にミシガン州の州立農学に入りしが,耶蘇(やそ)教をきらいて耶蘇教義の雑(まじ)りたる倫理学等の諸学課の教場へ出でず,欠席すること多く,ただただ林野を歩んで,実物を採りまた観察し,学校の図書館にのみつめきって図書を写し抄す。 そのうち,日本学生がかの邦の学生と喧嘩することあり。これは haze (ヘイズ)とて,上級の学生が下級の学生を苦しむるを例とする悪風あり。小生と村田源三(山県,品川,野村三家より給費してこの学校にありしひと,嘉納治五郎氏同門にて柔道の達人。嘉納氏も腕力は及ばざりしほど強力の人なり),三島桂(中州の長男。毎度父をこまらせ,新聞を賑わせし,はなはだ 乱坊(らんぼう)な人。只今式部官たりと聞く)二人と話しおる日本語が聒(やかま)しいとて,学校の悪少年ら四,五輩室(へや)の戸を釘付けにし,外へ出るを得ざらしめたう上,ポンプのホースを戸の上の窓より遠し,水を室内へ注ぐ澆(そそ)ぎしなり。 その時村田剛力にて戸を破り,三島はピストルを向けて敵を脅かせり。小生はさしたる働きもせざりしがこのこと大評判となり,校長の裁判にて学生三人ばかり一年間の停学を命ぜらる。しかるに,この裁判の訴文を小生が認(したた)めたるをもって,小生をほむるものと悪(にく)むものとあり。その歳も終えて寄宿生一同帰郷の前夜,小生をほむる者ども,小生ら三人と寄宿室に小宴す。その時,一人町にゆきて,ホイスキーを買い来たり,おびただしく小生に飲ます。その場はたしかなりしが,自分の室のある建築に帰るうち,雪を被(かぶ)りておびただしく酔いを発し,廊下に臥せり。 校長ウィリッツ(のちに農務大臣次官で終わられし。この時六十余歳の人)雪を冒して寄宿舎を見まわるうち,小生の廊下に偃臥するを見,村田をよびきたり,灯をむけてこれを見せしめ,村田大いに弱り入りて,小生を校長とともに扶け負いて小生の室に入れたり。翌朝早く眼をさませしに,村田来たりて事の次第をいう。さて,日本学生一同議せしは,かかる珍事ありし上は早晩今度は日本学生が校長の裁判を受けざるべからず。しかるときは三人ことごとく飲酒の廉(かど)をもって放校されん。不肖にはあるべけれど熊楠一人その罪を負いて速やかに脱走しては如何(いかん)とのこと。しかして当夜会飲せし米人学生らも何とぞ左様にしてほしいと望む。多人の放校さるところを一人にて事済まば結構なりとて,小生は翌朝四時に起き,毛氈一枚もちて雪中を走りて(七マイルばかり)ある停車場に達し,それよりアナバーという処に至り駐(とど)まる。 ここには日本人学生二十人ばかりありし。 ・・・・・ ここにて小生は大学校に入らず,例のごとく自分で書籍を買い標本を集め,もっぱら図書館にゆき,広く曠野林中に遊びて自然を観察す(その時の採集品は今もあり)。 ・・・・・ かくて二,三年おるうち,フロリダで地衣類を集むるカルキンス大佐と文通上の知人となり,フロリダには当時米国学者の知らざる植物多きをたしかめたる上,明治二十三年[二十四年の誤り]フロリダにゆき,ジャクソンヴィル市で支那人の牛肉店に寄食し,昼は少しく商売を手伝い,夜は顕微鏡を使って生物を研究す。 ・・・・・ 二十四年にキュバに渡り,近傍諸地を観察す。所集の植物は今もあり。大正四年に,米国植物興産局主任スウィングル氏田辺に来たり一覧せり。この人も,ちょうどそのころフロリダにありしなり。小生の所集には,今も米人の手に入らぬもの多く,いまだに学界に知れざるものあるなり。キュバにて小生発見せし地衣に,仏国のニイランデーがギアレクタ・クバナと命名せしものあり。これ東洋人が白人領地内において最初の植物発見なり。 ・・・・・ 当時集めし虫類標本は欧州をもちまわりて日本へもち帰りしが,実弟方にて注意足らぬゆえ一虫の外はことごとく虫に食われ粉となりおわる。 ・・・・・ これら小生西半球にて集めたるもの,ことに菌類標本中には,日本人が白人領土内にて発見せるものとして誇るに足るべきもの多くのこりあり。しかるに一生不遇,貧乏にして,今に自分の名をもって発表し得ざるは古今の遺憾事なり。】 10-11ページ 【明治二十五年に米国へ帰り,その年九月に英国へ渡りし。その船中にあるうちに,父は和歌山にて死亡す。・・・・・ この亡父は無学の人なりしが,一生に家を起こせしのみならず寡言篤行の人にて,そのころは世に罕(まれ)なりし賞辞を一代に三度まで地方庁より受けたるなり。 ・・・・・ いわんや何の学問もせず,浄瑠璃本(じょうるりぼん)すら読みしことなき人にしては,いまだ学(まね)びずといえども,われはこれを学びたりと謂わんか。 ・・・・・ 】 熊楠自身が書いているんだけど,興味深いね。 ≪民族と歴史≫ 南紀特有の人名 ― 楠の字をつける風習について ― 「全集 3」 439-444ページ 439 ページ 【楠の字を人名につけることについて,予は明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』二四巻二七八号の三一一頁(「出口君の『小児と魔除』を読む」)に次のごとく記した。いわく,「今日は知らず,二十年ばかり前まで,紀伊藤白王子社畔に楠神と号し,いと古き楠の木に,注連(しめ)結びたるが立てりき。当国,ことに海草郡,なかんずく予が氏とする南方苗字の民など,子生まるるごとにこれに詣で祈り,詞官より名の一字を受く。楠,藤,熊などこれなり。この名を受けし者,病あるつど,件(くだん)の楠神に平癒を禱る。知名の士,中井芳楠,森下岩熊など,みなこの風俗によって名づけられたるものと察せられ,今も海草郡に楠をもって名とせる者多く,熊楠などは幾百人あるか知れぬほどなり。予思うに,こは本邦上世トテミズム行なわれし遺址の残存せるにあらざるか。三島の神池に鰻を捕るを禁じ,祇園の氏子胡瓜(きゅうり)を食わず,金毘羅に詣る者蟹を食わず,富士に登る人鰶(このしろ)を食わざる等の特別食忌と併せ攷うるを要す」(下略)。 予の兄弟九人,兄藤吉,姉楠,妹藤枝いずれも右の縁で命名され,残る六人,ことごとく楠を名の下につく。なかんずく予は熊と楠の二字を楠神より授かったので,四歳で重病の時,家人に負われて父に伴われ,未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の樹を見るごとに口にいうべからざる特殊の感じを発する。 ・・・・・ 】 (大正九年十一月 『民族と歴史』 四巻五号) 追記 熊楠の著作全部にわたって登場する人物についての記述は,「全集 9」 書簡 Ⅲの巻末におかれた「書簡解題」に詳述されています。 南方熊楠全集 第九巻 書簡 Ⅲ(平凡社,昭和四十八年三月一日,初版発行) 625-630ページ
by yojiarata
| 2014-07-17 16:38
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