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南方熊楠  巻の十二  父 と 娘





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笠井清
人物叢書 南方熊楠
日本歴史学会編集(吉川弘文館発行,昭和57年12月10日 5刷発行)


340-341
死を覚悟した熊楠は,『今昔物語』の扉(とびら)に,

昭和十六年十二月十六日,神田神保町一誠堂に於て求む。娘文枝に之を与ふ。

と一字一字丁寧に心をこめて書いている。筆者は初め『今昔物語集』をこの期におよんで送った理由を,この物語が彼の愛読書であり,折口信夫(しのぶ)をして,「今昔物語は難解な本で,この注釈は紀州の南方熊楠さんくらゐしか出来る人はないだろう」といわしめたほど精通していた書なので,今生(こんじょう)の形見に贈ったのかと解していたが,後にその真意は,「今後の戦局は予想できず,空襲その他の戦災で家を失い,他に移らなくてはならなくなるような事態を生じたとき,この一冊さえ持っていて,南方の娘であることが分かれば,たれかがまた支援してくれることもあろう」との顧慮であったことを聞き,父としての深い慈愛のこもった遺書であることを知り得た。

・・・・・

二十八日の朝は,いくらか気分がよかったが,その夜いちじるしい病変が現れたので,文枝が「お医者さんをお呼びしましょうか」と問うと,彼は,

もういい。この部屋の天井に美しい紫の花が咲いている。医者が来れば,この花が消えるからよばないでくれ。

と答えたそうで,この詩のような言葉 ― 進講を承った光栄の日,紫の樗の花の咲いていたのを,臨終の脳裡にふと想ったような言葉 ― を最後として深い眠りにおち入り,二十九日午前六時三十分,幸と不幸との入り交じった多事な七十五年の生涯を終った。


南方文枝 『父 南方熊楠を語る 付 神社合祀反対運動未公刊資料』
(谷川健一,中瀬喜陽,吉川寿洋 編集)
昭和57年12月10日第2刷発行
日本エディタースクール出版
77-80ページ

「回想断章」 母 ・・・・・ 昭和十六年父の死とともに,遺稿書籍等,数多の買手が訪れ始めたが,母は保存して置けば,いつの日か日の目を拝むこともあろう,とその散逸をおそれ,頑として聞き入れなかった。

いつまでの父の霊が書庫の中に生き続けて居ると信じてか,お盆が来れば迎火を焚き,第一に書庫をひらき,眼鏡を添えて「さあ,おはいりなさいませ」と挨拶する母であったが,昭和三十年十一月六日菊香る朝,七十七歳の生涯を閉じた。

世事には殊更疎く波乱多かりし学者の夫に仕えて一生を地味に生き抜いた明治生まれの女である。


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結びに,熊楠の第2子・(長女)文枝のことばを,平凡社版・南方熊楠全集が完結した最終巻の月報から引用します。



『追想』

岡本文枝


南方熊楠全集 月報 12 (昭和 50年 8月)


春夏秋冬の主人の休暇を利用しては,紀州田辺の陋屋に帰り,亡父遺愛の書庫の風通しや防虫剤の入れ替え,そして故人が特に愛し育てた小動物の中で,今なお元気で産卵を怠らない,年を経し魚達の様子や如何にと,とても忙しいスケジュールであるが,数十年間,飽きもせずに,この行事を続けているのである。

閑静な屋敷町に在り,時には海鳴りも聞こえて,今なそ小鳥が庭木に巣をかける。あまり広くもないこの家は,亡父にとっては,七十五歳の生涯の大半を過ごした唯一の安息の場所であった一昨年はすでに三十三回忌を迎えた遠い人であるが,今も夢の中で見るのは,四十,五十代の健康な父であり,筒袖の着物に,自分の父の形見だと大切に扱っていた紫紺色の角帯をきちんとしめた冬姿が,少し暖かくなると,いつも制服のように常用していた,白い襦袢と白い腰巻きの上に幅の広い黒の前掛をあて,右手にルーペを握った父の姿である。

台風で高波の続いた後は,朝早く魚籠を肩に父のお供をして,打ち寄せられた色とりどりの海藻や貝を籠一杯に拾って帰り,その一つ一つの名を教わり,また,標本作りの楽しさを教えられた。自分では紐一つ上手に結べない不器用な父であったが,茸の解剖や標本の作製に取りかかると,まるきり別人の手指の如く馴れた手つきで巧みに扱うので,不思議な気がしてならなかった。





連載を終わって

by yojiarata | 2014-07-20 13:06
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