ご隠居さん お医者さんでもないのに,何を話そうというの。 私は,薬学の出身です。しかし,私が学生の頃は,薬学科は医学部の一部だったから,医学部薬学科を卒業したんだよ。そのお蔭で,医学部の先生の授業も沢山聴いたし,解剖(実際には司法解剖)も見学したり,大いに勉強したんだ。 その時の経験をもとにして,『がんとがん医療に関する23話 がん細胞の振る舞いからがんを考える』(薬事日報社,2009)を出版しました。薬学のバックグランドをもった人間には,お医者さんとは違った方向から,「がん」 をみることができるからね。 これから,本を執筆した時に集めた色々なデータをもとに,「がん」 について書くけど,細かなことには気にせずにドンドン飛ばして読んで,必要なら何回も元に戻って,要するに感覚をつかんでほしいんだよ。 それと,がんについての個々の知識は,この後の項目 癌に 関する 解説と 統計データ に引用した 国立がんセンターのウェブ・サイト「がん対策情報センターがん情報サービス」,がん研有明病院のウェブ・サイト 「がんに関する情報」に,大変わかりやすく書かれているので是非利用してください。 地球に誕生して以来,人類はありとあらゆる病気に悩まされ続けてきました。人類と病気の闘いは,さながらモグラたたきのようです。コレラ,チフス,ペストなどの急性伝染病,梅毒,結核などの慢性伝染病をその時その時で何とか押さえ込んだ今,気が付いてみると,あたかも引き潮になって姿をみせる昆布や岩のように,長い間出番を待っていた脳梗塞,心筋梗塞,そしてがんが我々の前につぎつぎに姿を現す事態となりました。 がんは先史時代から人を悩ませていたようです。ジャワ原人の骨やスイスのミュンジンゲンで発見された新石器時代の戦士の上腕骨に「骨肉腫」(骨の悪性腫瘍)の痕跡が認められるといいます [⇒ ピエール・ダルモン(河原誠三郎,鈴木秀治,田川光照訳)『癌の歴史』(新評論,1997,29-30ページ)]。 我々のからだは,数十兆個にも及ぶ細胞から成り立っています。からだの表面は皮膚によって覆われ,からだの中では細胞の様々な組み合わせによって,人が人として活動できる舞台が整っています。ほとんどの細胞は,つねに再生され,そのために細胞分裂が行われています。古い細胞の消滅,新しい細胞の新生によって,人のからだはバランスを保っています。しかし,一旦このバランスが崩れると,人のからだに様々異変が起きます。腫瘍はその代表的,かつ,最も危険な異変です。 腫瘍(tumor)は,読んで字の如く 「はれもの」 です。細胞分裂時の突然変異によって発生した腫瘍細胞が,免疫系の監視を潜り抜けて,生体から排除されることなく分裂を繰り返し増殖し 「はれもの」 となります。健康な人の細胞が備えるべき秩序が失われると,細胞が闇雲に突っ走る結果として腫瘍が形成されます。 2千年以上も前に生きたギリシャの哲学者ヒポクラテスによる著作には,すでに乳がんについての記載がみられます [⇒ ヒポクラテス(小川政恭訳)『古い医術について 他八篇』(岩波文庫,1963)]。体の表面に出来た乳がんのかたちが,甲羅から足を伸ばしたカニのかたちに似ているところから,カニを語源とする cancer(英語), Krebs(ドイツ語),carcinoma(ラテン語)が用いられることになったといわれています。 腫瘍(tumor)は,地理的にはある国の一部でありながら,独立を主張し,その国の憲法を全く無視して勝手気ままに行動して勢力を拡大していく「革命自治政府」のようなものです。腫瘍は,新生物(neoplasm)と悪性新生物(malignant neoplasm)に分類されます。 新生物は,腫瘍が発生した部位の正常の細胞と姿,かたちがほとんど変わらない細胞から成り立っています。新生物は良性腫瘍(benign tumor)と同義語です。良性腫瘍の細胞は増殖が遅く,腫瘍が一定の大きさに達すると増殖が止まります。その結果として腫瘍は局所にとどまり,浸潤も転移も起きません。良性腫瘍は,必要なら手術によって摘出することも可能です。特別の場合を除いては,良性腫瘍が致命的になることはありません。よく知られた例外は脳腫瘍です。硬くて狭い閉鎖空間に発生した腫瘍は,たとえ良性であっても一命に関わることがあります。 一方,悪性新生物すなわち悪性腫瘍は,自らの周りの組織を破壊しながら増殖を続け,さらに血液,リンパ,体腔などを介してからだの各所に飛び火します。悪性新生物,悪性腫瘍(malignant tumor),がん(cancer)は全て同義語です。 良性と悪性は,言葉の上では明確に区別がついているといえばついているのですが,現実的には必ずしもそうとも限りません。良性にもいろいろな種類があり,良性腫瘍が悪性化することもあります。さらに困ったことに,組織全体をみると,一部が良性,一部が悪性という場合さえ知られています。当然といえば当然ですが,生物の理解の難しい点です。 診察を受ける側にとっては,良性と悪性の区別は極めて重い意味をもちます。がん検診で,“腫瘍がありますが,幸い良性です”と告げられれば安心し,その夜は熟睡できます。しかし,実際には,良性と悪性の区別は微妙なことが少なくありません。診断した医師から,“ 現在のところ心配はありませんが,半年か一年したら,念のためもう一度検査しましょう ” と告げられることもあります。その時,その時で,担当の医師から納得がいくまで説明を聞いていただきたいと思います。 国立がんセンターのウェブ・サイト「がん対策情報センターがん情報サービス」,がん研有明病院のウェブ・サイト 「がんに関する情報」には,我々ががんについて知っておくべきあらゆることが大変わかりやすく書かれていて,非常に役に立ちます。是非利用してください。 世の中では,漢字の「癌」が使われたり,ひらがなの「がん」が使われたりするでしょう。 しかし,病理学 (病気の理を極める学問) では,「癌」 と 「がん」 は厳密に区別されて使われています。病理学の専門家は,片仮名の「ガン」は使いません。 「癌」 は,人体の ” 表面 ” に発生する悪性腫瘍を指し,人体の ” 表面 ” でない ” 内側 ” に発生する悪性腫瘍は,「肉腫」 とよんで「癌」と区別しています。 嘗て,東京の西巣鴨(現在の大塚)に,「財団法人癌研究会癌研究所」(癌研)がありました。吉田富三先生が所長をしておられた頃から,癌には肉腫が入らないから 困るといっておられたと聞いています。癌研は,現在は,東京江東区の臨海副都心で,がん研有明病院として治療が行われています。 上皮から発生する癌に対し,ストローマ(悪性腫瘍に栄養を供給している組織の総称,登山する人のためのベース・キャンプのようなものです),非上皮組織(骨,軟骨,血管,筋肉,神経など)から発生する悪性腫瘍を肉腫とよびます。 人のからだの至るところから悪性腫瘍が発生します。しかし,はっきりといえることがあります。それは,結合組織や支持組織など,体の表面に露出していない ” 内側 ” の組織からも悪性腫瘍は発生するけれど,ほとんどの悪性腫瘍は,体の ” 表面 ” にある上皮組織から発生するという「経験的事実」です。 経験的には,肉腫は癌に比べて発生頻度が圧倒的に低いことが知られています。成人の場合,悪性腫瘍のなかで肉腫の占める割合は10%をはるかに下回ります。しかし,小児に限っていえば,何故か,肉腫は悪性腫瘍全体の15-20%に達します。 人の上皮組織の大部分は皮膚です。皮膚からは皮膚がんが発生します。しかし,上皮組織は皮膚だけではありません。上皮組織の表面はがんの多発地帯です。ただし,ここで私がいっている “ 表面 ” は,皮膚のように,われわれが目で見たり手で触ったりして,直感的に理解できるものばかりではありません。 表面と内側の区別は何か?だって。 もっともな質問です。今から,その質問に答えます。 悪性腫瘍の病理学を,分りやすい独特な表現で説明してくれたのは,同じ年に大学に入学した青木幹雄君です。医学部に進学,吉田富三門下となり,主に婦人科の病理標本を見続けること50年近く,圧倒的なプロの実力をもっています。だから話が分かりやすい。 好奇心旺盛な私は,薬学に進学したんだけど,永年にわたって彼の話を聞いてきて,現在に至っています。 表面と内側の説明で,青木君の説明ほど,説得力のある説明はありません。 つぎのような仮想の実験を想像してください。 体内の組織に触っても傷つけないように注意して作った細くて軟らかいプラスティックの長い棒を口からそっと差し込んでみます。この棒は,食道から,胃,小腸,大腸,肛門を通って体の外に出ます。すなわち,食道から肛門に至る消化管の上皮組織はすべて体の表面として外に露出しているのです。 肝臓の細胞も上皮細胞です。お酒が過ぎると,胃液や胃の内容物と一緒に,胆汁を吐きます。肝臓の細胞が口につながっているからです。ヒトのからだからは尿も出れば,汗も鼻水も出ます。体液が出てくるところは,すべて表面です。 似たような状況を想定すれば,子宮の内面も表面であることが理解できるでしょう。子宮体部の表面を形成する子宮内膜は,生理のたびに剥がれ落ちて,血液とともに体外に流れ出ます。 別の例を挙げれば乳管です。 母乳を作る乳管細胞が乳頭を通って外に繋がっていなければ,おなかを空かせた赤ちゃんの口に母乳は入りません。肺もまた表面でその機能を発揮します。酸素を取り込み,二酸化炭素を吐き出すためには,肺胞の表面が口につながってなければなりませんから。
by yojiarata
| 2013-12-08 23:34
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