回想の前田山英五郎  第1話



前田山英五郎 殺気と迫力 万年大関編


万年助教授という言葉に親しみを感じる。万年助教授に分類される人には,懐かしくも面白い人がいるというのが,万年助教授であった自分に対する励ましでもあった。

万年大関の前田山(1914-1971)は,戦前,戦後のわが家のヒーローであった。時代も体型も性格も違うが,懐かしい人であるという点で,朝青龍と比較したくなるお相撲さんである。筆者の母は,前田山のファンのくせに,「出世するお相撲さんは,小結,関脇,大関,横綱とトントン拍子で上がっていくもので,前田山のように,せっかく大関までいったのに,上がったり下がったりしていては,絶対に横綱になんてなれないんだ」などと,いまでいう評論家と同じように無責任なことを言っていた。

本業である医師の仕事をそっちのけにして,何でもやたらと手を出す困った性格の筆者の父は,自分と同じように,ダンスや玉突きや野球に夢中になっている前田山がひどく気に入っている様子であった。前田山の部屋からは,ジャズが響きわたっていたという。

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前田山の相撲は,多くの人を惹きつけたと思う。奇手の“張り手”が突如として飛び出す,恐ろしく元気な前田山を知らない人はいなかった。しかし,張り過ぎをよしとしない人がいたこともまた事実である。昭和12(1937)年5月の夏場所,前頭5枚目の前田山は,連勝を続けていた破竹の大関双葉山に挑戦し,上手投げで敗れた。この対戦のあと,前田山の張り手に議論が集中した。

前田山は,昭和12(1937)年入幕,前頭2場所,小結1場所のあと,関脇を飛び越えて,1年で大関に昇進した。昭和13(1938)年の春場所千秋楽の翌日の新聞に,「前田山会心の笑み(けさ撮す)」の見出しのついた大きな写真とともに,つぎの記事が掲載されている。新聞記事は,全て原文のまま。

1月27日

【気焔吐く前田山 廿五歳で大関 けふ滿場一致決まる】昭和13年春場所を希有の人気の中に打ち終えた満悦の大日本相撲協会は26日は荘重な新番付編成会議 午前9時協会楼上に集まった取締,理事,検査役一同は明日に改選を控えているだけに緊張して会議に列したが,席上誰が口を切るともなしにこの場所猛烈な元気で土俵を飾って大観衆を唸らした新小結前田山の大関昇進問題が議題に上がって忽ち満場一致で彼の大関が承認された。】

愛媛県西宇和郡喜木村大字喜木の産,15歳地方巡業に来た高砂一行に見出されて入門した彼は昭和4(1929)年1月が初土俵,7年1月幕下,8年5月十両と順調であったが右腕の骨髄炎に罹って不幸。二場所を休場。この時慶大整形外科前田和三郎博士の献身的な努力によって二場所の休場で快癒した彼は当時の力士名佐多岬をやめて前田山と名乗りここに華々しい更生の一歩を踏み出した。以来彼の闘志はいかなる相手ものんで11年1月には十両に返り。翌年1月には入幕,そしてまたゝく間に小結となり大関となってしまった。

前田山談

【わしに,張り手をやめろと言うのは相撲を止めろと言われるのとおなじですよ。わしは昨年夏双葉関を張った以外,自分で張ろうと思って張った事は無いんです。相手が悪いんですよ。頑張りますよ。恐いものなんかないからね。】

横綱昇進を目指す前田山の前に,双葉山と羽黒山がつねに立ちはだかっていた。昭和14(1939)年夏場所から,10勝5敗,10勝5敗,11勝4敗の成績を残した前田山は,昭和16(1941)年春場所,横綱羽黒山,続いて横綱双葉山を連破した。

横綱昇進をかけた前田山必死の挑戦を,新聞はつぎのように生々しく伝えている。いまテレビで見るタレントのショーのような相撲とは別世界のことのように思える。

1月22日
【勝放し双葉獨り 凄壮羽黒,前田の決戦】大鉄傘も揺れんばかりに沸き立つ渦の中に全勝を誇る両大関安藝ノ海,羽黒山が揃いも揃って遂に最初の土をつけられて場内はただ熱狂の渦,大鉄傘も揺れんばかり沸き立つこの中に双葉のみは悠々白星を重ねて三役,幕内,十両を通して唯一の勝放しとなり悠然たる無雙ぶり】

【勝放し双葉獨り 凄壮羽黒,前田の決戦】舷々相摩してともに負けられぬ相撲 羽黒と前田の一番は最初から異様な緊張が土俵に漲っていた。やがて時間いっぱい,しかも前田は“待った”羽黒の不快な表情,行司玉之助も何か気押された様に之を許したのが意気を更に掻き立てた。続いて二度目の仕切り顔面蒼白の前田はまだ構への出来ない相手に突っかかった。瞬間“ようしそれならと ・・・ 凄い光が羽黒の瞳にも走って緊張は遂に凄壮な殺気に迫った。

立つや満場騒然の中にも,ピシャピシャと前田の張手の音が鋭くなる。勝敗決して退場後もなお締込も解かず支度部屋に憤然立ちはだかった羽黒は

”いきなり引っ叩かれて眼が眩んぢゃった。土俵を割ったことなんか解るもんか。あんな手があるか。あれぢゃまるでケンカだよ,おい”

妖しいまでの殺気が未だ消えぬ前田は,凄い微笑を口許に浮べて無言。】

1月23日

【双葉遂に倒る 前田,捨身の吊り出し 立上がって双差しを狙う前田 突っぱねて前進する双葉,そこに何ら異変の予感はなかったのだが,次の瞬間猛烈な上突張りを張手まじりに連発しはじめた前田がガプッと双差しになると同時に明らかに攻守位置を変えた。】

つぎの説明とともに,4枚の写真が掲載されている。

【前田山闘志満面の上突張に殺気土俵に満つ】

【双差しから双葉捲変えて左四つ と見る間に決行した前田渾身の吊り】

【浴せんとする双葉を吊ったまま打棄りの体勢で仕止める前田,双葉の体宙に浮く】

【控えの男女ノ川の上に落ちて引き起こされる双葉山 勝った前田が表情を地獄から極楽に戻して土俵上から手をのべる】

取組後の双葉山

【勝力士の如くに悠々と正面に敬禮して混雑の中を支度部屋に引きあげた双葉山は黙々といつもの如く風呂に浸りポッと左頬を紅くして出た。そして左四ツだったよと誰にともなく言った。贔屓が,“アゴは痛くないか”と聞く。“いや痛くないよ別に”とニコニコ笑う双葉。左手で自分のアゴを動かしながら,“アッパーカットは痛いなあ”といったが何故左を捲変へたか?の質問に対しては モロだもの捲変えるのが当り前ぢゃないかののみだった。】

前田山は,双葉山に8回対戦し,善戦したが,この場所を除いてはいずれも破れている。69連勝以後の双葉山が,横綱,大関に破れたのは,この時の前田山のほかは照國だけである。

この場所は,双葉山が14勝1敗で優勝した。大関羽黒山が優勝同点であった。前田山は,松浦潟,玉ノ海,照國に破れ,安藝ノ海とともに,12勝3敗の準優勝に終わった。前田山の横綱昇進が見送られた。

太平洋戦争は,緊迫の度を増していた。

昭和19(1944)年夏場所は,関東大震災直後の大正13(1924)年春場所以来,20年ぶりの野外晴天10日間興行として後楽園球場で行われた。雨天と警戒警報発令で一週間順延になった。同じ年の11月,つぎの年の春場所が,予定を繰り上げて後楽園球場で開催された。春場所を冬寒期の野外で行うことが困難と予想されたためである。

変則的なこの秋場所で,前田山が遂に優勝した。前田山の優勝は,後にも先にもこの時だけである。前田山の優勝は,きわどいものであった。関脇東富士が同じ9勝1敗の成績を残したからである。前田山,東富士の1敗の相手は,いずれも名寄岩である。新聞に掲載された星取り表には,「優勝前田山(九勝一敗)」の下に,やや小さめの字で,「横綱大関を除く幕内優勝東富士(九勝一敗)」とある。

11月22日
【前田山優勝す レイテを偲んで緊迫感のみなぎる10日間であった ここに目出たく千秋楽の太鼓が鳴る 平野製鑵所に本拠を置いて敢闘した勤労力士前田山に榮ある優勝額があがり,同じ職場で闘った東富士がこれにつぐ 増産戦線から直ちに迎えた秋場所であったが,職場での寸暇を割いて熱心に稽古したものに輝く勝利こそ新しき相撲道の描く双曲線である】

この日の新聞は,1枚2ページである。表には,「乾坤一擲,レイテ島攻防戦」の見出しがある。裏には,新聞小説,大佛次郎『乞食大将』(19)が掲載されている。

【前田山,横綱に 夏場所を終えた大日本相撲協会では15日午前10時から両国大金で番付会議を開き,今場所9勝1敗の好成績を残した西の正大関前田山を39代の横綱として吉田司家へ推薦することに満場一致で決定した。】

戦後初めて誕生した横綱である。大関在位は,昭和13年春場所から昭和22年夏場所まで9年5カ月に及び,前田山は33歳になっていた。その前田山が,遂に横綱になった。

前田山の横綱免許状には,

【別に粗暴な振舞ある節は,この免許を取り消す】


の一文が付け加えられた。

大関18場所の前田山の成績

8勝5敗,9勝4敗,10勝5敗,10勝5敗,11勝4敗,12勝3敗,10勝5敗,2勝3敗10休,11勝4敗,11勝4敗,9勝6敗,9勝6敗,8勝2敗,9勝1敗,1勝2敗4休(戦災で被害を受けた両国国技館における非公開場所7日間),5勝5敗,11勝2敗,9勝1敗

第39代横綱前田山(昭和23(1948)年春場所から昭和24(1949)年秋場所まで,在位6場所,1年4ヶ月)の成績

6勝5敗,1敗10休,3勝6敗2休,5勝3敗5休,9勝6敗,1勝6敗8休(引退)。

横綱昇進時の年齢33歳1カ月(最年長),在位6場所(最短),横綱勝率4割7分1厘(最低)はいずれも,昭和の横綱の記録である。

横綱・前田山は身長181センチ,体重105キロ。弟子の高見山,孫弟子の曙に比べると,吹けば飛ぶような大きさである。体重を増やすためには,ホルモンの大量分泌が必要であり,そのためには,充分な昼寝が不可欠とされている。前田山の体重が増えなかったのは,あまりにも色々なことに忙しすぎて,昼寝をする時間がなかったためだと一説にいう。

昭和14(1939)年,25歳で結婚以来,5度の離婚・結婚を繰り返す。社交ダンス教師免許取得,囲碁4段,ゴルフ角界一,従五位勲四等旭日賞授賞。


つづく

by yojiarata | 2013-03-28 21:10 | Comments(0)
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