がんワクチン 現状と将来



2011年6月30日のブログで,『創薬 日本の現状と将来』と題して,専門家である平岡哲夫博士にさまざまな角度から,お話をうかがい,多くの読者を得ました。

今回は,再び平岡博士にお願いして,次の三つの話題について語っていただくことにしました。

「がんワクチン 現状と将来」

「iPS細胞と創薬」

「日本の製薬業界における人材の育成について」

平岡哲夫博士の略歴 1958年東京大学医学部薬学科卒業,三共株式会社において一貫して創薬の開発研究に携わり,研究所長,研究本部長,副社長を経て,2002年同社退社,同年より,三共有機合成株式会社社長,2006年同社退社,2008年THS研究所・所長),薬学博士


がんワクチン 現状と将来

荒田

がんワクチンとは何者でしょうか。

平岡

ワクチンは,細菌とかウイルス感染に対する予防薬として広く使用されています。がんの場合は普通の正常細胞には無く,がん細胞の表面にのみ存在する固有たんぱく質(多糖類などの場合もあります)を抗原(目印)として利用してワクチンを作製し治療薬とします。がん細胞特有の抗原(目印)を注射すると樹状細胞がこれを認識してその特徴を,白血球の仲間であるリンパ球の一種である “キラー T 細胞” に伝達し,この T 細胞が活性化され,数も増えてがん細胞を攻撃するのです。


荒田

一体どのようにして,がんを治すのでしょうか。

平岡

すでにお話いたように,抗原を認識して活性化したキラー T 細胞ががん細胞を攻撃して死滅させるか,休眠状態にします。問題もあります。腫瘍細胞の中には人体の免疫応答を阻害する物質(例えば TGF-β など)を分泌するものもあり,これによって,マクロファージやリンパ球の活性を抑制します。すなわち,腫瘍細胞は通常,人体に備わった異物を排除する抗腫瘍免疫(白血球が主体)から逃れたり阻害したりして生き延びているのです。

このため,がん患者の免疫力は一般的に低下しています。低下した免疫力を正常にもどす “免疫調節剤” が過去には使用されましたが,効果は限定的(あまり効かない)であるため現在はあまり使われていません。このため,がんワクチンは免疫作用を発揮する活性化 キラー T 細胞などを武器としてがん細胞と戦う訳ですが,同時にがん細胞自体の自衛力とも戦わなければならないのです。

荒田

実際には,どのようにしてワクチンを作るのでしょうか。

平岡

がん細胞表面にある特定たんぱく質 (提示抗原) が臓器別に異なりますので,がんワクチンの製法は千差万別です。

一般的には細胞培養法,がんペプチドの場合は合成する方法が主です。提示抗原が糖類である場合は合成か培養細胞からの抽出などが考えられます。この糖類抗原ワクチンは,最近アメリカで開発されつつあります。製法は公表されていませんので,コメントすることはできません。

2010年にアメリカで,進行性前立腺がんの治療を目的に,がんワクチン・プロベンジ (一般名シプリューセル-T) がFDAの認可を得たとの報道があります。しかしこれは,がん患者の血液を採取しその白血球を単離し前立腺特異抗原を加えてワクチンを作りこれを患者の体に戻すというもので,日本ではワクチンというよりは免疫細胞療法とよばれているものです。この療法は 3回投与で 約 8百万円を要し,通常のワクチンの値段ではありません。

荒田

がんワクチンのアイディアを世界で最初に発表し,使ったのはどなたでしょうか?

平岡

この質問は回答不可能です。理由はがんの治療薬 (ワクチンとしての注射薬) としてきちんと認可され,世にでたものが世界でまだ無いのです。名前がよく知られている丸山ワクチンは1940年代に開発されましたが厚労省から認可を受けられず,製法は “秘密” となっています。

丸山ワクチンは,丸山医師が結核患者にはがんが少ないことに着目し,BCG (結核用ワクチン)を改変して作製したものです (インフォーマル情報では,たんぱく質は含まれておらず多糖類とのことです)。がんワクチンと称せられるものには,日本では丸山ワクチンのほかに蓮見ワクチンが存在しますが,正式には認められていませんので,これが世界最初か否か検証のしようがありません。

荒田

医科研の中村祐輔博士がよく顔を出されますが,どのような貢献をされたのでしょうか。 

平岡

がんペプチドワクチンは現在,中村教授ばかりでなく他の教授の発案によっても複数の大学病院で種々のペプチドを使用して臨床試験が実施されています。数百種類が同定されているといわれているがんペプチドの中で中村教授の研究グループ特有の抗原性の強いペプチドを見つけてそれで臨床試験を行っておられるようです。

荒田

現在,日本の製薬業界はどのようにみているのでしょうか。

平岡

がんの特効薬発見が何十年の研究にもかかわらず困難な事情から日本の製薬会社の一部でもがんワクチンの開発が進んでいます。例えば,大塚製薬,塩野義製薬が臨床試験中であるとの新聞報道があります(日本経済新聞,2012/4/10)。

日本の製薬会社の研究所では “支持派” と “冷ややか派” に二分されているのではないでしょうか。外国でもイギリスの製薬大手のグラクソスミスクラインが開発中と伝えられています。今後の発展に興味がもたれます。ただし,過度の期待をよせるのは問題があると個人的には思っています。

荒田

“副作用” は,どうなっているのでしょうか。

平岡

ワクチンですのでもともと副作用が少ないように製造されているので一般的な薬よりは副作用は 少ないとされています。通常の抗がん剤に比較すれば副作用は大幅に少ないようです。

荒田

がんワクチンで,がんが完治した例はあるのでしょうか。

平岡

学問的に証明された完治例はないと思います。健康食品がある病気に効いたというようなニュースと同列の話としてはがんワクチンで完治したとの事例もあるのでしようが,科学的に証明されたもので はありません。

もともとがんワクチンと称されるものが使用されるのは,転移がん,手術後の転移防止薬としての例が多いようです。現在臨床試験中のペプチドワクチンでどういう結果がでるか興味がもたれます。

がん治療の方法としては現在,手術,抗がん剤使用,放射線(重粒子線などを含む)が使用されていますが,がんワクチンはまだ正式にこの段階に入っていません(がんワクチンの効果は完治ではなく延命効果の期待とされているようです)。

荒田

対象は,どのがんでもよいのでしょうか?

平岡

対象はすべてのがんが考えられますが,発生したがんの臓器によってその抗原(たんぱく質,ペプチド,多糖類などの目印)が異なりますので,それぞれ違ったワクチンを作る必要があります。例えば,胃がんなどでは異なった種類がいくつかありますので,それに合わせた抗原を使用して作ったワクチンが必要になるでしょう。従って がんワクチンは “テーラーメイド医薬” といっても過言ではないと思います。

荒田

まとめに,がん治療の将来について,創薬に長年携わってこられた立場からコメントをいただけませんか。

平岡

20世紀半ば以降,がんの治療に抗がん剤が使用されるようになってから長い時間が経過しました。1970年代には,20世紀の終わりまでにはがん治療の特効薬が開発されるであろうと多くの専門家が予想しましたが,この予想は見事にはずれました。

私は “がんの特効薬” は永遠に出現しないと思っています。しかし,数種類の薬を併用すればかなり効果が高い薬が開発される可能性はあると思います(現在でも「カクテル療法」と称して医師の判断で 2,3 種類の抗がん剤が併用使用されています)。それでも,第一に取るべきがん治療は外科手術です。

普通の病気は一つの原因で一種類の病気に至ります。例えば結核菌に感染し,体内で増殖すれば肺結核,膵臓からのインシュリンの供給が悪くなるとⅠ型糖尿病になります。

ところが,がんでは過度の紫外線,生体内で発生する活性酸素,喫煙,発がん物質の長期摂取,自らの体内にある性ホルモン,加齢など複数の原因でがんという一つの病気が発生してきます。20世紀の後半になって分子生物学の発展により現在までに,発がん遺伝子は100個以上,がん抑制遺伝子は数10個見つかっています。実験的には,ヒトの細胞では少なくとも3種類以上の遺伝子が変異しなければがんにはならないとされています。1つの遺伝子異常では細胞が無限増殖するがんは生じないのです。実際にはがん細胞では通常,数十から 百数十の遺伝子異常が検出されています。これらを総合的に考慮すると1つの薬でがんを退治することの困難さが理解されると思います。

日本では中曽根内閣の昭和59年(1984年)に「対がん10ケ年総合戦略」が開始されました。この第一次「対がん10ケ年総合戦略」に続いて,第二次は平成6年(1994年),第三次は平成16年(2004年)に始まり現在も続いています。すなわち約30年にわたり続いていることになります。

アメリカでもニクソン大統領が1971年に 「がん戦争宣言」を発し「国家がん法」の制定をして以来長い努力を続けています。世界でこれだけ長期間の「がんとの戦争」を続けながら終末は見えないのです。

荒田

以前,『がんとがん医療に関する23話 がん細胞の振る舞いからがんを考える』(薬事日報社,2009)を執筆していた折,雑誌Fortune に掲載された記事「がんとの闘いにアメリカが破れ続けているのは何故か」(Why we’re losing the war on cancer [and how to win it] (2004))を目にしました。Fortune のこの記事は,ニクソン大統領の提言に始まったアメリカ のがん対策研究を痛烈に批判するレポートとして日本でも話題になりました。

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この記事には,

1)2000億ドルは,15万855件の実験結果を生み出し,NatureScience などの評価の高い国際誌を含めて156万編の論文の発表に繋がったが,

2)研究の 80% 以上がマウスのほか,ショウジョウバエ,線虫を使ったものであり,人のがん医療に関する成果は,お話にならないほど少ない

と指摘されています。

この記事の題名は,正確には,「アメリカはがんとの闘いに 破れ続けているのは何故か」に続いて 「それではがんを克服するには今後どうすべきか」とあり,今後の研究にあたって国はどのような方針をとるべきかに関する建設的なコメントが4ページにわたって掲載されています。そこでは,“失敗の原因は,膨大な動物実験に基づく分子生物学的研究の方針自体である”と結論されています。つまり,Fortune の記事のタイトルは,正確には「分子生物学を中心に置く研究に巨額資金を投じたアメリカの国家プロジェクトが,がんとの闘いには破れ続けているのは何故か」(下線は筆者)と読むべきだと思います。

平岡

念のために付け加えておきますが,アメリカではこの巨大プロジェクトの発足以来,ヒトのがんの臨床と治療について,世界をリードする研究が着々と行われていることもまた確かです。

私は,京都大学山中教授の発見した iPS 細胞のような驚天動地の発見が,がん領域でも起こらない限りがんとの戦争は終結しないと考えています。これに関連して以下の2つのことが私には重要と思われます。

すなわち

(1)がん幹細胞を選択的にたたく方法の開発,

(2)Nature の随筆的文章の中の「がんについては進化論的にも考察する必要があるのではないか」との文章への考慮です。

「がん細胞は多様で生存競争も激しく、がんを進化生物学的にとらえることには利点があるかもしれない」(Nature, 454, 1046, 28 Aug. 2008)でした。

がんを進化論的に考察する場合には進化の過程でのウイルスの動態に注目する必要がありそうです。生命の発生起源はRNA ウイルスで。その後より安定な DNA ウイルスが生じそれらが生命体の発生・進化に貢献したと推定されています。

ウイルスではそのDNA,RNA がいとも簡単に生物細胞の DNA,RNA の中に入り込み,それを利用して自分自身を増殖させてゆきます。そしてある種のウイルスに感染すると,動物細胞ががんになることも知られています。

Weinberg らの研究によりヒト細胞に3つの遺伝子を導入すると, がんが発生することが発見されました。(Nature400, 464, 29 July 1999)。この事実から推察するとがん細胞に或る複数の遺伝子を導入すればがんが消える可能性があると私は思っています。しかしヒトでの遺伝子治療研究が数年前ぐらいまでは非常に注目されましたが途中で不幸にもその過程で血液がんが発生したため,これらの研究は現在下火になっています。

私は遺伝子治療で偶然にもがんが発生するのであれば,逆に遺伝子治療(導入)によりがんの根治が可能と考えています。しかし残念ながら現在人間の細胞内に遺伝子を効率よく導入する手段としてはウイルスを利用する以外に良い方法はないのです(効率が悪い方法は種々存在します)。さらに,このウイルス法を使用しても細胞内遺伝子の意図する場所に挿入することは現在は困難です。相同組み換えといって導入したい遺伝子と似た細胞内遺伝子配列の部分にアトランダムにしか入らないのです。しかし,どういう遺伝子を導入すればがん細胞が死滅する可能性があるかは現在全く知られていません。

山中教授は人間の遺伝子、約2万2千個の中から理研の林崎主任研究員のデータベースを使用してコンピュータにより約100個に絞り込み、その他の手段でこれを 24個 に縮め,最終的には実験を行い,iPS 細胞作製に必要な 4個 (山中因子とよばれています)を発見したといわれています。このコンピュータによる絞りこみにはついては山中教授は多くを語っていませんし,マスコミ も報道していません。 非公式な噂では自分自身でソフトウェアを開発して,それを利用したとの風評がありますが真偽のほどは不明です。

私見ですが,がん撲滅遺伝子発見にも この方法が可能か否かの検討が待たれます。

残念ながらこのNature の中の文章はこれ以上の解説は何もありません。私なりにコメントを付け加えるならば以下のようになります。

高等生物は進化の過程で或る細胞に異常が生じた場合は修復する機能が働くようになっています。しかしこの修復が不可能の場合は「アポトーシス(apoptosis)」という自殺遺伝子が働き細胞は死んで排除される仕組みになっています。がん細胞ではこの仕組みが働かないのです。原因としてはがん細胞が放出するある物質の作用など複数のものが考えられますが真相は不明です。

この原因がある生化学的一連の連続反応で起こる場合には,どこか1か所を阻害するか活性化するかによって修理が可能ですが,これが複数の原因で起こっている場合は対応が非常にむずかしくなります。実際のがんでは,この同時多発の複合原因によりアポトーシスが起こらないと推察されます。

ダーウィンの進化論では「強いものが勝ち残っていくのではなく,環境変化に順応できるものが生存競争の勝者となる」と解説されています。すなわち,がん細胞が生体内の変化に順応して何億年(?)の間に進化をとげて生き残る戦術を獲得してきたのであれば何か革命的アイディアをださない限り根本的解決は不可能であると私は考えます。

これは別の表現をすれば,神様の領域に踏み込むことを意味します。


つづく





by yojiarata | 2012-12-17 13:12 | Comments(0)
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